姉妹で、想い出ばなし
友人ふたりとはさんざんはしゃいだあと、また月曜日に学校で会うことをおおげさに約束して、じゃあね、と手を振って、部屋の玄関で別れた。
次の週末は、友人の家に遊びに行く番だ。私たちは三人は、三回で一周するようにお互いの家を訪ねている。自分の家に来てもらう順番のときには用事でもないかぎり駅まで送るとかそういうことをしない。それぞれひとり暮らしで、三人という人数で不安なく調和するための、小賢しい私たちのちょっと切羽詰まった決まりごとなのだ。
バタン、と音を立てて閉じた扉を見たら、多少はさみしくなるかなっていつもぼんやりと期待するんだけど、まあこんかいもそんなこともなく。
ふたりともマナーのとてもよいひとたちだから、部屋はふたりが来る前よりも片づいていて、私はワンルームの部屋に戻って、ふう、とわざと言ってみてから、ベッドに座った。
だから、さみしいとかじゃないってことだけは、私は自分自身になんどもなんどもきついほどの口調で、言いわけした。さみしいわけじゃなくて。恋しいとかでもなくて。違くて。あえて言えば、事実確認? 史学科生らしく言うならば、歴史の関連性とか一回だけの具体性とか歴史の必然とか、うん、まだ一年生だしよくわかってないんだけど、ああ、もう、なんだっていいや、って。
スマホの電話帳を開く。その件名は、おそらくいちばん開かない部類に入る。もうつきあいのない中学の同級生だって電話帳に入ってる以上いままでいちどはメールした可能性が高いのに、それ以下だ、メールしたことなどいままでいちどもないのだから。
そもそも電話番号が入っているかどうかさえも不安だったけど、自分の名前と両親の名前の下に、その名前はたしかに、あった。
伊鈴と萌香。それぞれの名前の頭のひらがなを小学校でよく使ったひらがな表にすれば、とても遠い距離。萌香の名前が電話帳に入っているかどうかさえもあやふやだったのは、そういうことだったのかもしれない。萌香とは、私が実家に帰れば表面上は穏やかにあいさつくらいするようにはなったけど、意味のある会話をすることもなくなった。互いのメッセンジャーのIDも、メールアドレスさえ知らない。だから電話番号を入れたのは、ずっと、ずっとむかしのことのはずだ。そう、たぶん、私と萌香が不本意なお子さまケータイを持たされていたころ。機種も色もお揃いなことが、すごく嫌だった。
仲の悪い姉妹だ。同級生が姉妹で手をつないで買いものに行く話なんか、信じられなかったし、信じられないぶんきらきらとした理想のようで、憧れた。帰ると萌香が癇癪を起こしていたりして、どうして私の妹は萌香なんだろう、とっかえっこしてくれればいいのに、といつも憂鬱だった。
はっきり言って萌香のことはいまでも嫌いだ。
だから、いまになって話したいとかいうわけではない。仲直りとかいう以前に、仲などいうものがそもそも萌香とのあいだに存在したためしはない。想い出を共有して盛り上がりたいわけでもなければ、いまさら謝りたいわけでも、謝ってほしいわけでもない。
そう……事実を、確認するってだけ。
意を決して、通話ボタンをタップした。
プルルルル、プルルルル、プルルルル……と。
予想に反して、三コールで萌香は電話に出た。背後にはさわさわと人の気配がある。
「……もしもし? え? お姉ちゃん? お姉ちゃんなの?」
「うん。伊鈴です。たいした用じゃないんだけど。いまちょっといい? 外?」
「ああ、うん、外っていうか……ちょっと待ってて。ちょっとお姉ちゃんから電話来たからー、えっうんいるよ、私、お姉ちゃんいるいる、言わなかったっけ? トーキョで大学生してんの」
男女の混ざった和やかな笑い声。まじかよーっ、と突っ込みが入って、どんな姉ちゃん? などと質問攻めに逢っているっぽいが、バタン、と扉を閉める音がして、その音はふっと遠ざかった。
「なに」
仲間たちと話すときと違って、キン、と冷たい声。……ああ、萌香も萌香で、こういうとこ変わってないんだなあ。
「いまってゆっくり話できるの? 時間とかタイミングとか、だいじょぶ?」
「だいじょぶじゃないに決まってんじゃん。パーティーだよ、ホームパーティー。ぼさっとしてるひとにはわかんないかもしれないけどー、高一のこの時期ってもう、ほんと、冗談抜きでガチでだいじなんだからね?」
小声で、早口。こういち、っていう言葉が高校一年生という意味だと頭のなかでつながるまでに、わずかなタイムラグがあった。
萌香が私ではないひとたちに喋りかけていたときの、楽しそうだけれども馴染みきっていない声。たぶん、高校でできた友だちなのだろう、と思った。仲よくするために必死なんだろう、とも。
そんな萌香を……私が、馬鹿にできるだろうか。運がよくて、たまたま、大学で友人にめぐりあえただけの私が。
「そっか。萌香いま、高校一年だもんね」
「はぁーっ? そうだよ。いまさら……っていうかほんとなに。なんかあったの? 用があるなら早くして」
「……天王寺未来くん。って、覚えてる?」
「……はあ?」
威嚇みたいなふだんのそれとは違って、本気で訝っているような声だった。
「ほら……天王寺未来くん、だよね。名前。同級生で、幼稚園の……いたじゃない、いっかいすっごいお屋敷遊びに行って……」
「……あぁ」
いかにもいまこの瞬間思い出しましたみたいなわざとらしい言いかたは、素なのか、ほんとうにわざとなのかはわからない。
「うん、そう、その子……その子っていま、どうしてるの?」
「知らないよ。幼稚園の子とかさすがにもうよく覚えてないし、よくわかんない」
「いまって交流は、ないの」
「ないよ、そんなの、大むかしじゃん……っていうかなにほんと。未来くんがどうかした?」
未来くん、と名前を言うとき、最初がツンと上がり調子になって一気に急降下するところは、変わらない。
「どうもしないけど、ちょっとね、ふと思い出して。ねえ、あの日さ、未来くん家行ったことあるじゃない。私嫌だったのに、あのころ、お母さんによくついてくように言われてさ。仕方なーくで。そのときさ。……コロちゃんっていたの、覚えてる?」
「あー、あんときお姉ちゃんいっしょだったんだっけ……よく覚えてないわ。幼稚園のときのことなんて」
「うん……でも、コロちゃんのことは覚えてる?」
「犬がいたよね。それは覚えてる。ってか、それを口実に家に行ったんだし」
――あれっ、と。
犬がいたよね、などとどうしてそんな……萌香はあっさりと言うんだろう。
「あの子……あの子のことさ、私、思い出したの。じつはさっき友だちとも喋ってて。あの子、どうしてるのかな。助けてもらえたのかな。いまも、あのお屋敷にいるのかな」
「ちょっと……ほんと、おかしいよ、どうしたの。よく覚えてないんだけど。未来くんの犬のことでそんなに騒ぐのおかしいよ。ねえ、だいじょうぶ?」
「だってあの子――」
つらそうだったじゃない、と言いかけて、ふと思い当たった。
スマホを握る手にぎゅっと力がこもる。
もしかして……もしかしたら、だけど、萌香は萌香であのときの衝撃が大きすぎて、コロちゃんがふかふかの毛皮ではなく、剥き出しの肌色だったことを、忘れているのかもしれない。……トラウマだなんてひとつもなさそうな子なのに。
「お姉ちゃん? もしもし? ねえ、もしもし?」
「……ううん。なんでもない。ごめんね、変なこと言って」
「ごめんね、って……」
かさり、と空気が動く気配がした。
「……珍しいじゃん。お姉ちゃんが、そんなの」
「そうかな……」
「うん。おかしい。……むかしから私にだけはぜったいに謝らないひとだったのにさ」
沈黙。
「……なんか。よくわかんないけど。覚えてるよ、未来くんの家に行ったことだったら。……そんで、なんかほら、お姉ちゃん、壁だっけ? 漆喰とかっていうの? 知らないけど。白い壁。真っ白なお屋敷の壁。あんときさ、けっきょく最後はお姉ちゃん、あれに夢中だったじゃない。あのときまだそっちだって小学生でしょ。お手伝いっぽいおばあさんも驚いてたじゃない。変な子ね、みたいな顔してさ」
その話は――覚えてない。
「……そうだっけ? でもあのとき私たち、ふたりで逃げて帰ったんじゃ……」
「はあ? 違うよ。廊下でトイレ探して迷子になってたの、あのお手伝いのおばあさんが見つけてくれて、もう帰るって私たちがむずがるから、おばあさんがまた家まで車で送ってくれたんじゃん。というかあの距離とあの坂はちっちゃい子の足じゃ無理」
「……そうだったんだ。壁」
壁――じつはそれは、私が大学で勉強したいことでもあった。いつからかは、自分ではわかっていなかったのだ。ただ私は小学生ごろからぼんやりと、建築物の壁を見たりさわったりするのが大好きだった。壁の図鑑がほしいなんて両親に無茶言って、探したけれどないから諦めろ、と言われたときにはそれこそ萌香以上にぎゃんぎゃん泣いた。でもそのおかげで、私は自分で壁ノートなるものをつくって、いろんな壁を記録していた。そうしたら私の行き着く先は日本のお城の壁だった。だから、建築物も含めて日本史の勉強がたくさんできそうないまの大学の史学科を選んだのだ。壁がやりたくて。
高校までの友だちには、そんな動機、いちども言ったことなかった。……家族にさえも、史学科を受けた理由はぼかして、はっきりとは言わなかった。
「でもまじでさ、お姉ちゃんもけっこう変な子だったよね。でも、だから歴史学科? だっけ? 行ったんでしょ?」
「……えっ?」
――まるで思考を読まれたかのようにそう言われて。
「私はそんなの知らなかったけど。お母さんがそう言ってたよ。鈴ちゃんは白い壁が好きなのねーって。それだから家族旅行が地味なお城になっちゃったんじゃん。どうせ城なら外国のお城がよかったのにさー」
恨めしげに文句を言う妹の声は、けれど、どこか茶目っ気がある。
「ま。むかしから変なひとだってことは知ってるし。私にはよくわかんないけど。用ってそれだけ?」
「あ、うん……」
「だったら切るよ。忙しいんだよね、高校生っていうのは。あ、あと用件あるならこんどからメッセにしてよ。こんなことでいちいち電話されてたらウザくってたまんないし」
「でも私、電話番号だけで、メッセのIDなんか知らない……」
「そんなのお母さんにでも訊いといて」
「あっ、待って萌っ」
「……なに。まだあんの?」
「萌、萌は……犬が、いま、好き?」
ふっ、と笑う気配がした。
「嫌い。なんか見てて恥ずいし」
「でも、未来くんのことは好きだったんでしょう」
「べつに。あの子、犬ばっかかわいがってて、やんなっちゃった。そろそろいい? いいかげん切るよ、そんじゃね」
電話は切れた。一方的に耳に飛び込んできた、ツー、ツー、という音は、ふだんならばなんとなく嫌なのに、いまはふしぎと無機質には聞こえなかった。ずっとスマホを耳に当てているわけにもいかないので、手に持って画面を見つめる。
窓の外に目をやれば、秋の平和な午後もそろそろ終わる。
私は、あんがい、いろんなことを知らないのかもしれない。いや。もしかしたら、まだなにひとつこの世界のことなんて知らないのかも。……たとえば妹がほんとうはあの想い出をどう捉えているのかだって、知らない。変な想い出と私が呼ぶあの幼い日の真夏は、想い出だから、きっと事実とは違うこともたくさんあって。
穏やかな笑みをしっかりと浮かべた未来くん、泣き喚くコロちゃん、そんなコロちゃんを静かに蹴り続けていた未来くん、萌香にドラマのおとなみたいに耳打ちしたこと、小さかった萌香の手を引いて部屋を出て、ふたりで叫んで、どこか、どこかへ駆けたこと……。
萌香のなかでは、違うのかもしれない。萌香がもしもだれかにあの想い出を語ったときに、萌香は、変、という言葉さえも使わないのかもしれないし。妹が、だれかだいじなひとにあの夏の日のことを語っているところは、うまく想像できなかった。
たぶん、おなじことを体験していても、違うのだ、その意味も印象も、なんなら想い出そのものだって。
でも。そういうものなんだろうな、きっと。
ベッドに仰向けに倒れ込む。
「……あー」
ごつ、ごつ、と出っ張りのある白い壁に両手でさわって。
壁を、愛しいものであるかのように、撫でて。
歴史というのはなんてふしぎなんだろう、って、そんなことを、思った。
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