第7話 恋冷ましの花

 暑い夏も盆が過ぎれば、そこはかとなく風が吹く。

 しかし、その風はまだまだ単なる熱気の流れ。

 だが少しばかり感性を尖らせれば、少々の清々しさも混じっていることに気付く。

 そんな秋の忍び寄り、その8月の終わりに、優也ゆうやは車を駆け、妻の夏帆なつほと出掛けて来た。

 そこは山峡の温泉地。

 目的は――、特にない。

 されどもあえて言えば、結婚して10年、この辺りで二人だけで一休みでもしてみようかということだ。


 緑深い山あいにある鄙びた宿。下には清流が流れている。

 そんな温泉宿に、二人は午後4時過ぎに着いた。

 山と川が一望出来る部屋に通され、二人は早速温泉につかった。

 誰もいない露天風呂。

 そこへ谷川から駆け上がって来る涼風。そして清流の瀬からの水の響き。

 そんな中で湯にゆったりとつかり、二人とも疲れを取った。


 今、優也は景色を眺めながら窓際でビールを飲んでいる。

「夏帆、こうして二人だけで、温泉に来るのも何年振りかなあ?」

 優也は婚約時代のことを思い出し、夏帆に声を掛けた。

「そうね、あれは確か婚前旅行だったよね、だから11年振りくらいじゃない」

 浴衣姿の夏帆はそう追憶しながら、気持ち良く涼んでいる優也に寄り添って来る。

 そんな二人の紅潮した頬を、深山みやまからの風が優しく擦って行く。


「優也ありがとう、私、今まで幸せだったわ」

 妻の夏帆が遠くの方を眺めながら一言呟いた。

 優也はそんな言葉を聞いて、夏帆が愛しい。

 夏帆の肩にそっと手を回し、優しくキスをする。

「これからも仲良くやって行こうね」

 優也は、こんな場面ではそんな言葉が当然かのように、そう夏帆に囁いた。

「まあ、……、そうだわね」

 夏帆は少し自信がなさそう。

 しかし優也は、そんな事には気付かなかった。


 そんな二人だけの一時、「失礼しま~す」と遠慮なくふすまが開き、宿の女将おかみが入って来た。

 わざわざ歓迎の挨拶に来てくれたのだ。

「ようこそ、こんな辺鄙へんぴな所までお越し頂きありがとうございます、ごゆっくりお過ごし下さいませ」

 そんな通り一遍の口上があった。


 そしてそれが終わった時に、優也は女将に聞いてみる。

「明日この辺りを少し歩いてみたいのですけど、どこか面白いというか、興味がそそられるような所はありませんか?」

 女将は突然の質問に、「そうですね、この辺は何もないところですからね」と少し戸惑った表情をする。

 だが優也は「ちょっと風変わりな所でも良いのですよ」と食い下がる。

 すると女将は、ぽつりと口にする。

は、どうかしら?」と。


 優也も夏帆も、唐突に、それを耳にして興味が湧く。

「それって、どんな滝なんですか?」と、優也はすぐに聞き返す。

「まだ世間の皆様には、よく知られていないのですが……、この川の上流にあるのですけどね」

「へえ、この上流に、そうなんですか、怨念の滝がね」

 優也と夏帆は怨念と言う言葉に、なにか因縁めいたものを感じたのか、口元が微妙に歪む。

 そんな二人の僅かな変化を見て取り、女将は座ったまま1尺ほど前へと進み出る。

 それから少しばかり誇らしげな表情で、「その滝の付近に、夏の終わりに咲く花があるのですよ、今がちょうど見頃かも知れませんね」と紹介する。

 これに優也と夏帆は口を揃えて、「それって、何と言う花ですか?」と訊く。

 すると女将はもったいを付けるように小声で、しかしきっちりと囁き返す。

恋冷こいさましの花、――、と言うのですよ」


「えっ、って、それって、どんな花なんですか?」

 夏帆は好奇心がそそられたのか、黒目がキラキラっと光る。

 女将は、これにて客の心を鷲づかみ、その自信が嫌みにならないよう、「大きさは3センチ位でしょうかね、真っ白でね……、可愛い花なんですよ」とボソボソと語る。

 これに二人は鵜の目鷹の目で、「今、たくさん咲いているの?」ともう止まらない。

「薬草なんですが、この夏の終わりの一時だけ、そうですね、今がその時季で、きっと咲き乱れていると思いますよ」


 優也も夏帆も興味津々。

 女将の言葉を聞き逃さず、間髪入れずに「何の薬草?」と問い返す。

 すると女将は、もうお話しさせてもらったでしょと微かに笑みを零し、たった一言。

ですよ」と。


 されども優也と夏帆は全体像が見えてこず、充分に理解出来ない。

「怨念の滝とか、薬草の恋冷ましの花とか、何か伝説でもありそうですね、もし宜しければ、それを話してもらえませんか?」

 優也は女将に頼んでみる。

「もちろん言い伝えはありますよ、だけどあまり幸せな昔話ではないので……、よろしいのですか?」

 女将がじっと見つめてくる。

 これに優也と夏帆は「是非お願いします」と、言葉を合わせた。

 女将は「あまりうまくないですが……」と一応渋々ではあったが、今一度姿勢を正し、「じゃあ」と語り始める。

 その『恋冷ましの花』の伝説、それはことのほか哀切極まりない物語だったのだ。



 時代は、そうですね、それは随分と昔のことでした。

 この山奥に、それはそれは仲の良い夫婦、作蔵さくぞう夕月ゆうづきが住んでいました。

 二人は山で薬草を摘んでは、町の大きな薬問屋に持って行き、薬草を売って生計を立てていました。

 その薬草の中でも、一番高価なものが恋冷ましの花の根っ子です。


「恋の病は、草津の湯でも治らない」

 世間ではそう言われていました。

 しかし、この恋冷ましの花の根っ子を煎じて飲めば、恋の熱はさあっと見事に冷めてしまいます。


 だけどその根っ子、なかなか手に入れることが出来ません。

 と言うのも、それがどこの土の中にあるのかよくわからないのです。

 そういう事もあってか、大変貴重な薬草でした。

 そんな薬草の恋冷まし、夏の暑い盛りを過ぎた頃の、ほんの一時だけ、可憐な白い花を付けてくれます。

 作蔵と夕月は、毎年花が咲いた時に、その在処ありかを憶えておき、一年通してその根っ子を取り過ぎないように薬草狩りをしていました。


「作蔵さん、御苦労様でした、今日はどれくらい採れましたか?」

「三束ほどだけだよ、でも明日町へ売りに行って、帰りに夕月にかんざしを買ってきて上げるから」

「いいのよ、簪の代わりに、作蔵さんの好きなお酒を買ってきて頂戴」

 二人の暮らしは実に貧しいものでした。

 しかし二人は互いに愛しみ合い、幸せな日々を過ごしていました。


 ある夏も終わる日、作蔵は山の仕事を終えて、夕月と二人で談笑し、ゆったりとした時を過ごしていました。

 そんなところへ、突然どこからやって来たのか、若い男女が家を訪ねて来ました。

 こんな山奥の陋屋ろうおくに、男女が来ることは今まで一度もありませんでした。


「どうなされましたか?」

 作蔵は恐る恐る尋ねてみました。

 すると若い男が申し訳なさそうに話すのです。

「私達は孝吉こうきちとおことと申します、この山で道に迷ってしまいました」

 そして拝むように、「一晩だけ、泊めてもらえないでしょうか?」と頭を下げてきました。


 だけれども作蔵は二人に見覚えがありました。

 どこかで見たことがあります。

 そして、はっと気付いたのです。

 若い女のお琴は、お世話になっている薬問屋の一人娘。

 そして男の孝吉は、そこの奉公人でありました。


 事情を聞いてみると、若い二人は切っても切れない恋仲でした。

 しかし身分が違い過ぎ、旦那様の許しが得られません。

 そこで駆け落ちをして、江戸の方へと逃げて行く腹づもりだとか。

 その途中、この山の中で道に迷ったとのことでした。

「まあそれは大層なことですね、さあさあ中へお入り下さい」

 作蔵は親切に二人を家へと招き入れました。

 そしてささやかではありましたが、夕飯を分け与え、寝床も用意したのです。


 しかし、作蔵は困惑してしまいました。

 薬草を買ってもらっている薬問屋の一人娘が、突然男と迷い込んできたのですから。

「夕月、困ったなあ、旦那様に二人をかくまったと知られてしまえば、怒られるだろうなあ、それでもう薬草を買ってもらえなくなるかもなあ」

 しかし夕月は落ち着いていました。

「作蔵さん、私に良い考えがあります、薬草の恋冷ましを煎じて、飲ませてみましょうよ」


 確かにその通りでした。

 恋の病には恋冷ましの花の根っ子が効く。

 作蔵は早速それを煎じ、お茶に入れて、こっそりと二人に飲ませてしまいました。

 すると、その効果は覿面てきめんでした。

 一夜明けて、あれほど恋に燃えていた孝吉とお琴が、どことなくよそよそしいのです。

 きっと二人の恋の熱はもう冷めてしまったのでしょう。


 奉公人の孝吉は、朝起きて考えました。

 お嬢さんのお琴を連れて、この山奥に迷い込んでしまった。

 それは駆け落ち。

 だけどそんな事を言っても、誰も信じてくれないだろう。

 下手すれば、これはお嬢さんを誘拐したことになってしまう。

 今頃、薬問屋では大騒ぎになっているはず。

 もう元の勤めには戻れない。

 そうならば、もう縁切りしかない。

 孝吉はこう思い至って、朝早くお琴を捨てて、一人でどこかへと消え去って行ってしまったのです。


 一方お琴はお琴で、朝目覚めてから落ち着きません。

 なぜ奉公人の孝吉と、こんな山奥まで逃げて来てしまったのだろうか。

 熱い恋が冷めてしまった今となれば、自分でもそれがよくわかりません。

「早く家へ帰りたい」

 お琴はそんな事を急に言い出したのです。

 作蔵はその日薬草を問屋に届ける予定がありました。

 それでその足で、お琴を旦那様のもとへ連れ戻すことにしました。


「お琴さん、作蔵がお家まで道案内させてもらいますので、御安心下さいね」

 夕月は心配そうにしているお琴に声を掛けました。

「よろしくお願いします」と、お琴は殊勝に返してきました。

「だけど、この山奥から町への道のり、喉も乾くでしょう、……、このお茶をお持ち下さい」


 お琴の恋は、薬草・恋冷ましでとっくに冷めてしまっていました。

 しかし、その効き目は、家に着くまで持たなければ意味がありません。

 もし効き目がなくなれば、また奉公人の孝吉を追い掛けることにもなり、元も子もありません。

 夕月はそれが心配で、恋冷ましのお茶が入った竹筒をお琴に渡したのです。


 しかし、その心配の度が過ぎたのでしょう。

 夕月は口を滑らしてしまうのです。

「お琴さん、昨夜、恋冷ましのお茶を飲まれて、恋の熱はもう冷めてしまったのですよ、もう元に戻らないように、恋冷ましのお茶をこの竹筒にも入れておきましたから、――、帰り道でも、時々これで喉を潤されて、気持ちをより確かなものにして下さいね」

 お琴は最初これを聞いて驚いた様子でした。

 だけれどもすぐに、「はい、ありがとうございます、孝吉との恋はもう終わりましたから、また新たな恋でも見付けますわ」と、冗談ぽく返してきました。

 これで夕月は安心をしてしまったのです。


 お琴は元々気ままな性格で、意地悪な娘でした。

 一方作蔵は働き者で、背が高く、なかなかの美男子でした。

 お琴は作蔵に送られて山を下りて行く道中、思い始めたのです。

「夕月に、なぜこんな良い男が? 山奥に住む女、夕月なんかに私負けたくないわ」と。


 お嬢さん育ちのお琴、今まで何でも手に入れてきました。

 そして今、作蔵を自分のものにしたい。

 そんな欲望を膨らませてしまったのです。

 お琴は作蔵に可愛く話し掛けます。

「ねえ作蔵さん、喉が乾いてるでしょ、――、このお茶を飲んで下さいね」


 愛する妻がお琴のために用意したお茶。

 作蔵は、そこに恋冷ましの薬草が煎じられて、入っているとは思いませんでした。

 大事なお嬢さんを連れての道案内、作蔵は緊張していたのか喉が渇き、「頂きます」と返事をして、それを飲んでしまったのです。

 その結果、不幸な事が起こってしまいました。

 これにより作蔵の妻・夕月への愛情が冷めてしまったのです。

 そして作蔵は、お琴の甘い誘惑に引っ掛かり、お琴のとりこになってしまいました。


 あの夏も終わる日に、作蔵はお琴を送って行くために山を下りました。

 しかしその日、山へ戻って来ませんでした。

 翌日も、そして翌々日も。

 1週間が経ち、そして1ヶ月が経っても戻って来ませんでした。


 だけど夕月は作蔵を信じていました。

 しかし、不幸の挙げ句の果てに、夕月はただただ作蔵の帰りを待つばかりの、一人暮らしになってしまったのです。


 山の季節の移ろいは速いものです。

 夏から紅葉の秋へと移り、そして白雪の冬へと。

 それから雪解けとなり、そして桜花爛漫の春へ。

 さらに季節は巡り、青葉が目に痛い夏へと。

 1年の月日が流れました。

 夏山は蝉時雨せみしぐれ

 それはそれは騒々しいものです。


 しかしそれも一時のもの、秋を予感させる涼風が吹き始めました。

 そんな昼下がりに、作蔵がひょっこりと夕月の所へ戻って来ました。

 だけど、それは悲しいことでした。

 なぜなら、お琴を連れてだったからです。

 それは戻って来たと言うよりは、二人は駆け落ちをして、町から逃げて来たのです。

 作蔵はお琴に夢中でした。

 そして、夕月の事をすっかり忘れてしまっていました。


「作蔵さん、私、1年待ちました、もう一度ここで私とやり直しましょう、だからお琴を追い出して下さい!」

 夕月は心からそう訴えました。

 しかし、薬草の恋冷ましを、お琴から飲ませられてからの作蔵、気持ちはもう夕月にはありません。

「夕月、おまえには世話になったと思っている、だけど、ここでこれからお琴と暮らしたい、だから夕月、……、おまえが出て行ってくれないか」


 夕月は泣きました。

 とにかく悲しかったのです。

 そして夕月は覚悟を決めました。

「わかりました、だけど今夜一晩だけ……、作蔵さんの好きだった夕飯を作らせて下さい」

 夕月はそう言って、二人に食事を勧めました。


 それを遠慮なく食べた作蔵とお琴。

 苦しみながら、二人とも死んでしまいました。

 それは、夕月が盛った鳥兜とりかぶとの毒で。


 その後、夕月は作蔵の身体を滝まで引きずって行きました。

 そして作蔵と共に、その滝壺へと落ちて行ったのです。


 そんな出来事があってからです。

 その滝壺の周りでは、夏の終わりの――、ほんの一時だけ。

 真っ白な恋冷ましの花が、狂ったように咲き乱れるようになりました。

 それはまるで、「お琴が憎い、作蔵さん、どうかお琴との恋を早く冷まして下さい、山ほどの恋冷ましの花を、ここに咲かせてみます、だから早く花を見つけて頂戴。そして、この怨念の滝の、恋冷ましの水を一杯飲んで下さい」と、夕月がその暗い情念を滝壺の底から叫んでいるかのようにです。



 宿の女将が語った『恋冷ましの花』の伝説、それはこんな恨み節で終わっていたのだ。

 そして優也と夏帆は、こんな胸が切なくなる悲話を聞いてしまった。

 夜ともなり、どうも寝付きが悪い。

 寝返りを何回も打ち、悶々とした一夜を過ごす。

 こんな長い夜だったが、やっと白々と明けてきた。

 こうなれば、二人は眠ることを諦め、早めに床から抜け出した。

 そして朝の散歩代わりにと、怨念の滝へと出掛けてみる。


 盆が過ぎたとは言え、時節はまだ夏。

 したがって、気温はまだそこそこ暑いはず。

 されども、そこにはひんやりとした霊気が漂っている。

 その上に湿りがあり、薄暗くて陰気。

 なぜかぞくぞくっとするほど肌寒い。


 そんな陰鬱いんうつさを破るように、滝が10メートルの落差で落ち、轟々ごうごうとその響きを轟かせている。

 そしてその滝壺はどこまでも深く、濃い青さで波打っている。

 こんな滝壺の底深くへと、夕月は夫・作蔵の亡骸を抱きかかえながら身投げし、そして沈んで行った。

 その無念さが、深遠な滝壺から白い水煙と共に舞い上がってきている。

 そして、今にもその手が……、水面下から、にょっきりと現れて来そうだ。


「優也、なんとなく怖いわ、やっぱり怨念の滝なのよ、――、夕月の恨み辛みを感じるわ」

「ああ、本当だね」

 朝早く歩いて来た二人。

 何かに威圧されてのことなのか、こんな会話しか出来ない。

 そして今、怨念の滝を前にして、二人はその神秘の凄さに絶句し、茫然と突っ立っている。

 滝の周りには、可憐な白い花が群生している。

 それらは恐怖とも言える雰囲気をそこはかとなく和らげている。


「優也見て、あの白い花たち、綺麗だわ」

 夏帆が優也に声を掛けてくる。

「あれが恋冷ましの花だよ、――、あの根っ子を煎じて飲むと、恋の熱が冷めてしまうんだよね、きっと」

「そうなのね」

 夏帆はそう呟いて、深く頷いた。


 二人はこの世のものとは思えない情景に圧倒されている。

 しかし、はっと気付く。

 よく見ると、青くて暗い怨念の滝を包む恋冷ましの花、それらが二人の足下まで咲き及んで来ているのだ。


 夏帆は近くの花を一輪摘み取る。

 そして優也から離れて行き、滝壺にそれを放り投げる。

「夕月は、あの辺りに飛び込んだのでしょうね、……、まだお骨は作蔵と一緒に、滝壺の底に眠っているのかもよ」

 夏帆はそう呟き、手を合わせる。

 それにつられてか、優也も滝壺に手を合わせ、そっと目をつむる。


 まさにその瞬間だった。

 夏帆はそっと屈み、その手が素早く動く。

 足下に咲いている恋冷ましの花。

 その根っ子を、根本からごそっと引き抜いた。

 そして合掌する優也に気付かれないように、手際よくバッグの中へと仕舞い込んでしまった。


 優也はしばらくの祈りの後、静に目を開ける。

 すると白い花々に囲まれ、青々とした滝が目に飛び込んでくる。

 優也は美しいと心底思った。

「夕月は寂しかったろう、もう辛抱することはない、現世に戻り、好きなように生き直してみたら」

 優也は穏やかに、そんな誘いの独り言を呟いた。


 それから夏帆の方へと振り返ってみると、まだ手を合わせている。

「夏帆、もういいだろう、しっかり拝んだのだから、もう帰ろうか?」

 優也は、きっと衝撃を受けたであろう夏帆に優しく声を掛けた。

 夏帆はその声で気を取り戻したかのように、はしゃぐように返してくる。

「そうしましょ、だけどこの場所、結構刺激的で面白かったわ、……、収穫ありよ」

 夏帆はそんな事を言いながら、優也の腕にぶら下がってくる。

 優也はそんな夏帆が愛しく、ぐっと抱き寄せる。

 そして二人は、来た道へと帰って行くのだった。


 青々しい怨念の滝。

 そしてそれを覆い尽くすかのように、咲き乱れていた白い恋冷ましの花。

 優也と夏帆の二人は、滝壺に向かって夕月の成仏を祈った。

 そんな夏の日から3ヶ月の月日が流れた。

 そして、今、二人はテーブルを挟んで向かい合って座っている。

 信じ難い事だが、そのテーブルの上には、離婚届の用紙が置かれている。


「ねえ優也、もう良いでしょ、私達の関係に終止符を打ちましょう」

 夏帆はあっさりと言った。

 それに優也は淡々と答える。

「ああそうだね、もう二人は燃えなくなったしね、――、どこに印鑑を捺せば良いの?」

「ここよ」


 あれだけ仲の良かった優也と夏帆。

 一体どうしてしまったのだろうか。

 二人はあの怨念の滝を訪ねた。

 そして恋冷ましの花に包まれ、夕月の怨念に染められてしまった。

 それ以来、優也の夏帆への熱が冷めてしまったのだろうか。


 いや、違う。

 夏帆がこっそりと持ち帰って来た恋冷ましの花の根っ子。

 夏帆はそれを煎じ、優也に飲ませてしまったのだ。

 しかもそれは思惑通りに。

 こんな出来事を経て、離婚が成立してしまった。

 優也と夏帆は別々に暮らし始めたのだ。


 それからそう月日が経たないクリスマスの頃だった。

 優也は街で見てしまった。

 他の男の腕にぶら下がり、楽しそうに歩く夏帆を。

 まことに幸せそうだ。

 そう言えば、夏帆は確かによく優也の腕に絡んできた。

 しかし、よく眺めてみると、今の夏帆の方が男の腕への絡み方が深く、活き活きとしている。

「そうか夏帆は、あの男と……、ずっと以前から付き合ってきていたのか」

 夏帆の虚像を真実と思い、もっと愛をはぐくもうとしていた優也。

 今日、夏帆の実像がはっきりとわかった。


 しかし、優也にとって、不思議なことだが、それは大きな怒りにもならなかった。

 もう夏帆の事はどうでも良いのだ。

 そして、ただ一つだけ思う。

 妻に、こいつとんでもなく邪魔だと思われて、鳥兜の毒を盛られ、作蔵のように殺されなくて良かったと。


「夏帆を見るのも、これが最後になるかもなあ」

 優也はそう呟き、夏帆という女との10年の縁を思い出す。

 そして他の男とじゃれ合って歩く夏帆を、もう一度遠くから眺めてみる。


 その時だった。

 優也の背中が……、背筋がゾオーと凍り付く。

 優也はそこに、――、目にしたのだ!


 それは……、

 幸せそうに、ルンルンと歩く夏帆の後ろを

 全身水に濡れた夕月が

 離れまいと一所懸命に

 後を着いて行くのを。


 そう言えば、あの時、優也は怨念の滝の底に眠る夕月に話し掛けてしまった。

「夕月は寂しかったろう、もう辛抱する事はない、現世に戻り、好きなように生き直してみたら」と。


 今、

 滝壺の奥底から這い上がって来た夕月が……

 夏帆の後を

 びしょ濡れの裾を引きずりながら

 羨ましそうにトボトボと着いて歩いている。

 

 きっと、今の世に蘇った夕月は、我がままなお琴のように。

 さらに、男を乗り換えた夏帆のように、

 恋と愛に――。


 自由奔放に

 生き直したいと思っているのだろう。


 そんな刹那に、優也は夕月からの湿った声を耳にする。

「ねえ、夏帆さん、……、もうそろそろ交代しましょうよ」


 夕月が夏帆に着いて通り去った跡には、

 過去を引きずったような――

 水の跡が

 じっとりと残されていたのだった。


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