生後111日目②
「…………はぁ、それにしても」
恵は言いながら俺の方をチラリと振り返る。
「なんだよ?」
俺は歩みを止めず、さも面倒くさそうに返事をする。
先程恵はダニーがアシュリーに陵辱されるエロゲシナリオ風小説を書き上げダニーに読ませた。
そして奴は海老反りで跳ね上がりながらトイレに駆け込み出てこなくなった。
仕方がないので俺達はダニーの家を出て途方もなく歩き今に至る。
「変わんないもんだねぇ」
言われて辺りを見回してみる。
屋根の代わりに白い布を張った屋台の並ぶ市場では耳の尖ったオバさんが元気にニンジンを売り捌いていたりして、そこを歩く人々はドラクエみたいな服に身を包んじゃいるが、夕食のオカズを想像して何処か楽しそうな若い女や複数のヤンチャな息子達にキレ散らかしてる母親など、それらは何処か見慣れた光景。
確かに、人が作る世界なんてのは文化なんかは違っても肌に刺さる空気感なんてのは大した違いはないのかも知れない。
そう、俺たちが感じているのは、心地よさを感じさせる空気ってのはいつだって、人の心が作っている。
……なるほど、そりゃそうか。
異世界に来たって、赤ん坊になったって、隣にいるのがこいつじゃ、新しい感情なんて生まれはしないのだろう。
「なにかな?」
ふと、恵と目が合う。
まん丸で黄色い眼球はまるっきり猫でしかないが、不思議と元の恵と比べて全く違和感はない。
「いや、お前も変わらねぇな、って思っただけだ」
「いやいや、めっちゃ変わったんですけど⁈ 猫になっちゃったんですけど⁈」
そう言いながら大袈裟なポーズで驚きを表現する恵を見てやはり思う。
……変わらねぇな、と。
「……ははーん、つまりアレだね? ボクは人間の頃から猫のように可愛いかったと」
顎に前足の肉球を添えながら一人ごちる恵を見て、小さく吹き出してしまう。
「なにさー! その反応!」
「……やっぱ、変わらねぇな」
そのことが嬉しくて、今にも顔がニヤけそうなのはもちろん恵には内緒だ。
🍼
「お疲れーす」
「あら、クナイちゃん、どしたの?」
恵の受け入れ先候補として、次に訪ねたのはジョセフの想い人ことアシュリーの家。
本当は先にお人好しなモヒカンであるジョセフでも探そうかともおもったのだが、奴は先日家を飛び出して以来どこで寝てるのかもわからない。
更によくよく考えるといくら猫になったとは言え恵も若い女である。
ならば一緒に暮らすのは同じ女性であるアシュリーの方が、何かと都合は良いだろう。
「おう、今ちょっといいか?」
「……えーっと、いい、けど?」
アシュリーは少し含みのある言い方。
ふむ、女には色々あるといったところだろうか。
「あ、いや、無理ならいいんだ。また出直す……」
「あれ? お客さん?」
言い終わる前に聞き覚えのあるアホっぽい声にかぶせられる。
「は? ……ジョセフ?」
見ると、アシュリーの肩越しに間の抜けたモヒカンがひょっこりと顔を出している。
「ちょ! 誰か来ても出てこないでって言ったでしょ!」
アシュリーが後ろをギロリと振り返りながら怒鳴る。
「え? あ、……そーだった! ……ごめんよ」
ジョセフは頭をポリポリと掻きながらテヘヘレベルの悪びれ方で謝る。
「……もう出て行って」
「……あ、いや」
こちらから今のアシュリーの顔をうかがい知ることは出来ないが、一瞬で下がった空気の温度と声色から、かつてない程に怒っていることがわかる。
ジョセフの顔からは瞬時に冷や汗が吹き出し、眼球が太平洋を横断しそうな勢いで泳ぎ始める。
「……ねぇ、何回も言ったよね? お客さんだったら大変だから、絶対ダメだって」
「………」
顔面がチョコミント色に変色したジョセフは目を見開いて押し黙っている。
余程アシュリーが怖いのだろう。
……。
ふむ、ここまでのやりとりからなんとなか想像は出来る。
レナとケンカしたジョセフは勢いで家を飛び出してはみたものの、住む家も金もない。
途方に暮れて死んだように街を彷徨っていたジョセフはやがて偶然にもアシュリーと出くわし、アシュリーは見ていられない程負のオーラを醸し出すジョセフを見捨てられず、居候させることにした。
ふむ、これで大体合っているはず……。
「もう! 死んだ魚みたいな目ぇしてるのが見てらんないから泊めてあげてたけどもー限界! 出てって! 今すぐ! そして死ね!」
……完璧じゃねぇか。
そして俺が天才的な考察に思考を巡らせている間にどうやらアシュリーはブチ切れ、涙目でそこら中の物をジョセフに投げつけている。
不憫なモヒカン野郎は床に座り込み、今にも失禁しそうな顔で物をガンガンにぶつけられながらひたすら「ごめんよぉ……」と呟く。
その姿は見るからにかわいそうだがこれは多分明らかにジョセフが悪い。
水商売ってのは色んな要素を含んだ商売だから一概には言えないが、コト会話と密着を売りにするオッパブにおいて、客に提供するものは「性欲処理」と「疑似恋愛」である。
一見の客ならサラッと乳揉んでツレと盛り上がったりするのが目的だからキャストのプライベートになんて一切関心はないが、こういった店の収益、特にキャストの収益に直結するのはそこじゃない。
太客の存在である。
損得勘定をかなぐり捨てる勢いでキャストに入れ込み、かつ金銭的に余裕たっぷりのおじさん。
彼らに気に入られたキャストは安定して指名される事はおろか、店外での収入にプレゼントまで貰える。
そんな相手が一人でもいればキャスト一人なら食っていけることもあるほどだ。
まあ、俺の住んでいた世界ではいくら太かろうがキャバなんかのきゃすとが恋心を抱いてもいない客に自宅を教えるなんてことはほとんどないのだが、この剣幕を見るに、アシュリーには自宅を知る客がいるのだろう。
もしもそんな太客がアシュリーを店外デートに誘いに来た時に、ニヤけたモヒカンがひょっこり顔を出すことによって生まれる損失額がいくらになるのかは想像もしたくない。
……ツンツン。
鼻水と涙を流しながら情けなく這いつくばるモヒカンを眺めながら思考を巡らせていると、後ろからなにやら突っつかれる。
「……あ、恵」
振り返ると俺の袖を爪でつつく恵と目があった。
……しまった、こいつのことを忘れていた。あまりの状況の面白さに存在ごとほっぽってしまっていた。
さすがにこれは恵も気まず……。
「ねーねーくーくん、ボク、ここで暮らしたいんだけど?」
……まじかよ。
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