生後98日目

 生きるってのは基本的に苦しいもんだ。食うためにはやりたくないことをやらなければならない時もあるし、そいつを放棄すりゃ死んでしまうことだってある。


 死ぬのは怖いし、駄々っ子のように誰かに甘えたくなるほど寂しい夜だってある。


 けれど本当の意味で自分を慰められるのは自分だけだ。


 確かに優しい誰かは自分の心を理解してくれようとする。


 そして寄り添ってくれて、そいつは暖かな心でお前を包み込んでくれるだろう。それはとてもとても嬉しいことだ。


 けれどそいつは決して、お前の代わりに元気になっちゃくれない。


 俺、元気でもいいよな? 


 俺、幸せでもいいよな?


 なんてくだらない疑問に明確な答えってやつをくれてやれるのは、いつだって自分自身だけなのだ。


 だから人は強くならなきゃならない。


 どんなヤバいことが訪れようと、挫けそうになるふざけたてめぇを無理やり押し込めて、100%安全なんかじゃない、それでも欲する未来を目指して進むしかねぇ。


 ……30秒前、俺は再びウンコを漏らした。


 不覚だ。


 レナの家に世話になるようになってから俺は、ウンコが出そうな気配が少しでも見えると便所(ジョセフにつくらせた鍵付き個室オマル)に駆け込むようにしていた。


 しかし俺はやらかした。


 いつもより離乳食(煮干し味)を食べすぎた。


 そして気合だけで便意を耐えるには、どうやらゼロ歳児の消化器官のキャパシティはあまりにも小さかったらしい。


『くっ、まずい、我慢だがま……』


 のあたりでブリっと飛び出してしまった。


 今は夕食後のまったりとした時間。家にはレナとジョセフ、ギュスターブがいる。


 俺は今、トイレに行こうと立ち上がったところで、奴らからの距離は2~3mといったところ。


 とりあえず奴らから離れなければ匂いでバレてしまう。


 そーっとさりげなく、平常心でトイレに向かうのだ。


 ただでさえオムツの中のアダイブ状態は気持ちが悪いし、赤子の肌は細菌に敏感ですぐにかぶれてしまう。


 早くトイレで拭かなければレナに恥ずかしい部分に薬を塗られるという男の尊厳が全て崩れ落ちるような事態になりかねない。


 一歩、また一歩、普段通りのペースを意識しながらよちよちと歩く。


 トイレまであと5m、トイレットペーパーの神様よ、俺に微笑んでくれ。


「あれ? キュナイぃ? どこ行くんだ?」


 ……しまった、よりにもよってこの家で最もヤカラなギュスターブの野郎に気づかれてしまった。


「ふっ、お前にはまだ早い場所だ」


 平常心、……平常心だ。


「なんだぁ、ウンコでももらしたんじゃないのか?」


 平常心、……適当言ってるだけだ。


「ふっ、お前じゃあるまいし、そんなガキみたいなことするわけ……」


「本当? クナイちゃんそうだったら我慢せずに言ってよ? すぐ拭いたげるからね?」


 ……レナよ、俺はお前にそうされたくがないために今こうして必死で頑張ってるんだ。


 いつだってそうだ。男の純真ってのは女には伝わらない。


「ふっ、レナよ、いつも言っているだろう。俺のことは一人前の男として扱えと」


 けれどそれでも貫くしかないのだ。


 それが男というものだ。


「ん? クナイちゃん、なんか今日喋り方おかしくね?」


 ジョセフよ、俺はお前のバカで向こう見ずなところが実は結構好きだ。


 しかし今は、ただ殺したい。


 俺がまともに言葉を考える余裕がなくてワンパターンにしゃべってるのを見抜くんじゃない。


「ふっ、パンツヤローにゃ言われたくねぇよ」


「ちょ! クナイちゃんそれは言わない約束!」


「え? 何それ何それ?」


「な、何でもねーってマジで!」


 俺は話しながらも一歩、また一歩大地を踏みしめる。


 ケツが痒みを帯びてきたのも気にせず、ゴールへと向かってただひたすらに。


 手段なんて選んでいられないのだ。


 トイレまであと1m、もう少しだ。


「あ!」


「ふっ、今度はレナか、全くもう少し俺のことは放っておいてもらいたいもの……」


「違う違う、クナイちゃんトイレ行くんでしょ? 今トイレットペーパー切れてるから、すぐ補充するね?」


「え? ……い、いや、そ、それくらい場所教えてくれたら自分で……」


「えー? でも高いとこに置いてるよ? っていうかそれくらいのことで強がらないでよー」


 言いながらレナは立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。


 まずい、あまり近づかれると匂いでバレる。


 どうすればいい? どうすれば……、そうだ!


「ジョ、ジョセフ!! 今すぐレナをシバけ!!」


「え? ちょ、何を急に!」


「行け! 細かいことは聞くな! 勝ったらアシュリーの脱ぎたてパンツをもらって来てやる!」


「うぉーーーー!!!」


 言った瞬間、ジョセフは光の速度で立ち上がり、腰を低く落としたタックルの姿勢でレナへ向かって突っ込んでいく。


 よし、まず勝てないだろうが今のうちのトイレに入ろう。紙がなくともせめて固体部分だけでも便器に……。


「ぐはっ!」


 潰れたカエルのような声に振り返ると、ジョセフの顎がまるでバクチクのように跳ね上げられているところだった。


 威勢よく突っ込んでいったジョセフは、的確に真上に突き上げられた膝にその顎を撃ち抜かれてしまったようだ。


 そしてそのまま、ズルリとその場に崩れ落ちる。


 ジョセフ! なんで一発でやられるんだ!


「ねえ? ……クナイちゃーん? トイレ入る前にちょっとこっちおいで?」


「…………わ、わかった、……い、今行く」


 ……屍のようになったジョセフを踏みつけながらこちらに向かって微笑むレナからは、有無を言わせない覇気が出ていた。


 ……この後俺がどうなったかは、詳しく話したくない。


 ……もしも神がいるのならば、富も名声も俺はいらない。


 今日の記憶を消してくれ。

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