生後90日目①
日もすっかり落ち切った夏の夜。
民家や酒場からもれる明かりがそこで笑いあう人々の声と一緒に、暗闇の中に一筋のぬくもりを運んでくれる。
こんな景色を見ていると、どうしたって前の世界での暮らしを思い出してしまう。
誰の役にも立たず、ただ惰性で時間をむさぼり喰う人生だったけれど、俺はそんな毎日が好きだった。
朝まで一緒にずっとくだらない話をしてくれる仲間たちも、『今が楽しい』ということを全力で主張するかの如くリズミカルに唸る直管の音も、それらに色を与えてくれる街の明かりも俺は大好きだった。それらはひどく、ロマンチックだった。
「ごめんね? こんな遅くに付き合ってもらっちゃって」
「いや、かまわねぇ、俺も、お前とこうやって夜道を歩くのは楽しいよ。なんだか昔を思い出す」
俺は今、レナに抱かれ夜の大通りを進み、ギュスターブ用のおむつが切れたため、育児用品店に向かっている。この町は片親であったり、夜の酒場で働く親も多いため、育児用品店は遅くまで開いていてくれている。
好きな女と歩く夜道ほど、優しい色の世界なんてあるのだろうか。街の喧騒も、月明かりも、まるで俺たちの生きる未来が幸福であることを、願ってくれてるかのよう。
「……そっか、ならよかった。あとで好きな離乳食買ってあげるからね」
「……別にそんなんいらねぇよ。俺は別にレナといられれば……」
「へ~え? 煮干し味のやつもいらない?」
「そ、……それは」
まだ固形のものや味の濃い食べ物を一切食べることのできない俺は、もはや離乳食の味に完全に慣れていた。特に煮干し味のペーストは、胸にしみいる味で大好物である。
「もーう、欲しいんなら欲しいって言えばいいのにー、赤ちゃんなんだからさ?」
「けどよぉ、好きな女に、離乳食買ってもらって喜ぶなんてかっこ悪ぃこと……」
「もう、可愛くないなぁ」
レナは小さな口を尖らせ拗ねたように言う。……なんて可愛いんだ。
「お、俺はレナを幸せに出来る男になるためにだな……」
「わたしはクナイちゃんが可愛い方が幸せだなー?」
「わーい! 煮干し味だー! レナちゃんだいしゅき!」
……なんということだろうか。どうやら俺は、好きな女に気に入られるためなら、恥もプライドも頭から吹っ飛んでしまうらしい。
実際こんなことを考えている今も、『えへへー』と愛らしく漏らしながら俺の頭をなでるレナに対してのキュンキュンはとどまることを知らないどころか指数関数的なスピードで膨れ上がっている。
「……くっ」
「あれ? ゴメンね? ……頭なでられるの嫌だった?」
「いや、……続けてくれ、けど、勘違いすんなよ? 俺ぁよ? 頭撫でられるよりも、……ち、乳首コリコリしたりする方が好きなんだからなっ!」
危ねぇ、あまりの幸福度に、自分が男であることを忘れそうになった。
「……何そのへんな宣言、……もう撫でるのやめよ」
……いかん、レナが二時間前に買ったポテトよりも冷めた目になってやがる。
「ちょちょ、ちょっと待ってくれ! いや、その、あれだ! あくまで俺は相対的な意味でそう言っただけでよ? その、俺はレナがこうして撫でてくれたり微笑んでくれたりしてくれただけで嬉しいってかよ? お前が楽しそうにしてくれるだけで嬉しいってかよ?」
レナはぷぷっと吹き出すと、
「……もう、やっぱクナイちゃん可愛いんじゃん」
なんということだろう。これじゃあれだ。掌で転がされている情けない男だ。
なんならこんな状況を心から嬉しく思ってしまっていることが一番情けない。
こんなんじゃ俺は、……俺はいつまでたってもレナの中でただの保護すべき赤ん坊だ。
流れを、流れを変えなければ。
「なあ、ちょっと話は変わるんだけどよ」
「うん、なぁに?」
「……その、ジョセフのことなんだけどよ? マジで給料取り上げ続けんのか? そりゃぁ、家計は苦しいんだろうけどよ、あいつ、あれでマジなんだし……」
いくら阿修羅のように怒っていたとはいえ、レナはやっとこさ就職したジョセフの給料のほとんど全額を、これまで養っていたからといって無為に取り上げるような女じゃないはずだ。
よし、レナの弟を心配する素振りで男ポイントアップだ!
……情けねぇ。
「う~ん、……まぁねぇ、ほら、なんていうか、あの子って、……バカじゃない?」
「……まぁ」
元も子もないが全くその通り。
「まあ家計も余裕があるわけじゃないんだけどね? でもまあ、これまでだってやってこれたし、わたし、あの子には早く自立して欲しいんだよね」
レナはあははと笑いながら頬を掻く。そんな何気ない仕草さえ、百万ドルの夜景よりもキレイに見えるって、恋をしたことある奴ならわかってくれるはずだ。
「--まぁよ、その方がいいってのはわかるけどよ? あいつ今はほら、女とうまくいくかっつー瀬戸際でさ、それどころじゃねぇっていうかよ? ……まあ多分無理だろうけど」
レナは小さくぷっと吹き出すと、
「クナイちゃんひどいんだ~? ま、わたしも絶対無理だと思うけどね? 髪型ダサいし」
そこでレナは、ふぅ、と優しく嘆息する。
「でもね? だからこそだと思うんだ? ほら、あの子ってバカだけどお人よしじゃん? わりと」
「それは確かにそうだな」
あまりのダメ人間具合で忘れそうになるが、あの男は、俺の”離乳食を食いたい”という願望を、レナにボコボコにされてかつ、嫌な顔一つせずかなえてくれた男だ。基本的にはいい奴である。
「だから、あの子だって、私に負担かけてる~って、結構気にしてんだよね? 自分がダメなせいでってさ。なんかわかるんだ、……そういうの」
「だからね? わたし、あの子から取り上げたお金、使う気ないんだ? いつかあの子が、『俺、この家出てくよ』って言いだした時に、ちょっとでも足しになるように、貯めといてあげようと思って」
「……そうか」
『しょうがないなー』、と暖かくため息をつく女は、いったいどれだけの苦労を、文句も言わず、強がって、笑って乗り越えてきたのだろう。
知り合ったばかりでそれを知らない自分に、知ったところでどうすることも出来ない自分の5800グラムしかないボディに無性に腹が立つ。
……いや、違うだろ。
俺には元々、好きな女を幸せにしつつ、そのうえ都合よくかっこまで付けられるほどの器量なんて元々ないのだ。
「……なぁ」
ならば、出来ることを探して、やるしかないんだ。
「なぁに? クナイちゃん」
「俺は、レナが好きだ」
「え? な、なにイキナリ、え~っと、わ、わたしもクナイちゃん大好きだよ?」
おっと、……以前と反応が違う。これはもしやもう一押しか。それとも引かれているのか。
……どうか、どうか前者であってくれ。
「だからよ、俺はお前がして欲しいことならなんでもしてやりたいつもりだ」
「え? ちょ、ちょっとクナイちゃんいきなりどうしちゃったの?」
……あ、やばい、滑ってる。
このタイミングでこれは全く空気読んでない。
完全なる独りよがりの、思い上がり。
大体において、女はこういうのが嫌いだ。
これは終わっ……、いや、ビビっちゃいけねぇ。
そう、女に惚れるってことは基本的には無様なものだ。
知り合ってから過ごした時間も、交わした言葉の数さえもぶっ飛ばして、不自然なほどの好意を抱く。
それが気持ち悪くないなんてわけがないのだ。
ならば……、
このまま、突き通すしか、……ない。
「いきなりじゃねぇ、俺はいつだって、お前に何かしてやりたいと思ってんだ。別にお前に惚れてるからってだけじゃねぇ、こんなにも優しいお前が、毎日幸せじゃなけりゃ、こんな世界は嘘っぱちだ。確かに俺は赤ん坊だ。物質的なことは何も出来ねぇ。けどよ、俺に出来ることがあればなんだって言って欲しい、それが俺にとって一番の幸せなんだよ!」
座り始めたばかりの首に全力で力を入れ、下からレナを真っすぐに見つめる。
「え? あ、いや、その、あの、……え~っと」
うっすらとした明かりでもはっきりとわかるくらい、狼狽したレナの頬は紅潮している。
長年女にドン引かれ、振られ続けてきた俺のカンが外れていなければ、これは引いているのではなく、”照れてる”状態だ。
……セーフか?
…………セーフなのか?
「あ、えっと、その、……ありがとう」
そっぽを向いてつぶやくレナの横顔は、たとえドン引かれていたんだとしても、この女と知り合えたことを神に感謝したくなるほどに、可愛かった。
「じゃぁ、一つ、お願いしていい?」
「ああ、なんでも言ってくれ」
ああ、なんて可愛いのだろうか。
もしも男の子が女の子になる瞬間が見たいと言われたら、喜んでチ〇コを切り落とそう。ジョセフの。
「その、……ね? 買い物終わったあとでさ?」
「おう」
チューか? いや、それとも乳首を? いや、まさか愛の終着駅に……、どうしよう、俺チ〇コどころか首だって未だ座りかけなのに。
「ほら、ジョセフの言ってた、オッパブ? あれ、一緒に行ってくれない?
「……は?」
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