生後88日目

「優しい人になりなさい」


 俺は小さいころ、母親にずっとそう言われていた。


 だから俺は、ずっと優しくあろうとし、優しくないものと戦い続けた。


 優しくないいじめっ子と戦い、優しくないルールを押し付けてくる教師と戦い、優しくないポリのクソヤローと戦い、いつしか俺は周囲から不良少年として扱われていた。


 そんなこんなで日々捻くれていく俺を見た母親はたった一言、


「いや、そこまでやれとは言ってないし」


 と言い大笑いしていた。


 当時はそれにしこたま腹を立てたものだが、今思い返してみるとそれは、自分の存在にひどく悩み続けていた俺への、


「別にそれくらいいいじゃない、気に食わないことは笑いごとにして気楽に生きていきなさい」


 というメッセージだったのかもしれない。


 ☆


「おいジョセフ、元気出せって」


「うるせぇ~らぁ、俺ぁなぁ……、おっぱいが好きなんらよ! わかるられめぇ? ……おっぱいられぇ? パンツりゃねーんらぁ! おっぱいこそナンバーワンなんらよぉ!」


「わーかったわかったって、何年の付き合いだと思ってんだよ? お前がおっぱいをどれくらい好きなのかはちゃーんと知ってる。お前昔、『強い風圧を手で握るとまるでおっぱいみたいらしいぞ』とか言って二階から飛び降りて脚折ってたもんな」


「そ~~~らよ! わかりゃぁいいんあわからゃぁよぅ」


 時は深夜、ダニーは安酒を飲んだくれてクダを巻くジョセフを慰めていた。


 オッパブ嬢に惚れ、それが姉にバレた上金を取り上げられてオッパブに行けなくなり、挙句の果てに袋に入った女物のパンツをスーハ―しているところを俺に見られたジョセフは最近毎日のように飲んだくれ、このように意味不明なクダを巻いている。


 それにしてもこの男、ダニーは本当に面倒見がいい。


 ジョセフがいくらバカでも辛抱強く慰めたり笑って許したりだし、レナが忙しそうな時はギュスターブの面倒を見てあげたりしている。


 それでいていつもニコニコしていて、なんとも気持ちのいい男である。


「ダニーおめぇえよぉ?」


「クナイちゃん、まだ起きてたの? ……寝なきゃだめだよ」


 俺がおしゃぶりを外して声をかけると、ダニーは少し慌てたように振り返る。


 しっかりと赤ん坊として心配されるのを少しくすぐったく感じるが、こうして目をかけてくれることに少しばかり安心感を覚えてしまうのは、俺が少しずつ赤ん坊としての精神を芽生えさせているからだろうか。


「いやぁ、ジョセフのバカタレがうるさくってよぉ、目ぇ覚めちまって」


 そういえば俺は寝るのが仕事の赤ん坊。ダニーにいらん心配をかけてしまった気まずさから、俺はおしゃぶりの輪っかの部分に指を突っ込んでクルクルと回しながら言う。


「ああ、ごめんよ、……でも、ジョセフも辛い時だろうからなぁ」


 ダニーは少し困ったように言う。お人よしか。


「いや、んなもんはどーだっていいんだけどよ、ダニーおめー、毎日大変じゃねぇのか?」


「へ? 何が?」


 心底不思議そうにキョトンとした様子のダニー。なるほど、人にやさしくするのが当たり前系の宗派の人か。


「いやよ、毎日毎日このバカの愚痴に付き合って、ギュスダボにドツかれながら世話してやったり、お前も最近仕事始めて朝はぇーんだろ? しんどくねぇのか?」


「大丈夫大丈夫、俺、体力には自信あるから!」


 ニカッと快活に笑うダニーの眩しさに、俺は思わず目を細めてしまう。


「……お前よぉ、そんなことばっかやってってそのうち誰かにいいように利用されんぞ」


「え? それはジョセフがかい? それともレナちゃんが? それに、クナイちゃんは俺を利用するのかい?」


 言いながらダニーは、ごつごつした岩石面をくしゃくしゃにして笑う。


 ……そっか、こいつは、……人がめちゃくちゃ好きなんだな。


「おう! クナイちゃ~ん、こいるぁよぉ~、俺のねぇーちゃんに惚れれんらよぉ、なぁらに~?」


「黙れ!」


 俺は反射的に手に持っていたおしゃぶりをジョセフに叩きつける。『いれぇ~らぁ』と口を尖らせるジョセフを無視して俺はダニーに問う。


「……マジなのか?」


 先ほどまでの快活な様子は鳴りを潜め、ダニーは哀愁を吐き出すかのようにため息をつく。


「……ああ、そうだよ。けどさ? いないだろ? ……あんな素敵な女の子」


「……確かにな。可愛くて、あったかくて、柔らかくて、それでいて強い。控えめに言って最高の女だ」


「おめ~ら目ぇ腐っれんられーろぉ?」


 うっとうしいモヒカンの口によだれ掛けを突っ込んでおく。一日分のよだれの悪臭にもだえ苦しむモヒカンを一瞥すし、ダニーに向き直る。


「……マジかよ、……てめぇがライバルかよ」


 言うとダニーは、ハッとしたあと、少し困ったように言う。


「え? クナイちゃんのあれって、本気だったの?」


「あたりめぇだ! 言っとくがお前でも一切引く気はねぇ!」


 力強く甲高い声で叫ぶ俺に、ダニーは頬をポリポリと掻く。


「で、でもさ、クナイちゃんが大人になるころにはレナちゃん40過ぎてるよ?」


「いい女に歳は関係ねぇ、そうだろ?」


「……それは、そうだな」


 納得したようにダニーはうんと頷いた後、


「けど、ごめんよ? 俺だってこれに関しちゃ引く気はないよ」


 ダニーは俺を真っすぐに見据えていう。なるほど。


「あたりめぇだ、これで『クナイちゃんに譲るよぉ』とでも言おうもんなら、お前をぶっ飛ばしてたとこだ。けど悪ぃな、レナは俺が幸せにすんだよ」


「赤ちゃんなのに?」


 ダニーらしくない皮肉な言葉が俺に向けられる。……よっぽどマジなんだな。だから俺は、


「はっ、おめぇ幸せってもんはよ? 形にゃ出来ねえもんなんだよ。俺ぁ自分がいくら赤ん坊だろうとそれを言い訳に唾吐いてウダウダする気はねぇよ。大人になるまで待つ気だってサラサラねぇよ。赤ん坊のまま、世界で一番レナを幸せに出来る男になってやんよ!」


 力強く、喧嘩を売ってやる。それが、ダチのマジに対する礼儀ってもんだ。


「……そっか、もちろん俺だってそのつもりだよ」


 吊り上げられた魚のように、ビクンビクンと跳ね回るモヒカンを背に、俺たちは固く握手する。


「やべぇ、ジョセフが窒息してやがる!」


「大変だ! ジョセフー!」


 母さん、俺は、こいつらが、こいつらと過ごす気楽で優しい毎日が、大好きだ。

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