第2話

「大丈夫?」


 問われた声に、綾奈は沈黙で応えた。

 どう応えたらいいかわからなかった。何か自分の身体の中にどこまでも続く空洞が出来た感覚があるだけで、それを言葉することが出来なかったのだ。この気持ちの理由はいつの間にか損失してしまっていた。


 それでも答えを求め、綾奈は蓮華の足下に目を向ける。そこには胸に文字通りの穴が空いた女性の遺体が横たわっていた。傷と形容するにはいささか美しく、だがしかしそれが女性を絶命させたことに疑いがないものだった。

 けれども、その表情は苦痛に歪んだものではなく、後悔を残した顔でもない。ただ何かを祈るような、そんな穏やかな顔だった。


 ああ。一つ、思い出した。

 それはパチリと綾奈の中でパズルのピースがはまったように感じた。

 私は死んだのだった。唯一大切なものを失って、そこで一緒に心が死んだのだ。

 何を大切にしていたのかはもう、暗闇の中に落としてしまってわからない。わからなくていいと思った。きっと私は二度とそれを探そうとしないから。

 身体中を巡る気持ち悪さの正体が、わかった。


「……アインス」


 綾奈は押し潰されたような声で蓮華を呼ぶ。彼女をナンバー名で呼ぶのは初めてだった。

 綾奈はいつだってどんなことも受け入れることに決めていた。自分が蓮華と同じ、選ばれた人類『ソーサル』の一人だと知らされたときからずっと。


 どんな苦痛も。


 どんな不安も。


 どんな不幸も。


 どんなに不条理でも。


 理由は問わず、ただ全てを受け入れる。


 それはまだ幼い綾奈にとって重すぎる決断だったに違いない。

 しかし、綾奈はその背負い方に疑問を持たなかった。それが選ばれてしまった自分が出来る、あの人を守るための方法だったからだ。


 綾奈は抱いた違和感に目を逸らしながらいった。


「……教えて、もらえますか」


 蓮華は何も言わず、綾奈の瞳を真っ直ぐ見つめる。綾奈もその瞳を見返しながら続けた。


「人の殺し方を」 


 しばらく、沈黙して綾奈を見ていた蓮華だったが、ふと彼女が自分の足下に視線を落としたのがわかった。

 数秒、見つめたあと蓮華は小さく何かを口にして苦笑する。何を言ったのか綾奈の耳には届かなかった。でも唇はこう動いていた気がする。

 ごめんね、と。


 再び、蓮華の眼が綾奈に向けられる。その眼差しは先程とは違って、一人の戦士に対して向けられる眼だった。


「人の護り方を、教えてあげるわ」


 蓮華はそう言うと、足下の遺体を大切な自分の半身であるように抱きかかえて、踵を返した。

 綾奈は迷いなく蓮華の後を追う。蓮華の背中と一緒に、彼女が抱える遺体の横顔が覗いていた。無意識に綾奈は脚を止めていた。自分では見えないとても深い、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。それを押し込めるように綾奈は歯を食いしばる。


 何かを言われた気がした。

 願い、祈られた気がした。


 綾奈はその願いを深い深い奥底に沈め込む。もう二度と光の届かない暗闇へ。掬い上げることのできない世界へと同化させる。

 ひとりの少女がそれを行うことがどれだけ悲哀であるものか。誰にも理解されることなく、彼女は孤独にやってみせたのだった。


 もう二度と、思い出さない。

 もう、二度と。


 蓮華と、名前の知らない遺体はどんどん遠ざかっていく。

 そこで綾奈はふとした刹那、自分の心にわずかな光を当てた。その理由はわからない。

 これから一歩を踏み出すために必要で、綾奈にとっては所信表明のようなものだったのかもしれない。

 けれどそれは、幼い少女からの別れの言葉だった。伝える言葉に迷いはなかった。決してあなたが望まない最後の言葉だ。


 綾奈はそっと口にする。

 きっと、私の大切だった人へ。


「……いってきます」


 生まれて初めて口にしたその言葉を胸に、綾奈は再び歩き出す。

 

 この世界は狂っている。どうしようもなく歪んでいる。その根源はこの世界そのものだ。

 

 こんな世界が存在すること。それが気持ち悪くて仕方が無かった。殺さなければならない。一人残らず、この世から消してやる。

 

 私は亡霊だ。もう失うものなど何もないのだから。綾奈は足を踏みしめて進んでいく。荒廃した地獄の街が嘲笑っているように感じた。

 

 降り続いていた雨が、止み始めていた。

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