エフィス・グランツ
名月 遙
プロローグ
第1話
ーー気持ち悪い。
降りしきる雨に打たれながら、少女は心の奥底で呟いた。
少女は荒廃した街中で一人、立ち尽くしていた。燃えた材木とコンクリート片で埋め尽くされた地面にはもはや道というものはなく、ただそこには何かであった欠片が広がっているだけだった。
長時間、雨が流したおかげで所々に散っていた生々しい赤い色はもう見えない。この場所に助けるべき命はもうどこにもなかった。
ーー気持ち悪い。
曇天の空を見上げながら、少女はもう一度呟く。
言葉にはしない。言葉にしたら張り詰めているものが何の抵抗もなしに切れてしまいそうだったから。
美しい銀髪を腰まで伸ばした六歳に満たないその少女は、西洋人形のような端正な顔立ちと相まってとても大人びた顔をしていた。すれ違えば振り向いてしまうような天性の美しさ。しかし、彼女の今の姿はとても眼を当てられるものではなかった。
白いワンピースは泥と赤い血で塗れ、左腕の指先から肘にかけて火傷のせいか黒く変色している。元々、色白だった肌のためにその対比はとても際立ち痛々しく見えた。
少女は無感情のまま、灰色一色の空を見つめる。もうあと数時間もすれば星が見える時刻になるが、今日はその都会の僅かな星の輝きさえも見えそうにはなかった。
ふと、前に初めてこの街を訪れたときを思い出す。
はっきりとした記憶の映像が、少女の脳内に映し出された。
天を衝くような高いビルが並び、整備、装飾された町並みは視界に映る全てがキラキラしていた。夢の世界に足を踏み入れたような、そんな気分だったと思う。外出することがほとんどなかった彼女にとって、その思い出は強く心に残ったものだった。
感情を上手く表に出せない彼女には、子どもが当たり前に思うそんな気持ちをちゃんと伝えられていたか、今さらながら不安になった。
ーー誰に?
脳内に流れていた過去の記憶にノイズが走る。
隣にいた人は誰だった?
私の手を握っていた人は、誰だった?
記憶の中で少女が見上げるその人の顔には黒い影が差して見えなかった。
何かを話しかけられていた。名を呼ばれている気がした。けれど、その人が発する声には雑音が乱れて聞こえない。伝わっていた温もりが温度を失うように掌からゆっくりと消えていく。
「
不意に、名前を呼ばれた。
もう随分と長い間、人の声を聞いていなかった気がする。綾奈と呼ばれた少女はゆっくりと背後からの声に振り向いた。
そこには近代西洋の王族が着るようなドレスを着た女性が立っていた。パニエによって膨らんだロングスカートにフリルが施されたドレスはウエディングドレスを想起させるが、彼女のそれは正反対の漆黒色に包まれていた。
名前を知っている。
世界で十人しかいない、神に選ばれた人類の一人だ。
蓮華は長身で長い黒髪を後ろで束ねており、綾奈とは真逆の日本人らしい和の美しさを持っていた。だが、その美麗な姿に他人が眼を奪われるようなことはないはずだ。彼女は容姿とは裏腹に威厳のある雰囲気が漂っており、まるで刃物を突きつけるような圧を放っていた。
目をつけられないようにと誰もが距離をとる。蓮華は人の魂を脅かす恐怖というものを常に放っているようにみえた。
それゆえに、綾奈はいまよりも幼い時分から蓮華が近くにくると緊張したのを覚えていた。彼女は子供に対してさえ、刃の切っ先を向けるような目を向けてきていたからだ。
しかし、いまは普段から感じていた蓮華の緊迫感がどこにもなかった。むしろ柔らかい印象をすら受ける。綾奈はその理由を探すもみつけることは出来なかった。
いまの綾奈には、その答えに辿り着くことは出来ないだろう。彼女にとってそれは辿り着いてはならないものだったから。
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