第6話

◆ ◆ ◆


 「はぁ……」


 浮かない気持ちを抱えて、俺はひとり斜陽の延びる廊下をとぼとぼと歩いていた。



 あれからなんだかんだあって、同好会への入会は一時保留となった。


 長々となるので、その後の部室での一悶着は割愛するが――。


 五人からしか認められていない部活動に対して、“演劇同好会”は現在三人しかおらず、人数が揃わなければ二週間後には廃部になってしまうこと。同好会は昨年未尾によって設立されたばかりのもので、この一年間やってきた事といえば、演劇学科の実習を見学したものを活動記録として残すこと。たまに無理言って参加させてもらうもあまりの出来の悪さにお小言を頂戴する始末。アテもなければ実績もない同好会に入部したいと思う新入生がいるかどうかも怪しい。だから数合わせでも構わないから参加してほしい――。


 簡略するとそんな感じだ。


 部活への意欲、ましてや演劇に興味なんてなかったのだが……一年の頃に四月になったら入部するようなことを、未尾と約束していたらしかった。基本、空返事で会話を済ませていたせいで、俺はまったく覚えてはいないが。


 とはいえ、ただの口約束ならば「知らない」「勘違いだ」とでも言って無視してしまっても良かったのだろう。だが俺の性分としてはどうしてもそれができなかった。

 自分を騙す嘘は付けても、他人を傷付ける嘘は付きたくない。そして何より、心底困っている様子の未尾を冷たくあしらうのはなんだか忍びなく思えて――。


 入部するかどうかは、活動風景を見た上で検討しておくという俺の打診で話は落ち着いた。

 廃部になるかもしれない二週間。その間俺は仮部員として、自分の好きなタイミングで部活に参加することとなった。参加した日の体験を踏まえて本入部するかを考慮するということだ。



 そんなわけで本日が最初の部活体験だったわけだが――。



 まあ酷いものだった。



 部員が三人だけではやれることに限りがあるだろうとは想像していたが、問題は規模の話ではなく演技そのものだった。


 未尾は同好会を起ち上げた会長だけあって、発声や役の立ち振る舞いは実に様になっていたのだが……あとの二人は壊滅的に演技が下手だった。


 冴木の方は底抜けに明るい感じのあいつらしく、声はしっかり出ていた。動作も大仰で、遠くから舞台を眼にする観客のことを加味すればちょうど良い。

 だがハキハキと喋る冴木の声音こわねは恐ろしいくらいに一本調子なのだ。抑揚を忘れた語り部はセリフを口にしているというよりも、台本に書かれた活字、一文字一文字を単独で読み上げていく機械音声のようで、流暢とはほど遠いものだった。


 畝海に関してはもっと悲惨だった。

 例えるなら初めてのおつかいに出掛けた子どもだろうか。道に迷い、目的も忘れ、近くにいた大人に声を掛けるも自分で現状がよく分からず不安や恐怖で立ち尽くしたまま――舞台上とみなした教室内、指定の位置に立った彼女は「あ……」「えっ……」と音を発するだけで、言葉が迷子になっていた。


 二人とも裏方志願ということらしかったが……それにしても問題だらけな気がした。

 目も当てられないような演技を間近に見ていると、直前に観賞した演劇学科の舞台が何度も視界にチラついていた。


 廃部になっても文句は言えないだろうな……。



 そんなことを思いながらだらだらとした活動を眺めているうちに、あれよあれよと時間は過ぎていった。

 やがて未尾が解散を言い渡す頃には、窓の外に見えていた陽は傾き、西に延びる山の稜線を鮮やかな茜色に染めていた。



 明日の勧誘のための準備があるらしく、未尾たちとはそこで別れて、俺は先に部屋を後にした。


 眩しくも寂しさを纏う夕陽を顔に受けて廊下を進む。


 天然素材の白い床に生まれる陰影かげを見ていると、ふとそれが同好会の未来を暗示しているように思えた。夕映えの床が魅せる明暗の配色比率が、そのまま同好会が存続するかどうかの可能性に繋がっているようで――。


 あるいは。

 俺自身のこと。


 その場しのぎを決め込んだ人生に対しての、将来への期待値。

 実直とか正義感とか……誠実から眼を背けた果てにあるものを想像すると先が思いやれた。


 生徒で溢れかえり騒々しかった午前とは違い、落陽覗く校舎内の景色はまったく別の姿をしているようだ。


 「はぁ……」


 途端に気分が沈む。

 素直とは正反対の自分。


 無機物の建造物にすら異なる顔があるのだ。胸のなかで渦巻くいくつもの感情に抗うのは、身を任せるよりも遥かに難しい。


 本心を蔑ろにして気持ちに嘘を付けば、こんなにもストレスが溜まるものなのか。



 おもむろに立ち止まり、俺は腕の小型デバイス――DISディスに眼を向けた。

 時刻はデジタル数字で午後五時過ぎを表示している。


 「そろそろ出てるか」


 時間を確認すると、俺は本来目指していた昇降口へ向かう前に、一度自分の教室へと立ち寄ることにした。



 春休みの期間中に使用したのだろう、ワックスの匂いを未だに強く放つ階段を降りて二階へ。

 廊下手前の扉を開けて、二年A組へと入る。


 当然なかには誰もいない。俺はかげりを見せる仄暗い教室を進み、窓際に立って外を眺めた。すっかり山に呑まれてしまった夕陽とは逆の方向に視線を向ける。そこには茜空の哀愁を押し返さんばかりに景色を美しく彩る、虹の姿があった。



 朝と夕には必ず虹が見られる虹霓市。



 夕暮れ時の虹は学校からだと、主に西棟や体育館といった遮蔽物に邪魔されて見えにくい。現に今も、虹は半分ほどが建物の陰になっている。

 普段は屋上から外の景色を一望しているのだが、今日は新学期でクラスも変わったことなのでせっかくだからと思い、ここからの景色を選んだ。


 こういうメランコリーな気分の時には、虹は打って付けのものだ。心に巣喰う沈鬱も七色なないろが描く華やかなグラデーションのなかで曖昧になっていき、やがては静かに溶け込んでいく。


 確かに虹の全貌が見られないのは残念ではあるが、それでもあのはっきりとした曲線美は思わず息を呑むほどに圧巻だ。



 虹を呈する、象徴とも言うべきあのアーチは、虹の色ごとに異なる屈折率によって作り出されている。


 光は通常、大気中に漂う水滴の入出時にそれぞれ一回ずつ屈折をしている。その際に光は分散し、そこに含まれる波長の長さ――すなわち虹の色によって連続的なスペクトルができあがる。


 たとえば一般的な虹の出現には太陽が大きく関係しているわけだが、俺たちが白っぽく見える太陽の光も、実際には様々な色が混ざり合って出来ている。

 この異なる色彩を含んだものが白色光と呼ばれるものだ。


 大抵の奴なら可視光線という言葉を見聞きした覚えがあると思う。太陽光のような人の眼でも認識できる波長のことを言う。


 それが色の正体だ。


 光の色は波長の長さによって変化する。波長の短い順から、紫、青、水、緑、黄、橙、赤となっていく。波長が短すぎる、あるいは長すぎると、そこから先は人の眼では認識できない――つまり不可視領域となる。紫外線とか赤外線と言い換えればイメージできるだろうか。


 そしてさっき説明したように波長は長さによって屈折率が違う。物質と接触したとき、赤色の波長は真っ直ぐ進みやすく、紫色の波長は曲がりやすい。だから水の粒を介してできる虹は色の並びが決まっているのだ――。



 幻想的な、けれども科学で説明がついてしまう自然現象。そんな虹に心惹かれるのは、決して触れることができない尊さに強い価値を見出してしまうからなのだろう。

 僅かな時間にしか姿を見せることがないさまに、人は楽園を思い描き、夢や希望といった理想を重ねる。見上げた先に架かるアーチに輝かしい未来を連想させて、膨らむ期待で心を満たす。

 アリストテレスもデカルトもニュートンも、虹を研究してきた誰もがきっと、その美しさに魅了されていたに違いない。



 窓を開けてさんに両手を付く。顔を外に出すと、風が俺の頬を撫でた。

 柔らかな温もりを連れて、風は春の長閑さを辺りに伝える。木々を優しく揺らし、葉擦れが生んだ微かな音を乗せて、再び俺の元へとやってくる。眼を閉じて聴いてみると、一つ一つのそよぎにも音の違いがあるのが分かる。風に吹かれて踊る木々は、まるで曲に合わせて演奏しているようだ。


 なんてことはない当たり前の現象も、虹を見るだけでこうも深々と感じられる。

 虹霓市が感受性の育まれる街と見なすなら、立派な教育機関が建てられるのは然るべきことなのかもしれない。



 眼を開けると、俺はあてもなく視線を校庭へと泳がしていった。


 すると。


 「ん?」


 ふと彼女を見つけた。


 さすがに表情までは見えないが、彼女が纏う気怠げにも似た雰囲気はここからでもなんとなく分かる。


 校門のそばでノアがひとり突っ立っていた。


 俺は彼女をよく見ようと、腕で窓枠を巻き込むようにして身体を支えながら、ぐっと外に乗り出す。


 ノアはずっと遠くの空を見つめていた。

 視線の先には俺も見ていた大きな虹。



 そういえば佐木先生が言ってたな。虹の広場がどうとかって……。


 探し物でもしているのだろうか。だとしたらそれはいったいどんなものなのだろう。今朝顔を見ただけの彼女が何を探しているかなんて皆目見当もつかないが……頭の上に乗っていたあの枝葉は、それを探している最中にうっかり引っ掛けてきたのかもしれない。


 もし今日もまた屋上にいたならば、きっと彼女には気付けなかっただろう。だからって別に特別なことなどないのだが。それでも彼女への興味を、俺の好奇心を後押しする切っ掛けにはなった。



 そのとき、ノアがいきなり走り出した。まるで何かを追いかけるように何度も虹のある方角へ視線をやりながら――。

 坂を駆け下りていく彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまう。


 ノアのふいな行動に感化されたみたく、俺は身体を教室のなかに引っ込めると、そのまま勢いに乗るようにして扉を目指した。

 駆け足で扉に着き、把手とってに手を掛けようとしたところで――廊下側から扉が開いた。



 「と、常塚っ……?」


 眼前で素っ頓狂な声を上げたのは未尾だった。いきなりの鉢合わせに眼を丸くして驚いている。


 「わ、悪いな」

 「ううん、大丈夫。ちょっとビックリしたけど……あんたまだ帰ってなかったのね」

 「まあ、少しばかり虹が綺麗だったもんでな」

 「ぷっ、なにそれ。常塚って見た目に似合わずロマンチストなの?」


 未尾は腹を抱えて笑いだした。


 「そんなわけないだろ」


 虹くらい誰だって見るじゃないか。

 何もおかしいことはないと思うが。


 「それはそれでアリかもしれないけど」


 何に得心したのかは知らないが、笑いすぎで涙目にまでなっている。


 だがそんなこと今はどうでもいい。

 ノアを追いかけなくては。


 「でもちょうど良かった。あのさ、あんたにちょっと話が――」

 「未尾、悪いけど今急いでるんだ」

 「えっ。あ……そ、そうよね。そんな感じだったわね」

 「話ならまた今度聞くから。じゃあな」


 話を打ち切り、未尾をその場に残したまま、俺は廊下を抜け階段を飛ぶようにして降りていった。


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