第4話



 教師が軽く自己紹介を済ませる。


 若い見た目の女性教師は、厳格さとはほど遠い柔らかな調子で佐木さきと名乗ると、俺たちが腕に身に着けている学業用の小型デバイスへ、概ねの年間スケジュールと、必修科目についての情報を一括送信する。不備なく全員に行き渡ったことを確認してから、教卓と一体化している液晶パネルから展開した擬似ホログラムを使って、このあとの行事予定を順繰りに説明していく。



 「あれ?」


 未尾が声を漏らす。

 思わず、つい訊ねてみる。


 「どうした?」

 「あそこ、一番前の席。まだ来ていないみたいなの」


 未尾がくいと顎で前方を示す。

 見てみると確かに最前列の左端、つまり俺の列の一番前が空席だった。


 「新学期早々、いきなり休みか」

 「まあ、見知ったクラスメイトはいるだろうからハブれることはないでしょうけど」


 などと話していると、冴木が会話に入ってくる。


 「なになに、どーした?」

 「初日からサボってる奴がいるなぁって話してただけだよ」

 「別にサボってるとは言ってないでしょ。単に体調崩して休んでるだけかもしれないじゃない」

 「一番前だし、頭が良いんだろ。どうせ始業式なんて時間の無駄だと思ったんだろうさ」

 「あんたねぇ……」

 「一番前……?」


 俺たちのやり取りを受けて、冴木は頭を横に出して前の方を覗き込んだ。


 「あぁ、なるほど」


 思い当たる節があったようで、得心したような反応をして。


 「たぶん、ノアだな。心配しなくても、もうじき来るぞ」


 ノア……?


 「外国人?」

 「いやいや、あだ名だよ。あいつ自称異邦人だからな」


 なんだそりゃ。


 「どういう意味なんだ?」

 「んー。俺もよく知らん。気になるなら直接本人に聞けばいいさ……ほら、来たぞ」



 冴木がそう言った直後、扉の開く音がした。

 クラスの全員が音のした方に振り返る。佐木先生も説明を中断してそちらを見る。


 女子生徒がひとり扉に手を掛けたまま佇んでいた。


 肩ほどの髪。

 眠たげなまなこ。

 掛け違いのシャツのボタン。

 それから……なぜか頭に引っ掛かっている枝葉。

 おまけにブレザーやスカートに乾いた泥まで跳ねている。



 なんというか……独特な雰囲気を持っていた。

 不潔感や気味の悪さはいっさい感じられない。ミステリアス、だろうか。だらしない格好と気迫に欠けた表情をしているのに、不思議と彼女の瞳に視線が引き寄せられていく。


 じっとしたままのその少女はぼんやりと、前方の窓から見える景色を眺めていた。

 やがて外の景色に吸い込まれるように、ふわりと一歩踏み出したところで。


 「あら。水埜みずのさん、おはよう」


 佐木先生が遅刻少女に優しく声を掛けた。


 少女は足を止め、教師の方に向き直ると。


 「遅くなりました」


 申し訳なさを抱いているとはとても思えないほどに、さらりとそのひと言が彼女の口許からでた。

 事実、そんなことは思っていないのだろう。それを言うだけに終えて、彼女の口から謝罪の文言がでる気配はなかった。


 当然、遅刻に対して咎められるものかと思ったのだが。


 「普段に比べたら早いほうですよ」


 デバイスに視線を落としながら、ごく自然なことだという調子で佐木先生はそんなことを言った。


 普段から?

 ということは遅刻常習犯なのか。

 だが、それならもっと注意するべきなんじゃないのだろうか。仮にも遅刻しているんだから。規則云々より前の話なんじゃないか、これ。いくら自由を重んじるとはいえ、教師まで緩くなってどうするんだ。


 などと考えていると、「それで」と佐木先生が視線を彼女に戻して。



 「今日は虹の広場には辿り着けましたか?」

 「……いいえ」

 「そうですか。それは、残念でしたね……」

 「はい」

 「でも、虹は午後にもまた出ますから。次に期待して、今は席についてくださいね」


 佐木先生の言葉に促されるように、少女はこくんと小さく頷くと、とことこと机の列の間を抜けて、あの最前列の場所に腰掛けた。


 佐木先生は彼女のそばに行くと、頭に引っ掛かっていた枝葉をそっと指で摘まみ取り微笑んだ。そして何事もなかったかのようにまた教卓に戻って説明の続きを始めた。



 「変わった子ねぇ……」


 興味深そうに未尾が呟く。


 だが、その時の俺には彼女の言葉なんてまったく耳に入らなかった。



 未尾とのやり取りで抱いた同族嫌悪にも似た感情。

 直前にそんなことを考えていたことも拍車を掛けたのだろう――。



 ノアと呼ばれるその少女は自分の席へと向かう際に、俺のそばを横切っていった。


 そこで俺は、間近で彼女を見て。


 不思議な引力を受けたみたいに、ふと妙な考えが頭を過ぎったのだ。



 俺はこの先もずっと素直な人間でいることを拒み続ける、そう思っていた。


 だがもしも。


 もしも仮に、俺にとっての転機が訪れるとすれば。


 それはきっと現実とはかけ離れた、奇妙な世界の住人に出会った時だろう。



 そんな思いが、脳裏を流れ――そして溶けて消えた。



 ほんの僅かに射し込む光。

 咲いては枯れる思考の断片。

 意識はできずとも無意識下に眠る確信。



 これが“運命”なのだと気付くには、今の俺にはまだ早過ぎたのだが――。


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