第3話



 「ぜぇぜぇ……もう、ダメェ……」


 息を切らしながらこちらにやって来ると、冴木の隣の机にへなへなと倒れ込む。

 肩で呼吸するたびに渦を巻くような癖のある毛先が波打っている。


 その特徴的な長い髪のおかげで、さっき校庭で眼にしたあの女子の一人だと分かった。



 「朝っぱらから元気だなー、畝海うねみは」


 冴木が感心するように言う。

 おや、知り合い?


 「あぁ、冴木くんか……おはよう」

 「おっす。また一年よろしくな」

 「うん。よろしく……」


 顔を上げて冴木にそれだけ言うと、その女子、畝海は再び机に沈んだ。


 俺よりも先に校舎に向かったはずなのに。

 もしかして今までずっともう一人の女子から逃げ回ってたのだろうか。


 そんなことを思いながらぐったりとしている彼女を見ていると、冴木が紹介してくれた。


 「お前は会うの初めてだよな。こいつは畝海慧うねみあきらっていって、俺と同じ内進生だ。俺とは中等部時代からずっと一緒のクラス」


 次に畝海に向かって。


 「畝海。こいつは常塚翔吾。昨年、東京からこっちに越してきたんだそうだ」

 「常塚くん、だね。そう……初めまして……ふぅ」


 やっと呼吸が落ち着いたのか、畝海は机に手を突いて立ち上がると「よろしくね」と笑ってみせた。


 笑顔を見せる彼女の双眸は青みがかっていた。とは言っても、気になるというか不安になるというか、そんなそわそわとした気持ちにさせる印象はない。もちろん特徴的な色合いではあるのだが、空のような明るく澄んだ青ではなくて、海の底のように安心感をもった深みのあるものだ。



 「おう、よろしく」


 だからそこまで食い付くものではなかったが。

 代わりに俺は、畝海の背後から静かに忍び寄ってくる奴の姿が眼に入った。

 視線が机の方に下がっていたのでそれまで気付かなかったが、そいつこそ畝海が逃げ回っていた要因であろう女子だった。


 オシャレに着崩した派手な容姿のそいつは両手を肩まで上げて、そろりそろり……そして、 



 「慧、ゲットだぜっ!」


 勢いよく後ろから抱きついた。

 畝海が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げる。


 「うぅ~。もう許してよぅ、未尾ちゃん。私疲れたよ……」


 やつれた声をもらす畝海。

 抵抗する気力も失せたのか、彼女は身体を脱力させて相手の為すがままにされている。


 未尾という女子は、それを良いことに畝海の背中に頬ずりしながら両手で彼女の胸を揉みしだいていた。



 いや、抵抗しろよ。

 心のなかで抗議する。


 俺だって思春期まっただ中の高校男子なんだから。眼のやり場に困るだろうが。

 少しは周りにいるギャラリーのことも考えてほしい。


 「ちょっと常塚!なに見てんのよ」


 ふいに変態女子が俺のことを睨みつけてきた。


 「み、見てねぇよ」


 見てません。チラ見くらいしかしてません。


 「いや、見てた!ぜーったい、見てた!鼻の下伸ばして、いかがわしい視線を浴びせてた!私が保証する!」

 「そんな保証いらないから」

 「見せ物じゃないんだからねっ!」

 「なら他所でやってくれよ」

 「ホントあんたは……はぁー、かわいそうに……」


 女子は額に手を当てて、やれやれと嘆息する。

 なぜか同情されてしまった。

 本当になんでだよ。


 「人目を憚るようなことを平然とやってる奴には言われたくない」


 俺が正論を言ってやると。


 「常塚が何もしていないだけでしょ。普通の男。取り柄のない男。つまんない男。男として生まれてきたことが最初の過ちね」

 「ひでぇ……」


 哀しみで天を見上げたくなる。


 なんで初対面の女子にここまで酷評されなきゃならないんだ。

 視線をずらすと、冴木が笑うのを必死に堪えているのが見えた。こいつ……。


 「なに考えてんのかホントよく分かんないわよね、あんたって」


 嘆息吐いて。

 

 「一年間、同じクラスにいてもさっぱりだわ」

 「へ、一年間……?」



 一瞬、その言葉の意味が分からなかった。


 一年間というのはつまり、進級前の一年と言うことだろう。内進生と外進生とが分別されていたクラス分けの時だ。

 畝海とずいぶん親しいようだし、てっきりこいつも内進生だと思っていたんだが。


 「もしかして覚えてないの……?」


 まさか、と眼を見開く女子。


 「入学式の日から話した仲なのに?何度もお昼一緒に食べたのに?というか、ずっと隣の席だったのに?」

 「えっ?あ、いや……」


 どう言葉を返したものか困ってしまう。

 深い付き合いを避けたくて、俺はクラスの奴とはなるべく顔を合わせないようにして過ごしてきていた。名前はおろか、どんな奴がいたかなんてほとんど記憶にない。


 考えあぐねていると、ふと彼女の髪に意識が向いた。放物線の軌道を描く短いサイドテール。その尻尾のような黒髪に俺は見覚えがあった。



 一年の時、やたらとお節介な女子生徒がいた。朝のHR《ホームルーム》前、授業中、移動時間――俺が一人でぼんやり考えごとをしていると、決まって話し掛けてくるのだ。


 基本的に黙々と授業を受けるか窓の外を眺めるかが学校でのライフスタイルと、決意していた俺にとっては堪ったものじゃなかった。昼くらいはゆっくりしたいと、教室を抜けだして一人で食事をとってみるも、あっさりと居場所がバレてしまう。


 そこまでして何を話すのか、といえば何を話し合うでもない。彼女の方は飽きもせず、ひっきりなしに何かを喋ってはいるのだが、俺はただ黙って腹を満たすだけ。そばで音楽が流れてるという感覚でまともに聞いちゃいない。それでもあっちは充分らしく、俺が脈絡なしに相槌を打つだけで会話(?)は続けられた。


 これだけしつこい相手だというのに顔を覚えていないというのだから、間違いなく俺に非があるのだろうさ、うん。

 だがまあ、あまりのしつこさに鬱陶しく感じることって誰にだってあるだろ?顔も見たくないって感じで。それがこれなんだよ。


 たぶん、一人でいがちな俺を気に掛けての行動だったんだと思うんだ(ちょっと度が過ぎるがな)。親切心からのことなのだから、あからさまに迷惑な反応を示すというのは最低だろう。

 だから面と向かって嫌とは言えず、かといって仲良くする気にもなれず。仕方なしに俺は彼女の顔を見る代わりに、頭からぴょこんと飛び出た髪に焦点を合わせていたわけだ。


 彼女の顔をまともに見たのは、半年ぶりくらいじゃないだろうか。



 「覚えてはいるさ。だけど名前はちょっと……」

 「なによそれ。まったく……」


 畝海から離れた彼女は怒り半分、呆れ半分といった様子で深く息を吐くと、前の二人同様に本日三人目の挨拶をした。


 「未尾よ。今度はちゃんと覚えておきなさいよね」


 腰に手を当てて、凜とした表情を向けてくる。

 「呼び捨てで構わないから」とも付け加えて。


 「あ、ああ。分かった」

 「ホントに分かった?反省してる?」

 「してるって。悪かったよ」

 「謝罪に心がこもってない」

 「す、すみません」

 「もう一回」

 「……すみませんでした」

 「よろしい。許してあげましょう」


 頭を下げる俺を前にして、未尾はとても満足げだった。


 「ちなみに苗字はほうきな」


 と、冴木が付け加える。


 「こら冴木、余計なこと言うんじゃない」

 「何が?」

 「未尾ちゃん、苗字で呼ばれるの嫌いだもんね」

 「珍しくて良いと思うけどな」

 「珍しいかは関係ない。帚ってのが嫌なのよ。苗字がそれってだけで掃除好きなイメージを押し付けられるんだから。中学の頃までは馬鹿の一つ覚えでおちょくる男子が毎年必ずクラスにいたし、ホント面倒なだけよ」

 「面倒見は良いけどな」

 「冴木うるさい」

 「ええっ!?褒めただけなのに!?」



 理不尽な扱いを受ける冴木だった。


 未尾はそれだけ言うと、自分の席を探し始めた。眼の前の――畝海の机を指先で触れながら「ここが26だから……ここか」と呟き、後ろの机に背負っていた鞄を降ろすと。


 「あんた、席そこなの?」


 隣の席に座る俺に訊いてきた。


 「お、おう」


 彼女の怪訝な目つきに怯みそうになり、俺はまた髪の方に視線を逃がす。


 「はぁ……」


 未尾は目眩を起こしたみたいに額に手の甲を乗せて首をもたげた。

 椅子を引いてゆっくり腰を降ろすと、壁の向こうを眺めるような表情になって。


 「はぁぁぁぁああ」


 肺の底から憂鬱を抜き出したような声をもらして机に突っ伏した。


 「また負けたぁ……」


 怨めしげに呟く未尾。


 「また隣同士ってわけだな。よろしくな」


 などと気を使ってみたつもりだったのだが。


 未尾は頭をずらして俺の方を一瞥するも、すぐに鞄に顔を埋めてしまう。


 「はぁ……惨めだわ」

 「そんなこと言われても……」


 根腐れを起こした花のように萎れていらっしゃる。


 「なんでウチの学校、成績順で席決めするのかしら」


 未尾が忌々しくぼやく。



 彼女の言うとおり、この学校の席決めは生徒の成績を基準にしている。


 前列から順番に数えられていく数字、これはすなわちクラス内の学力順位なのだ。入学当初なら入試テスト、それ以降ならば学期末に執り行ったテストの総合点で席が決められる。

 学校側にしてみれば特別な意図などないのだろうが、見方次第では有名大学の合格を謳い文句にしてそうな頭のお堅い学習塾に感じられなくもない。



 「点数なんてそこまで気にすることじゃねぇだろ」


 と言ったのは冴木。


 「そうだよ未尾ちゃん。どうせみんな大して変わらないよ」


 畝海も賛同する。


 さすがに中等部から受けてきた連中だけあって慣れ親しんでいるらしい。そこいらの小さなルールに関して変に固執したりすることはなさそうだ。



 「点数なんてどうでもいいの。問題なのは常塚に負けたことよ」


 だが未尾はうにうにと頭を振る。


 「毎度まいど、新学期が始まる度にこいつが隣に座ってるのよ。人生持て余したみたいにいつもぼーっとしてるくせに……勝たなきゃダメでしょ」


 俺だってそこまで暇してないぞ……たぶん。


 のっそりと顔を上げた未尾が俺を不服そうに睨む。


 「こいつより下はウジ虫だけで充分よ」

 「よし。取りあえず、後ろ四人に謝ろうか」

 「世の中すべて間違ってるわ」

 「俺はお前の思考回路の方を疑いたいよ」

 「どれだけ真面目に生きていても、表面的な情報だけで相手の人間性を決めつける」

 「ブーメランだぞ」

 「一日二日の付き合いだけで分かりなんてしないのよ。もっと相手の内側を見ていかないと」

 「軽薄が服着てるような見た目で言われてもなぁ……」

 「ちょっと!人が真剣に語ってるのに邪魔しないでよ!」

 「あれ、声に出てた?」


 独り言が漏れていたらしい。独りの時間が増えてたことによる支障というやつか。


 「まったく。あんたなんか青春の冒涜者ぼうとくしゃよ。いくら話し掛けても生返事しか返ってこないし。褒めてもダメ、悪口もダメ、挑発してもダメ、何言っても『ああ』『うん』『そう』で片付けるだけ。昼休みになると、ひょいとどこかへ消えるもんだから、こっちは何かしてると思うじゃない。それなのにこっそり後を付けてみれば、ただ空を眺めてお昼食べてるだけとか……ノラ猫の一匹や二匹、保護してなさいよね!」


 「お前は俺に何を期待してるんだ……」



 頭が痛くなった。

 ということはあれか、こいつはこの一年間ずっと俺に憤懣をぶつけていたのか。勝手な想像を膨らましていただけなのに、期待が外れたからって逆ギレとか。

 未尾はもう少し、他人の外面を意識した方がいいと思う。


 だけどそれほどのイライラを聞かされて、果たして俺が気付かないものか。内容が耳に入ってこなくても、語調で相手の雰囲気くらいは分かりそうなものだ。そもそもこいつが気分良さげに話しているみたいだったから、放置していたようなもんだし。



 「つまり、未尾ちゃんは常塚くんが孤立してないか心配だったんだよね」


 畝海がなるほど、と拳を打つ。


 「べ、別に心配なんかしてないわよ」

 「ホント面倒見が良いなー、未尾は」

 「冴木うるさい!あと笑うなっ、ムカつくから!」


 赧然とさせて、未尾は冴木に吠えていた。

 表情の忙しい奴だ。

 こいつはきっと、日々が充実してるんだろうな。



 「だいたい、服装なんて自由みたいなもんじゃない。あんたみたいに面白みの欠片もない普通の方が珍しいわよ」


 俺の方に向き直って、未尾が言った。


 確かにその通りではある。




 “学生服は基本装備”


 そんな風に生徒の間で揶揄されているだけあって、ここの学生の身なりはかなり自由である。もちろん、規定の制服はあるので私服登校が許可されているわけではないが、真秀高の生徒だと分かる範囲であれば、化粧が派手だろうが、髪を染めようが、アクセサリーを身に着けようが、厳しく咎められることはそうない。



 【自由を以て自他を尊重すべし】


 それが真秀中等高等学校の校訓である。



 必要以上に取り決めたルールの制定は若者の柔軟な発想や潤沢な創造力を阻害するとして、学校側は生徒の発言および行動に口を挟むことは極力控えるようにしている。

 将来の芽を摘んでしまわないように、ストレスや反発心を生まないように、生徒たち自身に物事の判断を委ねる。そうして自ら意見を述べられるように思考することを、集団生活のなかで自然に学ばせているのだ。伝統や文化、国内外の社会問題にも関心を抱ける――教師はそんな価値観を持った生徒として羽ばたくためのサポートをする。

 主体性と寛容性を養わせることで探究心や向上心だけでなく、相手をおもんぱかることができる心の優しさや、他者の意見を取り入れて成果に繋げられる聡明さを育ませる。マルチな視点で活躍できる若者の輩出を学校は目指しているとのことだ。


 そんな取り組みが実質的に生徒の信条や信念にプラスの影響をもたらしている――とは外進生の俺には断言できないが、少なくともいじめといった一般的な学校問題は真秀高では見受けられない。

 奇抜な容姿の生徒がいたとしてもそこに偏見は生まれず、いわゆる個性として評価される。開放的な校則のおかげで生徒は好きなことに対して物怖じせず、積極的に向き合うことができ、そこで生じる心のゆとりが、逆に節度ある行動をとれる冷静な判断能力を無意識下のなかで鍛えあげてくれるのだ。第三者の視点に立って状況を正確に捉えられるようになるには、日頃から複数の意見を持つことを意識しなければならないということだ。


 科学が進歩するにつれ、人と人との繋がりが希薄化していく人間社会。現代においては、凝り固まった社会通念を押し付けるだけではなく、一人ひとりに自由を与え、どのような選択を示すのか、温かく見守っていくことも必要なのかもしれない。



 まあ、それはさておき。



 「普通のどこが悪いんだよ」

 「悪いなんて言ってないわよ。個性がないと言ってるの」

 「普通と無個性は違うもんだぞ」

 「普通であろうと意識するせいで、個性を潰したら意味ないでしょ」

 「知らない奴の生き方にいちいち口挟まなくていいだろ」

 「顔見知りよ。知らない奴じゃない」

 「なんて屁理屈だ……」


 付き合いきれなくなって、俺は腕を枕にして顔を伏せた。



 「自分の人生に不真面目なあんたの性根、ぜーったいに正してやるんだから!」


 びしっ!と未尾が俺を指差して、そんなことを言っていたが、タイミングよく教師がやって来たおかげで、それ以上の小言は聞かずに済んだ。



 正直なところ、俺は少し焦っていた。

 未尾が俺の心のなかを見透かしているような気がして。


 ああ、そうだった。

 俺はこうやってズバズバものを言う彼女が嫌で、長い間耳を塞いでいたんだ。

 昔の俺を見ているようだったから。


 たぶん、この先彼女が何を言っても俺の態度が変わることなんてない。現実になんて飽き飽きしているからな。


 理不尽で、残酷で、みんな自分のことしか考えちゃいない。


 偽善欺瞞無視裏切りハラスメント――校訓がどうあれ卒業して外に出てしまえば、待っているのはそんな言葉でラッピングされた薄汚れた灰色の景色だけ。相手の手のひらに刻まれた皺を数えたところで、そいつがその時どれほどの腹黒い考えを抱いているかなんて分かるわけないじゃないか。

 正直者は額縁通りにしか判断できないのだ。手のひらを返されてしまえば、もはやどうすることもできない。


 だから俺はずっとあまのじゃくのままでいることに決めたのだ。

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