第2話
◆ ◆ ◆
教室に着くと既に半数以上の席が埋まっていた。
ざわつく教室。
見知った者同士のくだけた談笑に紛れて、たどたどしい挨拶が入り交じっている。きっと初対面の相手との距離を探っているところなんだろう。僅かな緊張が孕む光景は新しい環境下ならでは、だ。
俺はこれから二年A組の一員として、ここにいる奴らと共に一年間を過ごすことになる。
あまり実感は持てない。
だってそうだろ?俺の人生は俺のものだ。同じ教室で勉学に励むだけの関係がどういった経緯で俺の人生に介入できるというのか。道端ですれ違う他人をいちいち気に掛ける人間なんていやしない。脳の容量は無限大じゃないんだ。記憶や思い出とやらを脳が保持するのにも限度がある。だったら“顔を合わせて、はい終わり”的なクラスメイトのために貴重な時間を割く必要もない。
言っておくが、俺は決して孤立を望んでいるわけじゃない。一匹狼に憧れを抱いたり、他人と違う自分を演じて愉悦に浸りたいとも思っていない。そんな風に孤軍奮闘するのは大抵、周りから除け者にされた憐れな奴だから。
興味はないが嫌いじゃない。好きではないがいないと困る。有り体に言えば、話し相手が欲しいのだ。
話をする事で自分の存在を客観的に認識することができる。ここにいても良いのだと、安心できる。
だが自分から話し掛けるのはかなり気が引けるのだ。他人なんてのは姿かたちが似ているだけで自分とはまったく違う生き物だから。相手の心を透かし見ることなんて出来ないし、第一そこまで知りたいとも思わない。
相手の考え方が分からないから、何を話せばいいのか、どこまで訊いて構わないのか。言葉の受け手を理解できないから不安になる。そしてそんな不安はいつしか猜疑心に変わり――俺は他者の親切を素直に信用できなくなっていた。
――誰かといたいくせに、一人でいたい。
孤独から逃れるためには、時に耳を塞いで眼を逸らすことも必要なのだ。俺にとってそれは処世術であり、それがなければ今頃は不安に押し潰されてしまっていることだろう。どこまでも他人を信じられず、疑り深さがますます募り、醜い心に呑み込まれた自分がきっと、そこにはいる……。
だけど今の俺はどこまでもあまのじゃくで。
本音と恐怖の板挟み。
虚心坦懐とは程遠い。
そんな言い訳染みた感情を燻らせながら俺は後ろの扉から教室に入る。
掲示板に記載されていた番号を思い出して、指定された机を目指した。
机には1~36までの数字が印字された小さな札が貼り付けられている。数字は黒板を前にして、最前列の左の席から順に右へと増えていき、端に着くとまた後列の左手から続いていく。
ちなみに俺に割り振られた数字は31、窓際最後列である。
迷いのない足取りで自分の席へ向かうと、鞄を机横のフックに引っ掛けて腰を降ろした。ふぅー、と大きく息を吐いてから窓の外へと視線をやる。さっき校庭で眼にした虹はもう見えなくなっていた。
「なあ?」
頬杖をついてぼんやりと景色を眺めていると、前方から男の声がした。
どうやら俺を呼んでいるらしい。
姿勢はそのままに、俺は手のひらに乗っかる頭をずらして目線を声の主の方へ向ける。陽気な表情を浮かべた男子が好奇心に輝く眼でこっちを見ていた。
赤みがかった茶髪、というだけでも目立つというのに、紺色のヘアバンドで前髪を持ち上げているそいつは、どういうわけか冬でもないのにブレザーの下にパーカーを着込んでいる。
山の向かいに海があるとはいえ、四月の平均気温はおよそ15℃――虹霓市の春は長閑だと感じるには充分すぎる気候だ。とても厚着をしたいと思えるものではない。極度の寒がりなのだろうか……ファッションにしては見てる俺でも暑苦しさを覚えてしまう。
だが俺の印象に反して、そいつは暑さなんて何のそのといった風に、清々しいくらいのにこやかな顔をしていた。
「なあ――」男子はそう繰り返してから明るい調子で訊ねてくる。「お前ってさ、外進組だろ?」
外進組とは外部進学組の略称である。
つまりは他所の中学からこの高校に受験してきた、俺みたいな奴のことを言う。
俺が通う
学科は二種類に分かれていて、一クラスは三十六名の総合学科が三クラス、二十名の演劇学科が一クラスあり、それぞれA組からD組と割り振られている。
第一学年の期間はカリキュラムの調整や校内における規律の浸透化を図るために、内進生と外進生のクラスは別々に振り分けられている。内外混合のクラスとなるのは学習進度が追いついた第二学年からなのだ。
すなわち、進級後に初めて見る顔というのは必然として、内進生か外進生かがはっきりするというわけだ。このパーカー男子がわざわざそんなふうに訊いてくるということは、あっちは中等部から受験無しで現在に至る内進組の生徒なのだろう、たぶんだけど。俺、昨年のクラス全員の顔なんて覚えてないし。
「……そうだけど」
俺は軽く頷いてそう答えた。
「…………」
「…………」
妙な
なんだか気まずい。
いや、あっちは相変わらずの親しげな雰囲気を放っているのだが、口角を上げながらじっと俺の顔をみているだけなのだ。それがまるでもっともっとと無言で訴える子どものように、眼をきらきらさせながら俺の言葉を待っているかのような態度だった。
沈黙に耐えられず、俺は口を開く。
「えっと……そっちは内進組、だよな?」
「おう、そうだ」
良かった、合ってた。微妙に自信なかったから焦ったんだが。これで違うなんて言われたらどうしていたものか。一年間クラスが同じだったのに覚えてないとか知られたら、気まずさは半端ない。というか何のドッキリだよ、これ。
冷静に考えればドッキリでもなんでもないわけだが。ちゃんと俺が顔と名前を覚えていれば何の問題もなかったのだから。それでもこいつの人懐っこそうな眼で見つめられていると、普段から無関心を装う俺としてはどうにも不安になってしまったのだ。
緊張するあまり、いつの間にか手から顔を離していた俺は、相手に向き直る。
たぶん、面と向かい合わずの会話だったからなのだろう。俺と視線が真っ直ぐに合うと、男子は自己紹介を始めた。
「
「
「…………」
「…………」
また言葉が途切れる。
不自然な、だけど意識的な沈黙。
なんなんだこれは。
などと思っていると、冴木と名乗った男子は机に片肘を乗せて、ぐいと身をこちらに乗り出してきた。
「下の名前は?」
「し、
「クラスは?」
「C、です……」
「だよな!そりゃそうだ!」
臆面もなく大笑いする冴木に思わず顔が引き攣る。
急に顔が近付いてくるもんだから焦った。思わず、敬語になってしまったし。
おまけに後ずさりしそうになる気迫があるくせに、当の冴木は笑顔のままなのだから、なお恐い。
ついでに第一学年時の総合学科はCのみが外進組だったので、分かりきった質問をされたわけだ。
「よろしくな、常塚」
席に座り直して、冴木は握手を求めて俺に手を差し出してきた。
「お、おう……よろしく」
あまりのフランクな態度に少々困惑しながらも、彼と手を交わそうとすると。
パチンっ!
そんな音と共に俺の腕は弾かれた。
「そこは『苗字で呼ぶのかよっ!』てツッコむところだろ」
「は……?」
ぽかんとする俺。
「ああ、もうっ!察しが悪いなぁ……わざわざ名前まで聞いたのに呼び方が苗字だったらおかしいって話だろ」
冴木は焦れったそうにぼやいた。
そこで俺もようやくこいつがボケていたんだということに気付いた。いやにテンションが高いもんだから、とてもそんなことを考えてる余裕はなかった。
オープンというかウザいというか、ぐいぐいと迫ってくる冴木は俺とはまるで違っていて、ひどく扱いにくい。
うわぁ、面倒くせぇ。
変な奴に眼を付けられてしまったな。
そう胸の内で暗澹としていると、冴木の首の近くできらりと光るものがあることに気付いた。
左耳の後ろ、ヘアバンドから覗く髪の一部をコルク栓ほどの金属品が小さく束ねている。
おそらくヘアビーズの類いだろう。銀色のそれは表面が透かし彫りになっていて、繊細で独特な模様が刻まれていた。
別段マイナーな装飾品というわけでもない(むしろ一般認識の部類に違いない)のだろうが、“先住民族が身に着けているようなやつ”なんて発想が最初に浮かんでくる分には俺とは縁がなかった。こうして実際に眼にするのは初めてだったし、ラッパーとかダンサーが好んでするような編み上げまくったヘアスタイルならまだしも、長めの髪にちょこんと付けているだけなのは、如何せん無駄な気すらした。
俺が不審がっていると、冴木は「わりぃわりぃ」と軽妙に笑ってみせた。
「ここって中高一貫だろ。俺、中学からずっと同じ顔ぶればかりだったからさ、お前みたいなのを見るとなんだか新鮮で、つい嬉しくなっちまって」
「はあ……」
まあ、分からないでもないが。
目新しいものに出会ったら、誰だって何かしらの意識を向けるものだ。
聞き慣れない言葉。
初めて見る景色。
迷い犬。
これまでになかった存在はその場の空気を塗り替え、自ずと人を惹きつける力があったりする。それが好奇心か恐怖心かは人それぞれになるのだろうが。
冴木にしてみれば、俺は謂わば動物園に新たな一員としてやって来たパンダみたいなもんなのだろう。自分たちとは異なる感性の持ち主、興味対象者。そんなもの、誰にだって備わってる心理ではあるが、真秀高みたいなところでは些細なことでも一般より過剰に反応しがちになる奴がいてもおかしくないのかもしれない。
「ところで翔吾――あっ、翔吾でいいよな?」
「ああ、まあ」
「それでな翔吾、一つどうしても訊いておきたかったことがあるんだ。お前ってどうしてここの高校を受けたんだ?」
どきりとした。
「……どういう意味?」
質問の意図をはかりかねて訊ね返す。
「単なる興味本位だよ。外部募集枠があるにしても、一貫校に途中から入るのってちっとばかし抵抗あったりするもんじゃねぇの?人間関係がほとんど完成した場所に飛び込むようなもんだから。それに授業の進行度だって一般の公立より少し早いらしいし」
「ああ、なるほど……」
冴木の問いが俺自身に向けられたことではなく、内進生としてだということが分かってホッとする。
高校受験をする際にはかなりの学力を強いられたことを覚えている。
ここ真秀高では情報分野に重きを置いているため、試験問題には基礎科目の五教科だけでなく、それなりの専門知識を必要とする設問がちらほらと見られた。
まあ、寝て遊んでがデフォだった並の中学出身の俺には、そのほとんどがちんぷんかんぷんな内容だったわけだが――。
どうせ不合格だろうと、正直開き直りすらしていたものの、受験から数日経った頃には自宅に合格通知書が届いていた。
真秀高の受験には筆記試験と共に面接審査も執り行われたのだが、どうにも受験時にもっとも重視されていたのは後者のほうだったらしい。それは俺の答案用紙の点数を見てみれば一目瞭然である。
学校側は知識と言うよりは物事に対する感性だったり意欲だったりと、内面的な部分を受験生たちに求めていたのだ。
受験生が自分たちの運営する学校の気風に見合った者かどうかを吟味するための面接。
一般校よりも少し視点の高い受験問題は、もしかすると入学後における本人たちの意識の向上を目的としたものだったのかもしれない。真秀高の教育方針にはそういった自主性に重きを置いているからだ。
「まあ、確かに受験問題は難しかったな。でもそれって偏差値の高いとこならどこでも同じだろ。授業の遅れだって、補習期間を通して一年の間に追いついてる。人間関係だってそうさ、一から築かなきゃならないのは何も一貫校に限ったことじゃない」
俺は椅子に背中を預けて天井を見上げながら、それらしいことを言ってみた。
俺の内面性が学校の方針に見合っているかは怪しいところだが、そこは黙っておくことにする。
冴木は俺の返答に「へぇ~」と感心していた。
「大抵の奴がこの学校に将来性を感じたから入学したんだと思うけどな」
そう最後に締めくくるつもりだったのだが。
「じゃあ、お前も将来性を感じて来たわけだ?」
「あ、いや……」
言葉に詰まってしまう。
しまったな。
「俺は……あれだ、親の都合で引っ越すことになったから。それでここを受験したんだけど」
事実的な状況としては嘘はついていない。
だがここいらの話をほじくられるのは、俺としてはあまり好ましくない。
僅かにだんまりとした時間があって。
「……ふーん」
冴木は納得してくれたのか、頭を小さく縦に揺らしていた。
「引っ越しってどこから?」
「東京のほう」
「へぇー、ずいぶん遠くからなんだな」
「まあ仕方ないさ、親の都合だから」
二度押ししておく。
「ということは今はこっちに住んでるのか。それとも近場から電車通学とか?」
「
虹霓市には連峰を水源とするいくつもの支川が合流してできた、
街は凍冴川によって両分されており、その二つの地を行き来する主要な手段の一つとして、
「あそこかぁ」
冴木が遠くを見るような眼でつぶやく。
「夜月橋を通って来てるってことか……だったら俺んちも毎日眼にしてるわけだな」
「橋の近くに住んでるのか?」
「いや、近くじゃない。ずっと端っこだ」
にしし、と嬉しそうに笑みをもらす冴木。
「川のこっち側に
「あぁ、やたらデカい鳥居と石段のある神社だろ」
橋を見て左手の通りをずっと進んでいくと冴木の言う神社がある。山の中腹に鎮座するその神社は朱塗りの大鳥居と見上げるほどに長い石段を越えた先にある。
街では小さな社をいくつか見掛けたことはあるが、荘厳な社殿を構える神社はそこくらいである。
「あれだけ目立つ色だからな。橋を渡ってると、嫌でも視界に入ってきて……って、」そこで俺は察した。「まさかあの神社に?」
訝しげに見つめる俺に、冴木は得意げな顔で返した。
「驚いたか?まあ、そりゃそうだよなー。神社の息子なんて、そうそうクラスメイトにいるわけじゃないもんなー」
「そんななりで神社の人間ってことに驚いたんだよ」
「見た目は関係ねぇだろ」
いやあるだろ、普通に。
神聖な場所なんだから。
「何か願いごとがあればいつでも神社に来いよ。恋煩いは年中無休で受け付けてるからな」
その直後だった。
ガララッと弾けるように扉を開いて、女子がひとり教室に飛び込んできた。
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