第2話 喚び出し

「――ん?」


 あまりにも次の生の思案に夢中になっていたからか、気付けば落下中だったはずのグラビテウスは、固く冷たい床の上に仰向けになっていた。


「なんてことだ。まさか自分が死んだことにさえ気付かないとは。――しかし、やけにあっさりしすぎではないか?」


 もう痛みがわからないほどのひどい状態だったのか、それともあまりに高度が高すぎると落下した際、痛みを感じる前に死んでしまうのか。

 判断は難しいが、どうやら自分は死んだらしい。


 目を開けて上体を起こす。ゆっくりと立ち上がってみるが、特に痛みは感じなかった。

 と、グラビテウスが立ったのをを見計らったかのように、どこからか鏡が音もなく目の前に現れた。大きなそれはグラビテウスの姿を余すところなく写し出す。


「――な、なんじゃあ、こりゃあっ!?」

 

 鏡に写っていたのは、なんの変哲もない人間の姿だった。

 うねった黒髪の、人間でいうと十代半ばほどの年頃の少年が、グラビテウスのことを見つめている。その驚きに丸くなっている双眸は、まるで血のように紅かった。


「ま、まさか、これが俺だって言うのか? こんな街に出ればいくらでも転がっていそうな人間の子が!?」


 雄々しき巻き角に鋭く生え揃った牙、身の丈三メートルを越える屈強な体躯。


 その全てが鏡に写る少年からは消え失せ、グラビテウスが誇っていた魔王と呼ばれるのにふさわしい風格は微塵もなかった。


 まったくもって信じがたきことだった。


 だが、落ち着いたあしらいの黒いロングコートを赤いシャツの上から羽織り、己と同じ動きをする鏡のなかの少年は、間違いなくグラビテウス自身だった。


「ご自身の身体の変化が理解できましたか? 我が魔王様」

 

 突然、頭のなかに響いた声にグラビテウスが顔をしかめると鏡が消え去り、入れ代わるように二体の石像が現れた。


 稀代の彫刻家が、その神業でもって彫ったが如き石像には、細くくびれた腰に豊かに膨らんだ胸、人あらざる美しい貌と、そのモデルとなった存在の神々しさが表れていた。


「……負の女神アーデス、正の女神リーブア」

 左側の黒い女神像と右側の白い女神像を交互に見てから、グラビテウスは女神たちの名を呼んだ。


 黒い女神像、アーデスには腰からコウモリのような翼が、白い女神像、リーブアには腰から鳥のような翼が生えている。


「お久しぶりですね。我が魔王様」

 

 黒いアーデスの像からその容姿に相応しい、美しく親しげな声が響く。並みの男が聞けば、それだけで自ら推んで命を捧げたくなることだろう。


「俺という存在が創られた時、以来だな。……確か、もう五百年ほど前か?」

 あまり自分が過ごした年月には興味がなく、グラビテウスは首を傾げながら言った。


「ええ、私が魔王様を創ってからすでに、五百年と三七日、九時間が経過しています」

「……それで、俺を創ってからずっと音沙汰なしだったお前が、今さらなんのようだ? どうして正の女神と像の姿で現れる?」


 グラビテウスは、いちいち頭に響いてくる声に辟易しながらもアーデスに訊いた。

 役目を終えたグラビテウスを迎えに来た、というわけではなさそうだ。

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