第3話 大切なもの
「火星に行く前に、もう一度会ってくれないか」
通信機の向こうでは、またもや無言が続いていた。アリスはロイが火星へ行くことを、管制塔の誰かから聞いたらしい。
ロイはモニタに映る国際宇宙ステーションの円環を見つめていた。遠心重力を生み出しながら回転するそれは、宇宙という深海に浮遊する海月のようだった。
そんな安直な例えは、小説を書いているアリスに馬鹿にされるだろうか。馬鹿にしてくれたら嬉しいと思った。いつまでも、彼女の言葉を聞いていたかった。
月面基地が近づいてきた。ロイの宇宙船は自動操縦に切り替わり、着陸態勢に入る。その時、ロイの耳はノイズを感じた。彼女が話し始めるよりも前に。
「わかった。三日後の夜、こっちに来られる?でも、何時になるかわからないから」
「行くよ」
直後に月面からの通信が入り、ロイは自分が運んできたデブリ、いわゆる宇宙ゴミの積載量を正確に伝えた。
彼の仕事はデブリの回収だった。つまり、ゴミ収集車のような仕事だ。人間の宇宙進出に伴い、宇宙空間の環境汚染は大きな問題となっていた。
各国が打ち上げ放題の衛星の残骸や、事故で飛散した部品などが時速数千キロにまで加速され、ステーションや宇宙船を襲う。
そうなる前に、ロイたちのようなデブリ屋が宇宙ゴミを回収するのだが、それにしてもきりがない仕事でむなしくなることもあった。
「坊、火星へはいつ向かうんだね」
機体の点検をしていると、整備士のシゲルが推進剤で向きを変えて近づいてきた。もういい歳のくせにその身のこなしは船外活動のスペシャリストであるロイでも惚れ惚れするほど無駄がない。
「五日後です。じいさんともしばらくお別れですね」
「薄情なやつめ」
シゲルはロイの肩に手を置くと、つーっと船体の上部へ上がっていき、デブリにやられた装甲板を撫でた。ロイは宇宙服の中で苦笑を漏らし、ごめんなさいと呟いた。
自分は、いろんな人に感謝しないといけない。それはわかっているのだが、どうしてかうまくできなかった。ロイにはわからなかった。
どこで笑っていても、いつも自分には居場所がないような気になってしまう。どんなことでも結局、自分には関係のないことのように思えて仕方がなかった。
おそらく、自分に居場所がないというのではなくて、自分自身というものが彼には存在しなかったのだろう。だからどんなことも他人事にしか感じることが出来ず、へらへらと笑って過ごしてしまう。
火星行きのための健康診断書を受け取りに月面基地の病院内を歩いていたロイは、突然後ろから抱きつかれてよろめいた。
「お兄さん!」
「スズちゃん、おはよう」
腰のあたりを振り返ると、小さなかわいらしい少女が怒ったような泣き顔をしていた。後ろからスズの姉であるアユハが「月面時間はもうすぐ夜だよ、おじさん」と言いながら歩いてきた。
「おじさんって言うな」
「お兄さん、火星に行っちゃうってほんと?」
ロイはしゃがみこんでスズと目線を合わせ、目に涙を溜める少女の頭を優しく撫でた。
「うん、ごめんな」
「やだ!」
首に抱きついてくるスズをそのまま抱き上げて立ち上がった。アユハが大人ぶって肩をすくめてみせるので、ロイは思わず笑ってしまう。
ごめんな、ともう一度心の中で呟いた。スズと出会ったのは、去年ロイが自暴自棄になっていた頃だった。トレーニングをサボっていたせいで骨粗鬆症気が進行し、足を捻っただけで骨折して入院することになった。
病室の入り口から頭だけ出してこちらを覗き込んでくる少女二人に向けて、ロイは昔日本の宇宙ステーションに滞在させてもらった時に習った折り紙で飛行機を作って飛ばしてやった。
医療の進歩で骨折自体は数日で治ったのだが、彼の心が回復したのは、お兄さんと言って毎日駆け寄ってきてくれたスズの笑顔のおかげだった。
数年後、もし帰ってきたとして、この小さな少女は自分のことを覚えているだろうか。自分はもしかすると、とても大切なものに気づかないまま日々を浪費しているのではないか。いったい自分はどこへ行き、何を手に入れたいと望んでいるのだろう。
スズが泣き止むまで、ロイはアユハの手を引いてしばらく院内を散歩した。アユハは月面で一番評判のいい私立小学校への進学が決まったらしいが、そこの制服が気に入らないと拗ねていた。それから、エスカレーター式の中学に進めば、修学旅行で火星に行くという話もした。
「九年後かあ、遠いなあ」
「あっという間かもしれないよ、宇宙じゃ時間が歪むからね」
「お、さすが有名私立小学生。でも五歳児に言われてもなあ」
「ま、その頃ロイは本当におじさんになってるね」
最後まで生意気なアユハにロイは救われていた。胸の上でしゃっくりが止まらないスズのことを思うともう連れて行きたいくらいだった。
しかし彼女たちにはそれぞれの人生があり、それはまだ始まったばかりだ。輝かしい未来の卵を自分のような人間が持ち去っていいはずがなかった。
幸せになってほしい、と心から願った。星はいくらでもあったので、どうかこの願いだけは叶えてほしい。
泣き止んだスズとアユハにアイスを買ってあげ、三人は地球の見える窓辺に座った。青い星はやはりロイの心の故郷であった。しかし隣に座る二人は違った。
彼女たちにとって、地球は行ってみたい場所に過ぎない。彼女たちの故郷は、この月面だった。月で生まれた少女たち。地球を知らず、海を知らず、青空も夕焼けも知らない。
深淵のような黒い空間が、生まれた時から彼女たちを包み込んでいて、人間の科学技術で保護された環境しか知らない。しかし、その笑顔はロイに地球から見た太陽を思い出させ、彼の心を温めた。
彼女たちは自分たちの世界を愛していた。それなのに、地球で生まれたロイは、何かから逃れるように宇宙へ飛び出し、そこでも居場所を見つけられないと思い込み、もっと遠くへ行こうとしていた。
「スズちゃんに、これをあげる」
ロイはバッグから、貝殻でできたペンダントを取り出した。それは、彼が先月、デブリ回収の際に見つけたものだった。
きっと、いつかの旅客機事故の遺留品なのだろう。そんなものを、と自分でも思ったが、何か地球にまつわるものを少女にプレゼントしたかった。かといって、スケジュール的に地球へ戻っている時間もなかったし、地球由来のものは月面では馬鹿らしくなるほど高い。
スズの首にかけてあげると、少女はその貝を開いて見つめていた。それから姉に何かを尋ね、頷くと、自分でペンダントを外し、ロイに返した。
「いらないの?」
「お兄さんに持っててほしいの」
あ、ちょっと待って、と言って、スズは貝殻に口づけした。
「私たちの空は、願い事かけ放題だからね」
アユハがスズの頭を撫でながらそう言った。わけがわからないロイは、自分も貝殻を開いて見てみた。
そこには「save you」と綴られていた。ロイは、涙が溢れることに逆らわなかった。誰かを守れなかったそのペンダントの想いを、自分なんかが受け取ってもいいのだろうか。
しかし、スズの想いは、こんな世界でも心から信じられるものだった。だから、自分はそれにすがろうと思った。
そして、ロイは自分が探しているものに気がついた。自分は、そんなお守りがこの世界に欲しかったのだ。
絶対に信じられるものが、欲しかった。それが今、目の前にいるのに、自分は彼女たちを置いて、遠くへ行こうとしている。
少女たちと別れ、診断書を受け取って船室に戻ったロイは、二人からもらった折り紙の鶴を目の前に浮かせ、ぼんやりと考えた。
自分は、アリスに何を求めようとしているのだろう。あの日、アリスと過ごした時間は、まるで幼馴染と再会したように心地よく、ずっとそばにいたいと思った。
彼女の話す言葉から、彼女の優しさや賢さが溢れ出し、そのどれもをロイは尊敬した。アリスと一緒にいれば、自分も少しはいい人間になれるような気がしたのだ。それなのに、自分は火星に行く。どうしてなのだろう。
自分はいつも、与えられてばかりだ。折り鶴を眺めながら、ロイは唇を噛んだ。いったい自分に、何ができるのだろう。みんな幸せになってほしい。
しかし、どうすればいいのかわからなかった。自分はやっぱり、誰とも関わらない方がいいのだろうか。誰とも関わらず、独りで生き、独りで死んだ方が。
違う。いろんな人の想いを、自分は感じているはずだ。知っているはずなんだ。愛を、感謝を。それなのに、どうして知らないふりをしようとするのだろう。
何かを返せる自信がないからだろうか。こんなに遠くまで来て、いったい何をしているのだろう。
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