第2話 徴

「だって、好きなら何よりもまずそばにいないといけないと思う」


 初めてアリスと食事へ行った日、ロイは自分でそういった。それは彼の今までの経験によって導き出された考えだった。


ロイにとって誰かのことを好きになるというのは何よりもその相手を優先するという意味で、彼は実際そのために大学を中退したことすらあった。


そして船乗りとなり、宇宙を気ままに旅する生活を送るようになった彼は、もう自分が誰かを本気で好きになることはないのだろうと思っていた。しかしそれは間違いだった。


「信じていれば、距離は関係ないんじゃない?」


 しかしアリスは先ほど自分で「簡単に人を信じられない」と話していた。それはおそらく彼女が普段相手にしているロイたちのような船乗りのせいだろう。


この広大な宇宙を孤独に飛び回る彼らは飢えていた。ロイも仲間たちの粗野な言動や行動はよく知っているし、アリスを誘い出した自分だって同じようなものだ。それならどうして彼女はこの誘いにのってくれたのだろう。


「なんでかな、自分でもわからない。たぶん、ちょっとした好奇心?だってあなたは、今まで一度も誘ってこなかったから。どうしてそんな気になったんだろうって」


 そういうとアリスはデバイスで何かを表示させ、ロイに差し出した。


「これは、君が書いたの?」

「ええ。私ね、実は小説家なの」

「マジで?ペンネームは?」

「なーんて、嘘。まだネットで少し公開してるだけで、誰にも届いてないの。世界にはこんなにたくさん人がいるのに、不思議なものね」


 冒頭を読み始めたロイの前でアリスはさっさとデバイスを鞄にしまった。


「読ませてよ」

「やだ」

「なんで」

「なんでも」


 顔を見合わせていると、不意に恥ずかしくなりロイは目を背けた。アリスは何故かクスクス笑い、あなたって、と銃の形にした右手をロイに向けた。


「仕事中はしっかりしてるのに、普段は情けない顔ばっかりするのね」

「悪かったね情けない顔でさ」

「嫌いじゃないけどね」


 にやにや笑うアリスの白い頬もほんのりと赤く染まっていたが、ロイは深宇宙に逃げていたので見逃してしまった。


バーンとアリスが小声で言うので、ロイは胸を押さえて赤ワインを口の端から少し垂らした。アリスは「きったないなあ」と言いながら大笑いした。


その時のロイはまだ気がついていなかったが、まっすぐに目を覗き込んでくる目の前の女性のことを、この瞬間、どうしようもなく愛し始めていた。


 食事を終えた二人はレストランエリアを出て居住区へ向かった。アリスが今そこにいて、ロイはその隣を歩いている。そのことが、彼は悲しかった。


ロイは、宇宙を漂う根無し草の生活を続ける自分を強く恥じた。それは彼自身が憧れ望んだ職業であったが、今彼は、故郷を持つことに強い憧れを抱いていた。


ある場所に生活の根を下ろし、大切な人々との繰り返される日々を愛する。そんな想像に胸を焦がした。


しかし、彼はもう選んでしまった。変えられるのだろうか。そして、変えたとして、自分がそれに満足し続けることができるのだろうか。


そんなことを考え、結局彼は、自分が自分自身以上に大切にできる人はいないと思ってしまうのだった。


「ねえ、話聞いてる?」

「ああ、聞いてるよ。何か、徴が欲しいんだろ?」


 徴か、とアリスは自動ベルトに引かれながら彼の言葉を繰り返した。二人は遠心重力区を抜け、居住区へ繋がる無重力エリアに浮かんでいた。


「そうかもしれない。私は、それが私じゃなきゃいけない徴が欲しい。自分に自信がないから。そこにいてもいいんだってくらいじゃ不安。私がそこにいなくちゃいけない、くらいのものがなきゃ、怖いのかもしれない」


 ロイには「そうだね」と頷くことしかできなかった。彼にはそれ以上何も言えなかった。目の前で笑い、悩み、目を見つめてくれる彼女に、自分が火星へ旅立つことすら言い出すことが出来ないのだから。


 火星行きは、ずいぶん前からロイが憧れていたことだった。ようやくそれが実現しようとした時に、彼はもう自分がそこへ行きたいとは思っていないことに気がついてしまったのだ。


しかし、一度決めたことを今更取り消すわけにもいかない。そうだろうか?ロイにはもうわからなくなっていた。自分が本当に必要としていることは、一体何だったのか。


 アリスを居住区まで送り、ロイは自分の船がある無重力区へ向かった。今朝も医者からまた骨粗鬆症の初期段階であると警告を受けていたが、そうはいっても自分の船以外に眠る場所はないわけでどうしようもなかった。


シャワー室で体を流し乾燥室で風に吹かれている間も、ロイは自分がいったい何をどうしようとしているのかさっぱりわからなかった。


昨日まで、自分は航路を迷いなく選択していたはずだった。その先がたとえ間違いであっても、それは自分だけの問題だった。


壁を蹴り、仮眠室にたどり着くまでの等速直線運動で、ロイはついに気がついた。


つまり、彼はもう、自分の選択を自分自身だけのものだとは考えられなくなっていた。彼はアリスに恋をしていた。どうしようもなく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る