第9話

 ビリリと、何かが裂けて破れたような音が鳴り。丸くなったイサミの背中が二つに割れた。それはまるでセミの羽化を見るかのような光景であった。


 噴き出す真紅の飛沫を伴い、イサミの中から現れ出でたものは針のような背びれと、そして二つの長大なる“腕”。


 腕は上腕とそれよりも圧倒的に長い前腕からなり、手首があって、そして手から伸びた五本の指は親指を残し何れも腕以上に長かった。それは例えるなら――と言うよりも紛れもないコウモリだとかそう言った生き物と同じ作り。ただしそこに表皮は無く、飛膜も無かった。


 血飛沫を伴う荒い呼吸を繰り返しながら、それまでひたすら苦痛に悶えていたイサミがゆっくりと立ち上がる。巨大な骸骨の翼を背負い、そして失ったはずの左脚からは、やはり骸骨の脚を生やして彼女は再び立ち上がる。


 イビツたちはそんな彼女の変容に戸惑うと共にそれから感じ取れる、上位者の気配に恐縮し警戒を続ける。続けざるを得なくなっていた。


 そしてイサミの変貌は終わらない。

 またも彼女の全身が内側から何かに突っつかれでもするように隆起を起こし始める。人の形が崩れるほどの隆起である。苦痛が伴わないわけも無く、イサミは己の身体を抱いた。悲鳴を抑えるための雄叫びを挙げる。吐瀉物で焼けた喉で挙げる、酷い声で。


 ――この苦痛がイビツを殺すためのものであるなら、良い。

 ――この酷く醜い姿がイビツを殺すためのものなら、好い。


 だから――イサミは食い縛った歯を打ち鳴らしながら言う。

 苦痛を堪えながら、血で真っ赤に染まった目でイビツたちを睨み付けながらその右手を差し伸べ、痙攣しギクシャクと勝手に動き回る五指の中にイビツたちを収める。


 そしてイビツを握り潰すように作った拳。それが直後、一気に膨張し皮膚が裂けて血が噴き出した。


「――だから、力を……寄越せ!!」


 メフィスト――イサミが咆哮した。

 そんな彼女の顔が鼻筋かた縦に裂け、ずる剥けた皮膚の内側から露わになったのは頭蓋。しかし頭髪だけは残り、ざんばら髪となったそれにどくろの殆どは覆い隠され、片方の眼孔に浮かんだ金色を残し髪に覆われたそれはあたかもフードに覆われたようであった。


 更には次々皮膚が剥けて行くイサミからは異形の骨格がその姿を現し、左脚の骨格もうねるようにして太く強靱な獣の脚のような形に変わる。


 腕もそうであり、か細い彼女の腕に収まりきらなくなった巨大な骨格が皮膚を突き破りそこから飛び出した。白骨化した五指には鉤爪が備わり、その手のひらは人を一人鷲掴みに出来そうな程に広大。


 全身の変容を終え、巨大な四肢と翼を携え頭髪のローブを纏った死神サリエルへと変貌を遂げたイサミは、その巨大な手に相応しい、巨大な鎌を握り締める。


 そうして顎を開き、悲鳴が如き金切り声を張り上げた彼女は漆黒の靄も周囲に発生させると次の瞬間、霧をその場に残したまま己の左脚を食ったイビツの背後へと突如出現し、イビツがそのことに気付く前に振るった鎌でそれの頭部を打ち砕いた。


 頭部を失い、身体を震わせながら倒れて行くイビツを前に、歪なイサミはただ佇む。揺らめく黒の霧を纏い、眼孔に浮かび上がる金色を揺らめかせながら。


 そんな彼女を取り囲んだイビツたちが一斉に鳴き声を挙げ始めた。それは獣とも人の声とも付かない音で、実に騒々しくも、しかしイビツたちに一種の連帯感をそれは覚えさせた。


 数匹が一斉にイサミへと飛び掛かる。

 しかし彼女は微動だにせず、代わりにその背に生え揃った刺が如き背びれが勢い良く伸び、背後に迫ったイビツを串刺しにした。


 そうして残るは視認範囲に居るイビツのみ。

 手にした鎌を一振りすると、それが纏った霧が刃となり残るイビツをも一蹴する。だが、全てでは無かった。掻い潜った一体がイサミへと飛び付き、骨だけの肩口へとその鋭い牙の生えた顎で噛みつく。


 人の骨すら容易に貫き噛み砕く顎による噛み付きバイティングである――が、人であれば間違いない。


 だが此度の相手は“元が人間”なだけの異形。

 その全身を形成する太く頑強な骨格は逆にイビツの牙を砕き、顎を破壊するほどの強度であった。


 攻撃が無意味であると悟ったイビツはそれから逃れようとするが、それよりも速く、イサミが差し伸べた巨大な手のひらがイビツの身体を鷲掴みにする。


 ギャアギャアと、恐らく元となった人間のものであろう野太い男の声で罵詈雑言を吐き散らすイビツはイサミの手中で藻掻く。しかし簀巻き状態であるそれの力は彼女に敵わず、逆にイサミが少し力を加えただけでイビツの身体ならバキバキと骨身の砕ける音が鳴った。


 そんなイビツを、イサミは徐に自らの口元へと運んで行く。そしてイビツを前にし、パカリと彼女の白骨化した顎が開いた。それの前に暗黒が広がる。

 相変わらず喚き続けているイビツであったが、その頭が彼女の口腔へと収められ、開いた顎が再び閉じた時、それは静かになった。


 パリパリ、ポキポキ、クチャクチャと、彼女の顎が開閉する度に咀嚼音が響き渡り、残るイビツたちはそれをただ見つめ続けていた。恐怖、絶望。本来イビツが抱くはずの無い感情がそこにはあった。


 そして最後に残ったイビツの片脚を一口にしたイサミ。

 異形の姿をしたままの彼女は血塗られた口元をそのままに、ゆっくりと金色に輝く眼孔で周囲を見渡す。


 ――まだ足りない。死が足りない。

 ――お腹が空く。まるでお腹に穴が空いたみたい。

 ――でも大丈夫。ごちそうはまだ、まだ沢山のある。


 アレは危険だ――イビツたちの総意であった。

 群れて鳴く犬や鳥のように、イビツの一つが雄叫びを挙げると残ったイビツたちもつられるように雄叫びを挙げ出して行く。


 ――アハ、アハハ、ハハハッ


 骸骨も同然のイサミの顔に表情は無い。その代わり、ケタケタと顎を鳴らしながら、イビツの狂騒の中で彼女は笑い声を挙げる。歓喜、怒り、悲しみ。あらゆる感情から湧き出す笑声であった。


 そして彼女は背中の翼を羽ばたかせ、宙に舞う。

 その金色の眼光と、手にした大鎌が赤い赤い世界に煌めいた。

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