第8話
イビツ――イビツイビツイビツ、
人に付け入り、人を攫い、人を喰らう。それがイビツ。
人が地上を支配し、社会を築き、関わりを強めた結果生じた歪み。それがイビツ。
そして、イサミから全てを奪ったもの、それがイビツ。
それが今、山と居る。
右を見ても左を見ても、何処を見てもイビツが居る。
イサミ――メフィストフェレスがイサミへと語り掛けようとした。果たして何を語りかけようとしたのかは当人以外に知る由もない。
しかしメフィストフェレスはそれを語る前にその口を閉ざしてしまう。代わりに僅かに口角が持ち上がっていた。
「――イサミ、君は何を願う。望む?」
それがそうかは、やはり彼にしか分からない。
だが失った片脚の代わりに鎌を地面に突いて支えにしているイサミの傍らにメフィストフェレスはその姿を現し、彼女の両肩にそれぞれ手を添えると耳元へと寄せた唇から問い掛けた。
その直前にメフィストフェレスは見た。知った。
この絶望的な状況にあり、しかしイサミが浮かべたる笑顔を。人でありながら獣のように獰猛で、そして悪魔のように歯を剥いた凶悪そのものな笑み。
「――何を望む? 私に、このメフィストフェレスに」
だから問う。
イサミと言う人間が持つ、獣の魂を前にメフィストフェレスは彼女に問い掛ける。
彼女の魂を燃やす怨念。
黒く、どろどろとして美しいその怨念を前に彼は、それを味わう以外の選択肢を持たなかった。
故に問う。
――私なら君の願いを叶えてやれる。
故に問う。
――君なら私の寵愛を受けるに価する。
故に問う。
――何を願い、何を望む?
故に答える。
――そんなの、決まってる。
「全部、ぶっ殺す力が欲しい!」
笑みに口元を引き裂いたまま、イサミが吼える。
そしてメフィストフェレスもまた、抑えきれぬ歓喜に浮かび上がった笑みから刃物のように鋭い牙を覗かせた。
「ならば与えよう、君に与えよう……その力を」
その代わり――
「良いよ、何でも持っていって。好きにして」
メフィストフェレスには一瞥としてくれぬまま、ただ己を包囲するイビツの群れ。その一角を煌々と燃え上がる黄金の瞳で見つめたまま、イサミは全てを聞く前から返事をする。
「流石だ、イサミ」
彼女の言葉を耳にした時、その言葉の意味を理解した時、メフィストフェレスのそれまで柔和だった表情が崩れた。
眼と歯――牙を剥き出しにし、肌の褐色は生々しい血の色へと変貌を遂げる。
悪魔としての醜い姿を顕にしたメフィストフェレスは頬まで深々と引き裂かれた口を開き、青紫をした舌を揺らめかせながら潔いイサミを褒め称える。
悪魔との約束を違えることは許されない。有り得ない。
それを知った上でのイサミの答えに彼は思わず挙げそうになる高笑いを堪え、クツクツと喉に燻らせるに留めると節くれ立ち鋭い爪の生え揃った長い五指で彼女の肩を抱きながら、悪魔はその身体を溶かして行く。
液体へと変容したメフィストフェレス。それはイサミの身体へと降り掛かり、彼女を濡らすかと思えばしかし溶け込むように中へと入り込んだ。
するとイサミは自らの内側から広がる熱を覚え、それがあまりに熱くて苦しいものだからつい得物を手から放してしまい、そうして支えを無くしたことで失った左脚の側から彼女は転倒してしまう。
「ハッ……カッ、ハ……ァ……ッ」
腹の中から焼かれるような痛みにイサミは身体を丸め自らを両腕でキツく抱き締めながら、それに必死に堪える。
しかし一向に苦痛は収まらず、堪らずに伸ばした片手で地面を掴むと爪が割れて剥がれるほどの力で引っ掻いた。五本もの血の跡がそこに残る。
口からは食い縛った歯を覗かせ唾液を止めどなく流し、目端が裂けんばかりに見開いた両目からは今にも飛び出しそうで血走って真っ赤になった眼球が露となりギクシャクと揺れ動く。
熱くて、苦しくて、そして痛い。
今にも内側から張り裂けてしまいそうな感覚。これまで味わったことの無い感覚。苦痛。しかしてそれは甘美でもあって、これがイビツを殺すのだと思うとイサミがそんな苦痛の最中に浮かべたのは笑みであった。
こんなにも沢山のイビツが居る。
こんなにも沢山のイビツを殺せる。
それが嬉しくて嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、イサミは嬉しくてどうしようもなくて、まるで地に落ちた芋虫のように蠢き蹲りながら彼女はしかし、解き放った顎の奥の喉から高々とした笑声を挙げた。
剥いた両目から溢れ出した涙は赤かった。悲しみからの涙では無い。苦痛に彼女の身体が意思とは別に流したものであった。
――殺してやる殺してやる殺してやる!
――ことごとく全部みんな殺してやる!!
――殺させろ、この私に!
――殺されろ、この私に!!
笑声と共に吼えたイサミの口から、腹の中の内容物共々真っ赤な血の塊が噴き出した。ゴボゴボと溺れたような咳をして、ボタボタと赤い粘液を吐き出し続けるイサミ。
来る――とそれは彼女に何かを予感させた。
ぞくりぞくりと何かが背筋を這い上がってくる。全身が痙攣し、内臓がうねり絡まり混ざり合おうとして波打つ。
思わず吐き気を堪えたイサミの閉ざされた唇から、鼻腔から、目からも鼻からも赤が噴き出す。
再び己の身体を両腕で、これでもかときつく抱き締めたイサミであったが、そんな彼女の身体が歪に蠢いた。皮膚が文字通り泡立ち、纏った衣服を押し上げてもこもこと彼女の背が隆起する。
――破れる破れる破れる!!
――捲れる捲れる捲れる!!
そして、肥えた家畜の断末魔が如き甲高い悲鳴が響く。
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