第4話
三
世界は裏返ることがある。
例えばインターネットの掲示板などで時折語られる怪談話。ある時、気が付くと街には自分一人。
周りの人々はまるで影のようになって話し掛けても返事は無いし、それどころか触れることすら出来ない。
そんな影たちが蠢くばかりの街を当て所なく彷徨っていると、その内自分を呼ぶ声が聞こえてくると云う。
その声は家族の誰かだったり、友人、恋人など自らにとって特別で最も仲の良い者の声であって、その呼び声に導かれるままに街を行くとやがて出逢うと云う。
顔の無い、やせっぽちで真っ白な怪物に。
怪物は唇の無い、歯を剥き出しにした口でしかしその者がよく知る者の声を発し言葉を紡ぐ。
動きはぎこちなく、体のあらゆる関節は忙しなく震えている。仕草は何処か子供のようであって、ひょこひょこと跳ねて進んできたりもする。
逃げれば追い付かれることは無いが、しかし決して引き離すことも出来ず、その者が諦めるその時までひたすらそんな仕草と声で甘く囁きかけながら追い掛け続けるのである。
――息を切らし、履いた踵の高いブーツは早々に脱ぎ捨て、タイツを隔てた素足で影の街を必死に駆ける女性が一人。
走りながら、振り乱した髪が顔に掛かり口に入り込むことも気にせず背後に横顔を向けて確認した女性の後には、けたけたと歯茎を剥き出しにした口で無邪気に笑う、ぬらついた乳白色の肌をした長身痩躯の怪物がふらふらとした足取りで付いて回っていた。
助けて――女性の叫びに振り返るものは居ない。此処は影の世界。世界の裏の顔。此処に人は居ない。
「マぁマ~っ」
怪物が発する声は幼く、そしてその声を耳に入れる度、女性の胸がひりりと疼く。けらけらと終わることの無いその笑い声にいつの日かの記憶が蘇る。
忘れようと努めても、新しい人生を見付けようとしても、あの声が、あの顔が邪魔をする。素敵な人との巡り合わせがあった。関係は上手く行っていた。それでも将来を語り合うと、必ず“子供”という言葉に行き着く。
だから躊躇してしまう。だから出逢いが無駄になる。だから忘れようとしていた。
「ママ~っ」
女性は己の両耳を手で塞ぐ。髪を振り乱し、かぶりを振って知らないと繰り返し叫んだ。
そしてその先の曲がり角、奥がどうなっているのか確認もせずに彼女は曲がり、そこが袋小路だと知ると呆然とした。
ママ――笑声と共に幼い声がそこに響いた。女性は振り返らない。
唇を噛み、まるで意地悪しているかのように眼前に立ちはだかるフェンスへその指を絡めると目一杯の力で握り締める。
どうせ何処まで逃げても、意味の無いことである。女性は自らを追っている怪物が自らの過去なのだと理解し、そしてフェンスを背負うと背中を引きずって力無くその場に座り込んだ。流した涙で化粧はすっかり崩れてしまっている。
顔の無い怪物が、笑みを浮かべないその口で笑声を挙げている。そしてひょこひょこと左右に頭を揺らしながら女性へと近づき始めた。
女性もまた笑った。見開かれた彼女の両目。その視界に映る怪物の顔には、幼い子供の笑顔があった。
女性が怪物へと両手を差し伸べる。まるでそれを向かえ入れようとしているようだった。おいでと彼女は穏やかな声で囁いた。
怪物が女性の前で腰を折ると、常に体中を滴る粘液が地面に滴り落ちた。女性の眼前で相変わらずママと繰り返し言う怪物の口が大きく開いた。それはまるで大きな丸い虚空のようであった。
その虚空が女性の頭部を覆い尽くそうとした時、何か鈍い音が響いた。
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