木橋依莉の訪問2
警視庁捜査一課、木橋依莉警部補。それが彼女の正体だった。
「最初にこれを出さなかったってことは、捜査が目的じゃないってことですか」彼女の警察手帳を見た私は少し考えたのち、なけなしの推理を口に出す。「事情聴取なら、もっとしっかりした手続きが必要ですし」
「ご明察。刑事に向いてるよ」
「あいにく、公権力に下がるのは生理的に不得手なので」
「ハハ、その方がいい。どちらかといえば探偵向きかもしれないな」彼女はそう笑いコーヒーを一口。友人といえど笑い方まで伊勢崎氏にそっくりで腹立たしい。同属嫌悪しないのだろうか。「しかしいずれにせよ、似たようなものさ。私は彼女、伊勢崎七緒の行方を捜している。もちろんそれは刑事の職務として、というのもある。だが今君に話を聞いているのはもっと個人的な理由だ」
「個人的?」
「ああ。私は一人の友として、彼女に最後にもう一度だけ会いたい。会って話をしたい。ただそれだけのことさ」
「…それは、確かに極めて個人的な理由ですね」
「そうだ。本来であれば、このような私用のために未公表の捜査情報を民間人に開示することは許されていない。君がこのことを本庁に告発すれば、私はたちどころにこの職を失うだろう」
「そのリスクに見合うだけの価値が、あの人との友情にあると?」私は訝しむ。「わかりませんね。彼女に会うだけなら、強盗殺人の容疑者として逮捕してからでも遅くはないでしょう」
「いや、それでは遅すぎる」彼女も顔をしかめる。「彼女を逮捕してしまえば、もう友という関係に戻れなくなる。そこにいるのは容疑者と刑事、その二者だけだ。それはもう2度と修復できないだろう。私は七緒に、友として語り合い、友として別れを告げたい。ただそれだけなんだ」
「…やはり理解できませんね」
「言っただろう。個人的な理由だと」先ほどよりも空気が張り詰めていき、声も低くなっていく。これが彼女の本性なのだろうか。「君は、別れも告げずに友が消える、その感覚を知っているか?」
私は首を横に振る。
「呪いだよ。長年培ってきた絆というのは、見えなくても生きているんだ。脈を打つんだ。それは他者とのつながりであると同時に、自分の魂の一部だ。けれどそれは別れを告げるという行為でしか殺すことのできない。別れを見失った絆は徐々に記憶と共に腐敗していく。変質していく。色あせていく。けれどそれを私はどうすることもできず、ただ抱えながら日々を過ごしていかなければならない。その絆はそれでも希望なのだから」
「希望…」
「ああ。いつか、またどこかで出会えるだろうという淡い期待であり、楔だ。それは私にとっての帰るべき場所なのさ。まだ帰れる、後戻りができると確信できるからこそ、人は前に進むことができる。そうじゃないかい?」
「…わからなくはないです。実感はわきませんが」
「そうか。君は七緒がいなくなって、そんな感触は抱かなかったのか」
「あの人は友ではありません。ただのサークルの先輩、それだけです」それが私の答えだった。
大抵のことは話した。伊勢崎氏との出会い、大学時代の氏の所業、最後の日の会話。そして、遺言状。あの手紙は木橋氏も存在を把握していた。私がそのまま彼女の部屋に置いていった遺言状は、あの後、彼女の両親の元へと届けられていたようだ。
「私もあの遺書は読んだよ」木橋氏は言った。「あそこまで追い詰められていたなんて、あの時の私は知らなかった。いや、彼女は常にSOSを発していたし、私はそれに気づいてやれなかった。友人失格だ」
「それでも友人として、あの人を追うんですね」
「ああ。資格を失っても、謝らなくちゃいけないことはまだたくさんある」おもむろに腕時計を確認する。「そろそろ時間のようだ。今日はいろいろありがとう」
「感謝を伝えたいならその偉そうな態度をどうにかしたらどうですか」私は思わず本音が飛び出てしまった。我慢ならなかったのだ。
「それもそうだな。今度会うときは気を付けよう。もっとも、その時は刑事として、だがな」
そして別れる直前、彼女は改めて名刺を差し出した。「何か七緒について思い出したり、新しいことがわかったら連絡してほしい。本当は一緒に探すのを手伝ってほしいが、君もいろいろ忙しいでしょう」
「それ以前に、もう二度と貴方には会いたくないですがね」そう言いながら私は名刺を受け取る。「それでも、何かのためにはもらっておきます」
「ハハ、そこまで嫌われたら逆に別れやすいな。では、私はこれにて」
「…あの!」背をむけて歩き出す彼女を呼び止める。私は、まだ一つ彼女に聞かなければならないことがあった。「あの人は、伊勢崎七緒は、一体何者だったのですか」
「…七緒は」彼女は少し立ち止まって、振り返る。「紛れもない、本物の天才だったよ。君が思っているよりもずっとずっと、ね」
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