盛遠奏の証言2

 「なあ、一緒に飯、食いにいかないか。奢るからさ。」

 伊勢崎氏と最後に会話したのは、彼女と出会ってから4年が経とうとしていた、2月の初めのころと記憶している。突然、私のもとに誘いの電話が来たのである。彼女の「奢る」という発言の信ぴょう性は20%であるという経験則は、すでに私の中で確固たるものとなっていたし、そもそも彼女が自分から夕食に誘うという行為自体が既に怪しさしか感じさせなかったが、それでも私はついていくことにした。電話口から聞こえたのが、いつものお道化た様子は鳴りを潜め、どこか本当の悲しさを抱えたような、そんな声だったからかもしれない。

 その時の私は4回生になろうとしていた。部長職を後輩に継ぎ、自分は迫る就活に備えていた時期だ。一方伊勢崎氏はというと、要職にも就かず退かず相も変わらず遊び惚けていると聞いていた。就職先は決まっていたようだが、ゼミと喧嘩別れしたことで卒業要件を満たせなくなったと笑いごとでもないことを笑いながら話していた。けれどもその様子は変わらず見えても、確実にサークルに来る回数は少なくなっていた。

 

 「いやあすまないね。急に呼び出したりして」

 午後8時。毎週欠かさず行くという定食屋で待っていた彼女は、キャリーケースを引いていた。「まだ、奢ってなかったなって」

「…覚えてたんですね。約束」私は少し驚いていた。約束を記憶するなんて機能がこの人間にまだ残っていたとは。

「時効だったらそれでいいんだが」

「忘れると思ってるんですか?」

「ですよねー」

 店内は私たちしかいなかった。伊勢崎氏は店に入るなり「日替わりカレー大盛、プリン付き!」と叫び、一直線にカウンターへと向かう。彼女はこういうことを平然とする人種だ。仕方なく私も隣に座る。

 毎週欠かさずここにカレーを食べにくると彼女は言った。今日はとり天カレーだそうだ。私もとりあえず同じものを頼む。

「カレーライス、ここでしか食えないからな」と彼女はどういうわけか自慢げに言う。「安いし多いしうまいし」

「別にここでしか食えんことはないでしょう。探せばあるだろうに」

「探さずともうまいのだ。それでいいだろう」

 それでいいのか。

「それで、なんで呼び出したんですか?」私は早速本題に入った。この人に話の主導権を握らせてはならない。無限に脇道にそらされてしまう。しかし彼女はそんな警戒をよそに、あっさりと言い放った。

「私、今日夜逃げするからさ」

 夜逃げ?予想外の単語に思考が止まる。しかし考えてみれば彼女は今キャリーケースを曳いている。そして彼女は死んでも実家に帰らないと採算口にしていた。というよりそもそも夜逃げするしかあるまいとか最近よくつぶやいていた。しかし彼女の発言には2割しか真実が含まれない。ましてや夜逃げである。本当に宣言通り実行する愚か者がいるとは思わなかった。少なくとも、私の常識法則にはない挙動だ。

「は、はぁ…」そんな熟考を巡らせながら、私は茫然とした返事しかできなかった。

「それで、最後に一度君の顔が見たくてね」

「そんな台詞、あなたにだけは言われたくありませんでしたが」

「ま、そう言うよね」彼女はハハハと笑う。何が可笑しいのだろう。いや、何も可笑しくなくても彼女は笑う人間だ。彼女は息をするが如く笑う生物だ。

「しかし本当に夜逃げするとは…」私は思わずありきたりな台詞を吐く。「というかアテはあるんですか?」

「いや、ないよ?」

「…は?」

「ないことはないけど、まあ根本的な解決をしてくれるほどの強いコネクションじゃないし、結局自分で何とかした方が色々波風立たないし」

「もう十分立ってると思いますが…」

「それは避けようがないから問題視しない。必要な犠牲だったのだよ」

「犠牲になる側はたまったものじゃないですよ」

「犠牲になる側にいた方が悪い。ま、運がなかったということで」

「勝者の発言だ…」そんなに勝ち誇る根拠は何なのだ。これから人生の敗北者へと転落していこうというのに。

 

 とり天カレーは、なんというか本格的というべき味だった。まろやかさという普通の家庭的なカレーにあってしかるものがすっかり抜けた、実家暮らしの自分にとってはなかなか味わうことの無いカレーライスだった。こういう定食屋のカレーはだしを入れたりするようだが、それがこの味なのだろう。けれど伊勢崎氏は「いや~、家庭の味だねぇ」なんてつぶやきながら味わう。

「先輩の家ではこういうのが出るんですか?」

「いや?もうちょっとまろやかだよ。あと必ずチーズが入ってる」

「じゃあ家庭の味じゃないじゃないですか」

「うまいカレーライスという点においては同じだよ」

「今すぐ家庭とこの店に謝ってください」

 ハハ、と彼女はいつものように笑って返す。けれど、すぐその顔は少し悲しそうな表情になった。「そうだな。確かに、実家のカレーライスなんてもう3年も食ってないからな。忘れちまったよ」

「…ご実家には、帰られないんですか」

「そんな選択肢があったら、今頃キャリーケースなんざ引っ張ってないさ」

 沈黙。

「ま、盛遠氏は帰れる家がまだあるんだから、ちゃんと大事にしろよ」

「…覚えておきます」

「君は少なくとも真っ当な人間なんだから、真っ当な人生を歩んでくれよな」

「貴方にまでそう言われるとなんか腹立ってきますね。そんなうちの親みたいな小言は、言われなくてもそのつもりですよ」

「それもそうだな。余計なことだった」すでにカレーを完食していた彼女はそういって天を仰ぐ。「親みたい、か。結局のところ、人はどこまで逃げても親に似ちゃうもんなんだな」

 しばしの沈黙。

「でも、私は親の賭けに見合うほどの真人間にはなれなかった」

「賭け、ですか」

「人一人育てるってのは、要するに博打でしかない。それに人生の半分と財産の大半とをつぎ込んで、それでも望み通りの人間に完成するかはわからない。そして、私はその賭けに応えられるほどのまともな人間にも、その賭けを反故にできるほど強い人間にもなれなかった。勝つことも負けることもできずに、いまこうして勝負から逃げることしかできなかった、そんな人間が私だ」

「まだ断言するには早いんじゃないんですか」

「もう22になった。何もかも手遅れだよ」

 沈黙するしかなかった。この人間は、何を、言っているのだろう。この独白は彼女の本音か、それともただの道化なのか。いずれにしても、私はこの嘆きをなんとしても打破したかった。””と。けれどその反論は最後まで口に出すことはできなかった。本当に人間だれしもが22年で自分の価値を定義することはできないなんて、だれが証明できるだろうか。自分だって真っ当な生き方ができてるとはとても思っていない。けれど本当に「真っ当に」生きた人間なら、或いは―。

 

 別れ際、彼女は私に一本の鍵を手渡した。

「私の家の鍵だ。場所はわかるだろ?」

「えぇ、まあ…」

「まあ適当に漫画とか持ってってくれ」

「先輩のマンガ、私の趣味じゃないんですが」

「そうかい?『コボちゃん』の全集とか結構集めるのに苦労したんだぞ」

「私、クソコラとか作らないんで」

「ハハ、そうかぁ。ジェネレーションギャップってやつだねぇ」

「1年しか歳が離れてませんよね」

「その1年で、10年ぐらいの変わり方をするのが現代ってやつじゃないのか?」

「じゃあ結局それほど変わってませんね」

 彼女はいつものようにハハハと笑う。「じゃあな奏氏。ちゃんと勉強して、ちゃんと就職して、たくさんお金貯めて、素敵な恋をしてくれ。それは全部、私にできなかったことだからな」そして彼女は翻ってキャリーケースを引き、一人人込みの中に溶けていく。

「…いわれなくとも」私は、そう呟くように吠えるしかなかった。


 伊勢崎氏の部屋で発見した遺言状を読んだ時、私は実のところ、大きな失望と同時に少し安心していた。伊勢崎七緒という人間は阿呆でさえなかった。阿呆と呼ぶにはあまりに凡庸で、けれど凡庸に生きるのが怖くて阿呆のまねごとをしていた、本当にだった。そしてこの阿呆の猿真似は、阿呆であり続けることにさえ耐えられなくなり、最後は世界の舞台からも飛び降りた。ただそれだけのことだった。

 正直な話、私は伊勢崎氏の阿呆さは嫌いであっても憧れていた部分もあった。自由奔放に、何にも縛られずに生きているかのような彼女の生き方に、淡い期待を抱いていた。だがすべて私の思い違いだった。彼女の言ったとおりだ。彼女はあらゆる期待にも博打にも応えられないし、反故にさえできなかった。阿呆の真似だったなら、私にだってできる。そしてもう大人だから阿呆をやめるなど、既に通った道だ。ましてや阿呆であることからも、大人になることからも逃げるのは、もはや子供の駄々だ。私の彼女に対する幻想は、ようやくここに打ち砕かれた。そしてその事実は、逆に私に安心を与えた。もうあの大嫌いな先輩に、根拠のない希望を抱くことはない。彼女は闇夜へと消えた。いささか騒ぎはあるだろうが、いずれ皆忘れていく。もうあの人と関わらなくていい。そう思えば、いささか気が楽にもなった気がする。

 そう、伊勢崎氏が消えたあの日、ようやく私は自分の中の彼女を『殺す』ことができたのだ。


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