木橋依莉の訪問1
「単刀直入に言う。伊勢崎七緒という人間について、君の知りうる限るのことを教えてほしい」
木橋依莉と名乗ったその人物は、私を訪ねるなり突然そんなことを言い出した。
「お断りします」
「うむ」
「あなたがあれの何かは知りませんが、いや、知らないからこそ教えられませんね。私の所に訪ねてきたということは、少なくとも私という人間がそこそこあれに関わっていることぐらいわかってますよね?あれについて語るなら、それは多少なりとも私について語らなくてはなりません。どこの馬の骨ともわからないような人間に突然個人情報を渡してはいけないと小学生でも教わりますよ」私はその時少し苛立っていたのだろう。急用だというので仕事を中断して近くの喫茶店に連れて行ったというのに、あちらは名乗りもせずに個人情報を渡せと仰せつかれる。礼儀という幻想を懇切丁寧に順守するとかいう旧人類の倫理は破棄したつもりだが、それでもこれはイニシアチブの問題だ。そちらが無礼を働いた分、こちらも無礼を返す権利がある。「まずあなたがあれの何なのかを話してください。私の話はそれからです」
「おっと確かに、それは無礼を働いてしまった。許してくれ」木橋という女は紳士的にふるまっているように見えるが、そのくせ躊躇というものを感じさせない。「しかしあれねえ。七緒も嫌われてたんだな」
「むしろあなたはあれをとても気に入ってるそうですね。そちらの方が私には理解しかねます」
「まあそうだな。七緒とは長い付き合いだったからな。まあ慣れだよ」
「もっと不可解ですね」
「そうかい?そこまで語るということは、やはり君も、七緒のことをそこまで嫌いじゃないんだな」
「水掛け論です」正直なところ、一刻もはやくこの場から立ち去りたかった。この人間はやはりあの女と同類だ。非合理的な論理でさも自分が正しいような面をして議論を進める。人類が最もその根を絶たなければならない類の純粋悪だ。しかし、憎悪しているからこそ、これなるものに屈してはいけない。一切の敗走も降伏も許されない。人生のあらゆる瞬間において、我らは正義を貫くための闘争を続けなくてはならないのだ。「それで、具体的にあれ、つまり伊勢崎七緒氏と貴方はどういう『長い付き合い』なんですか?」
「ま、端的に言ってしまえば高校時代の同級生だ。大学に入ってからも結構やり取りはしていた、が…」
「が?」
「…7年前、大学卒業の時、連絡がつかなくなって以来、それっきりだ。君は?」
「同じですよ。大学から伊勢崎氏が姿を消したのも、卒業する直前のことでした。もっとも、彼女は卒業要件を満たしていなかったようですが」
「聞いたよ。単位が足りんかったようだな。だがまさか失踪するなんて思わなかったよ」
「あの人、消える直前は長野にとんずらしたいとかよく言ってましたよ」
「まさか本当とは思うまい。君もそう思っていたのだろう?」
頷く。
「七緒はまあなんというか、変なやつでさ、本当のことを話すのは全体の2割だと決めてたらしい」
「その発言もかなり信ぴょう性が疑われますね」
「自己言及のパラドックスというやつだな」
「ですが、最後はその2割すら信じてもらえなかった、狼少年の典型的な喜劇ですね」
「悲劇じゃないのかい?」木橋はここまで不機嫌そうなそぶりを見せていない。あの人の友人を名乗るだけはある。いや、この人物は本物だ。本物の阿呆だ。「君、案外タフなんだねぇ」
「別に、物書きとして6年もこの業界で生きていけば、これぐらいの人間強度は誰でも身に付きます」大学卒業後、私は志望通りwebライターの仕事に就いた。安月給で上からの無茶な命令に応えて欺瞞を振りまくこの仕事が理想的とはとても言えないが、人間らしい職業だとは思っている。
「それで」私は聞き返す。この時点で最も重要な謎は、まだ明らかになってない「何故今頃になって私を訪ねてきたのですか。失踪した直後ではなく」
「うむ。確かに、そこは開示しておかなくてはならなかったな」そう言うと木橋はいささか小考に入るように唸る。「簡単に言えば、奨学金の件が発端だね」
「奨学金?」確かにあの人はそんなものを借りていると言っていた。「つまり、あなたはその取り立てに来たと」
「いや、私は一般人だ。日本学生支援機構とはほとんど関わりがない。ただ、確かに取り立ては来ているようだ。だが察しの通り、その行方は未だつかめていない。警察も親御さんからの失踪届を受けて探しているようだが、どういうわけか影も形もつかめない」
「死んだのでは?」
「まあそう考えるのが妥当だ。私もつい最近まではそう思っていた。だがな…」
「だが?」
「…これが見つかったんだ」
そう言うと木橋は、スマホを取り出してとある動画を見せた。カラーだが画質が荒い、安物の防犯カメラの映像だ。中央に映っているのはコンビニのレジ。店員と、フードを深くかぶったダウンジャケットの客。
「これは半月前、北海道のとあるコンビニの防犯カメラの映像だ」
北海道?予想外の地名だ
「一週間ほど前、ここから十数kmの山奥で死体が発見された。我々の捜査の結果、近隣に住んでいた独り者の老婆のもので、被害者の家からは金品が盗み取られていた。いわゆる強盗殺人だ。そして…」
強盗殺人?まったく脈絡のない事実と一瞬思えた。だが違う。映像の中の客がフードを取る。画質が荒く、はっきりとは視認できない。けれど直感はこう告げる。いくら年月を経て、変わり果てていたとしても、その目と形はけっして見紛うことはなかった。
「被害者の家から、彼女と思わしきDNAが検出された」
伊勢崎七緒。彼女の姿が、そこにはあった。
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