盛遠奏の証言1

 伊勢崎氏は阿呆な人間である。その第一印象は大学在学中さほど変わることはなかった。息をするように奇行に走り、嘘八百を知ったように並び立て、そのくせ為すべき仕事は何一つとして為さなかった。私は彼女のことが嫌いだったし、今でも何故あんなに他の人間に好かれていたのか理解しかねている。

 伊勢崎七緒は私のサークルの一つ上の先輩だった。だがそれも4年前の話だ。だから私は彼女のことを「先輩」などという敬称で呼ぶつもりはない。年の功というものが通用するのはモラトリアムまでだ。崇敬に値しない人間を「先生」だの「先輩」だの媚びへつらう悪癖こそこの国を死に至らしめた根源だ。けれども一方で彼女のことを憎悪はしていない。憎悪するコストすら無意味に感じている。そして憎悪していない対象に攻撃性を必要以上に露わにすることもまたこの国がかつて犯した恥ずべき愚行だ。故に世間一般程度には敬意を払ったように彼女のことは「伊勢崎氏」と呼称する。

 私が伊勢崎氏と初めて出会ったのは、サークルの部室に初めて立ち寄ったときである。そのサークルは、大学の中でも割と規模のある文芸サークルだった。他にも二つほどの似たようなサークルはあったが、部室を所有しているのはここだけだった。大学の隅にある森に囲まれたさほど大きくはない木製の小屋だ。 

 最初は軽い見学のつもりで来た。小説を書くことは高校時代から一人でやってきたけれど、それは単にそういった活動をしている人間が周囲にいなかっただけであり、好き好んで孤高に走ったわけではない。物書きは一人でもできるかもしれないが、その限界はたかが知れている。知識を共有し、感性の視野を広くするに越したことはない。

 そんなことを思いながら私は部室の戸を叩いた。だが返事はない。鍵もかかっている。無人のようだ。諦めて帰ろうとしたその時、その阿呆はやってきた。いや、走ってきた。部室の戸一直線に。

「待たれい待たれい!茶を持って参ったのでな!」

 とっさに避けたのは当然の判断だった。彼女は全速力で走ってきた勢いで翻って受け身の姿勢を取りながら部室の扉にとびかかる。直後、けたたましい破壊の音が鳴り、あとには無残に倒れたドアとその上で寝転んで笑う阿呆の姿だった。

 「いやはや、ドアを突き破るというのは案外できるものですなぁ!」

 絶句するしかなかった。彼女は新入生が見えていたにもかかわらず白昼堂々と破壊行為に走ったのである。しかも何の意味もなく。興味本位で。

 「おっと、これはお見苦しいところを見せてしまったなご客人。というより君は新入生かな?」

 「…ええ、そうですが…」

 「なら丁度いい。この無残にも何者かに破壊されてしまったこのドアの修理を手伝ってはくれないか。早く原状復帰しなくては先輩方にこってり絞られるでな」

 「…は?」

 今思えば、この時の私は走って逃げるべきだったのだ。狂人に捕まれば青春を無意味にされるという悲劇を、私は幾度となく物語で目にしてきた。そして物語のような狂人に出会ったのなら、その教訓を生かさねばならぬ。けれど結局、私はこの物語のような狂人の自業自得に付き合ってしまった。何故かと問われてもよく覚えていない。あまりにも非現実的なその場の状況を飲み込めず、勢いに押されて承諾してしまったとしか思えない。なけなしの善性を持ち合わせているとこういう時に損をするのだ。

 幸い、ドアの破損個所は少なく、修理は30分で終わったが、その小一時間で私は授業を一つ取り損ねたし、なにより酷く疲れてしまった。修理作業にではない。その間に怒涛のように襲い掛かる雑談にだ。知ったような雑学を語ったと思えば、その3秒後には「ま、嘘だけどね」と撤回する。そんな会話にいちいち付き合っていた自分も常々愚かだと思う。

 「いやはや、こんなことに巻き込んでしまってすまないねぇ。盛遠氏」

 「悪いという自覚があるならなんで巻き込んだのですか」

 「善を知って尚悪を為せるというのは人間の特権だよ。倫理というものを抱えながら、それでも本能の赴くまま倫理の声に背く、これは神にも獣にもできることじゃない」

 「倫理を抱えているかどうかなんて思い込みの範疇を超えません。獣のようにふるまっているならそれは獣です」

 「冷たいなぁ」

 「あなたが阿呆なだけです」

 次の授業のために私が部室を去るとき、阿呆、改め伊勢崎氏は「今日はありがとう、また今度何か奢るよ」といった。けれど3年間、私がその件で奢ってもらったことは一度としてなかった。

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