第3話 「ただいま!」


 放り投げられた湯飲みは中の液体を撒き散らしながら放物線を描き、重力に従って地面のほうに落ちていったが途中で空間に吸い込まれたようになって消えた。液体は地面に撒かれたが、湯飲みは綿貫の能力である空間歪曲くうかんわいきょくでリュックの中にも戻っている。

 私はそれを見届けたわけではなく、湯飲みを見届けるために首を後ろに回すことすらしていない。

 綿貫がこういうときに湯呑みを放り投げるのはいつものことであり、どうなるのか知っているので見る必要がない。

 湯飲みが空間に消えるあたりで綿貫は嬉しそうに「できた!こういうことだよね!」と声を上げた。

 その間、約3秒。


 綿貫はスケッチブックの端をそれぞれの手で持ち、腕を伸ばして出来たばかりの自分の絵をながめている。

 その表情はうっとりとしており、「えへーー、、へへへへ、、」と妙な声まで漏れている。

 何が描かれているかは大体想像がつく。

 しかし一応、少し近づいて絵を視界に入れると、やはり予想通りのものが描かれていた。絵の内容は次のようなものだった。


『美少年が二人見つめ合っている。

 片方の服ははだけて後退あとじさっているが顔を赤らめてわずかにそむけている。

 しかし視線はひかえめながら相手に向いている。

 もう片方は自分のワイシャツのボタンを外しながら迫り、視線をまっすぐ相手に向けている。

 互いの顔はかなり近い。』

 なんていうか、あれだ。BLイラストだ。


 予想通りのものが描かれていたのでいつもどおりげんなりしたので綿貫をジメッと見やると綿貫は、は!と我に返ったようになってからスケッチブックを左手で胸に抱え、右手で拒否を示すように手のひらをこちらに向けて振りながら、


「違うの、そうじゃないのわかってるのー!」


とか言いながら首もブンブンと振る。


「違うって一体何が、」


と問おうとする私を完全に無視して綿貫は描いたばかりのBLイラストを私のほうに向けると、「まず、」と説明し始めた。それに対し、


「それを私のほうに向けるな。」


と私はそれを拒否し首を背けた。

 しかし綿貫は私が首を背けた方向に回り込みBLイラストを見せながら、


「ゲレゲレがそういうのを嫌いなふりをしてるっていうのは知ってるけど」


「嫌いなふりというより純粋に嫌悪を感じる。」


「きいて、ここは天然の洞窟なのにこの扉は頑丈がんじょうだし」


「まずそのイラストを閉じてからだ。」


と首を反対方向に向けるが綿貫はそれと同じ速さで回り込み、

「この扉は頑丈だし、」と強引に続ける。

 振り切れないので諦めて説明を聞くことにした。


「ここの地面だって平ら過ぎる。天然ものの洞窟なら凸凹でこぼこしてるからこんなに平らなわけがないよね。そもそもこの扉、この洞窟に入った時に使った入り口よりも大きい。中で組み立てるにしても、こんなに精巧せいこうなものを作るには大掛かりな設備がいる。この洞窟にそんなものがあるとは考えにくい。だったら、」


 と綿貫は水筒をリュックに入れてからファスナーを閉め、左手で背負いながらスケッチブックを右手で胸に抱えてから立ち上がり、膝丈のスカートとセーラー服風のえりひるがえしながら扉とは反対方向に歩き出した。


「だったら、こんな巨大な扉は存在するはずがない。質量はあるけど間違いなく幻なんだ。」


 一歩ごとに二股に分かれた短めの三つ編みの髪が揺れる。

 綿貫は歩きながら説明を続ける。


「でも想像で作り出したものにしては作り込みが細かすぎる。ということは、何か実際にあるものを投影しているに違いない。投影するなら同じ空間内に投影元があるべきなんだ。つまり、」


 そのタイミングで突き当たりに着いた。そして壁に手を当てた。突き当たりは暗かったが手を当てると扉のようなものが浮かび上がった。

 その扉は巨大ではなく、一般家庭にあるようなサイズより少し大きい程度だ。

 綿貫は顔だけをこちらに向けて言葉を続ける。


「そっちにある扉はここにある扉をインスタンスとしてコピーしてるの。だからそっちの巨大な扉には蝶番ちょうつがいが見えるし、こっちには見えない。ここにある扉のサイズを変えて平行に移動させたものをコピーしてるからどうしてもそうなるんだ。」


 私は、ふむ、とうなづき綿貫の方に歩きながら問う。


「なるほど、では鍵はどうなってる? 開いているのか?」


 綿貫は再び扉の方に顔の向きを戻すと手をドアノブにかけて回した。

 しかし回りきらず、引いても開かない。


「閉まってる。でも鍵は既に持ってるよ。」


「どこにある?」


 私は微笑みながら問う。それに対し綿貫は、


「ここだよ。」


 と自分のスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出した。

 一見ただの紙切れに見えるが、


「ツタヤのクーポン券か。なぜそれが鍵になる?


「このクーポン券、なんか硬いのね。普通の紙じゃないみたいに。たたもうとしてもおりがらないの。ならこれは単なる紙じゃない。カードキーなんだ。だからこうやって使う。」


 綿貫は扉のノブの横にある黒い板にかざすと、ピッ、という軽い電子音と共に鍵が開く音がした。


「じゃあ行こ?」


「進む前に質問だ。この先のは何がある?」


 綿貫はあごに手を添え少し考えてから、


「ここの地面は洞窟にしては平ら過ぎる、ということはさっき言ったよね。そしてそっち側の奥には巨大な扉が見える。その扉は幻だった。とするとここは洞窟じゃない。」


「では、どこだと思う?」


「それは、」


 と言って綿貫は扉を開けた。

 奥には何もない暗闇が広がっている。

 しかしひるむことなくそのまま歩いて行く。

 綿貫の姿は闇に溶けてほとんど見えなくなったがうっすらと奥に向かって歩いているのが見える。

 ある程度進んだところで立ち止まった。


 そして向こうを向いたまま、両手を頭の上くらいまで持ち上げて何かをつかむような手つきをして、そのまま左右に開いた。

 すると、ジャッ、という何かがこすれ合うような音と共に光が差し込んできた。

 私は一瞬、まぶしくて目を細めたが徐々に目が慣れてくるとそこにあるものが見えてきた。

 光の奥には窓枠まどわくが見え、そのさらに奥には庭が見えた。

 窓枠の左右には綿貫が開いたばかりのカーテンが下がっていた。

 そこで綿貫が言葉を続けた。


「それは、先生の部屋。」


 そして振り向いて、


「ただいま!」と微笑んで言った。

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