第12話
私は目の前の正体不明な物体が何であるかいったん詮索するのをあきらめることにした。たとえ、あの酷い頭痛で意識を失った際の夢か幻であっても、白井本人が自分は健在だから探すなと言う言葉と自分を傷つけるのはやめてほしいという要望に根拠は薄くとも、とりあえずは同意するべきだと感じていたからだ。あの幻影の件をすべて鵜呑みにするならば、白井は人ならざるものに変質し、私たちの目の前に姿を現すこともコンタクトする事もままならぬ状況にあるらしい。そして、それから推測すれば、この目の前のゲル状物質が白井本人と言うことになる。うっすらとした模様がどことなく白井に似ているのは、そのせいなのか、若しくは自分の深層心理がこの物質が彼のなれの果てだと思いこんでいるためにそういう風に見えるのかは定かではない。だが、白井の行方もこの物質の正体もいずれはハッキリ判る時が来ると根拠なく信じていた。
その後、私は二十階まで彼の捜索を続けたが、ついに彼を探し出すことは叶わず、結局の所全くの徒労に終わった。白井が結局の所行方不明のままということで、残された者はいっそうの不安に駆られた。特に女性と年少者にはこのインパクトは大きかった。リーに加えて白井までも行方不明になってしまったのだ。しかも白井は自らリーダーとして我々を引っ張ってきたのだから。その彼が突然消えてしまっては仕方ない。それに、次に消えるのは自分では無いかという恐怖心も芽生え始めていた。
日はとうに落ち、二日目の晩をむかえようとしていた。子供たちをのぞき、もっとも若手の男性社員、平山の様子がおかしいことに気がついた。
「白井さんが居なくなったこれからは誰がリーダーをやってくれるんですか?」少しいらついた様子で私に話しかけてくる。
「わからないな。一番の年長はファシリティの長谷川部長だ。部長職ではあるし、年齢的にも彼が適任だろう」もっとも、彼が受けてくれなければ無理だが。この答えに平山は失望の表情を見せた。
「正直、僕はあの人はリーダーするのは反対です。結構傲慢なんですよ、あの人。それに、こう言っては何ですが考え方が古くさいというか、昭和の人って感じで新しい事に対応できるかどうか。それほど賢いわけでもないし」いくら何でも長谷川部長に失礼ではないか。私は少しかちんときてしまった。
「平山君、君はなにを根拠にそんな事を言うのだ?」
「いや、人から聞いた話なのですが、あの人はパソコンもマトモに使えないらしいですよ。それに未だにスマートフォンも持たずにガラケーで頑張っているって話ですし…」
あきれたな。パソコンやスマートフォンが使えないから賢くないって何なのだ? そんなのことくらいで人の価値を決められてはたまらない。そして今時の若者っぽい考えなのかもと感じた。私自身も、以前コンピューターを使いこなせない上司に似たような感情を抱いたこともある。それにスマートフォンに入れた計算アプリや英和辞書使っただけで仕事中遊んでいるといちいち言ってくる、上司や客など…。今の自分の感情はそんな大人たちの勝手な憤りと同じだ。
「そうか。だが他に適任者居るのか?」私はフロア内を見回したが、意外にも私よりも年長者が非常に少なかった。年齢が判別しにくい者もいるが、把握しているかぎり、例の多喜田しかいない。彼もひと癖、ふた癖ある人間だということは知っているし、それは社内でもわりと有名である。
「松島さんで良いのではないですか?」彼はなんと私を指名してきた。私はがちがちの技術畑の人間だ。それにまだ係長級に昇級して日が浅い。とてもこのような危機的な状況で人をまとめられる自信は無かった。
「残念だけど、私はまだ人をまとめられるような人間ではない」私は首を横に振った。あれこれ命令はできても、適切にできるかどうかもわからないし、責任をとることも交渉も苦手だ。
「そうですかあ~。松島さんなら適任と思ったのに」私の返答が期待外れだったと感じていたのが表情に表れていた。おそらく、彼にとってはリーダーシップなどは二の次なのだろう。私が滅多に怒ったりしないような優しい温厚な人物に見えるから、上に立って欲しいと願ったのだ。確かに私は他人を叱ったりすることは少ないが、それは優しいというのと別の次元の話だ。私は優しいわけではなくただ単に気が弱いだけで、人を叱ったり、怒った後の気まずさを感じるのが嫌なのだ。
「ここは、民主主義的に多数決で決めよう。誰がリーダーとしてふさわしいか。ただし、お互いのことをよく知っている者は余り居ないだろう。だから就任後、少しでも資質を疑うような事があれば、直ぐ不信任投票を行う。続けて欲しい者が多ければ、そのまま続行して貰うことにすればいい。たかが数十人の組織だ、意思決定に戸惑うこともないだろう」私の提案に、彼も快く同意した。民主主義的なら、それほどとんでもない人物に仕切られることも無いと感じたのだろう。
私はそれから小一時間もおかずにみんなに自分の考えを披露することにした。
「白井さんが行方不明な今、リーダーの役割を担ってくれるポストが空席なままだ。だが、誰か声がでかい者だけに仕切られるというのは不満を持つ者も居るだろう」多喜田が一瞬
だけ怪訝な表情を浮かべた。自信のことをだと思ったのだろう。私はかまわず話を続けた。
「そこで民主的にリーダーを選出することを提案する。任期は特に決めないがリーダーシップに不満を持つ者が多ければ随時解任して、投票で選出する。勘違いしないで欲しいがリーダーになったからと言って権力を得た訳ではない。あくまでもボランティアとして皆を引っ張って欲しい人間を選ぶのが目的だ。当然このような状況だ。報酬などは無論ない。食糧が優先的に供給されるわけではない。選出された者はそのあたりを念頭に置いて引き受けてくれ。とくに立候補などは受け付けない。あくまでもこの数十名の中から選出する」話の終了後、多種のざわつきはあったが、ネガティブな意見は特に無く、私の提案に特に異を唱えるものは居なかった。
投票は、二十三階フロアのコピー機横に置いてある不要書類の箱に捨ててあるコピーの裏紙を投票用紙に利用した。今となってはもはやどうでも良いことだが、この会社の財務状況や人事戦略が判るような書類もあり、経営が危機的な状況であることを示すものもちらほらと有った。もしこの書類を災害前に見ていたとしたら、私は直ぐに転職活動を開始していたかも知れない。だが今となってはもうそんな心配をすることもない。今は明日、一ヶ月後生き延びられ、愛しい妻子に生きて再会できるかのみが唯一の望みであった。
開票は直ぐに行われ、その日のうちにリーダーが選出された。驚いた事に選ばれたのはなんと私であった。しかも二位と二倍ちかい差での選出だ。
正直、私は困った。自分にリーダーとしての資質が無いと言うことは、一昨日までの係長職を経験で判って居たのだ。自分には技術職としてのスキルも今ひとつだし、メンバーをうまくまとめられた自信も無い。とくにメンバー四人のうち女性メンバーである出芽の扱いには困っていた。彼女は遅刻や欠勤が多い(女性特有の問題もあり、五月蠅くも言えなかった)ことや、命令を余り聞いてくれないということでソリも合わなかった。
他にも関、矢口、大島という男性の部下がいて関には随分と助けられていた。彼は本当に優秀で具体的に指示しなくても、此方の意を汲んでくれよく動いてくれたが、他の矢口と大島についてもうまくマネジメント出来ていたとは思えなかった。だから、私はリーダーとしてあまり人を扱える人物ではないのだ。
私は自分はリーダーとして向いてない旨を皆に話したが、それでもせっかく選出されたのだから、しばらくはやって欲しいという意見が多かったので引き受けることにした。
平山は希望通り私がリーダーになったことで、一安心するだろうと私は思っていた。だが、彼の挙動は前にも増して、次第にエキセントリックになっていった。その後も、いらいらと物に当たったり、皆が就寝中にうごきまわったり、懐中電灯を持って下のフロアに食糧を漁りに行ったりした。今考えれば、彼の身体に異変が起き始めた兆候だったのかもしれない。
そして、その晩から、私の身体にも異変が起き始めていたのだが、それを知ったのは暫く後になってからだった。
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