第10話
「白井…なのか?」私は先ほどまで白井が居た、ゲルでべとべとになった彼のデスクに向かって呼びかけた。だが返事はなく、かわりにゲル状物質がぶるっとふるえるだけだった。いつもならあわてて逃げ出すか腰を抜かしていたかも知れない。だが、そのときは恐怖心よりも好奇心の方が勝っていた。私は彼の声がしたゲル状の物質に近づき懐中電灯の光を当てた。するとそれはまたもやぶるぶると震えたそしてその表面に見慣れた物が映し出されている。まるでビニールに印刷された古い写真のように白井の顔が有った。最初は目を疑った。何故白井の顔がこのゲルに写っているのだと。私がいぶかしげに眺めているとゲルの中の白井の口が動いた。何かを話しかけているようだ。だが声が聞こえない。どうなっているのだ?
まず頭を整理しよう。この顔は白井だ。間違いない。考えられるのは、一つ、彼のイタズラだ。だがそんな人物には見えないしこの状況でふざける奴は滅多にいない。まず、このゲルが何なのか? ひょっとして彼そのものか? だとしたら、元々、彼はゲル状生物だった。きっと宇宙人が侵略のため人間に変身して潜入していたが、謎の閃光現象で変身が出来なくなった、あるいは未知の生物かも知れない…。ばかげている。そもそも地球侵略するために人間に変身していたとしても、変身前と後が同じ顔で有る必然がない。それにそもそも宇宙人、未知の生物説は突拍子なさすぎる。
さて、まずこいつが何者であるかを見極めなければならない。まずこれが宇宙からの侵略者であるという考えはとりあえず排除しよう。これが生き物か無機物かと分類するところからはじめるとすれば、まずこれは生き物には見えない。ほぼ無色透明で、白井の顔に見える何かがうっすらと見える以外、生物組織らしきものが見あたらない。
私はこの未知の生物とも物体ともつかないものを徹底的に調べてやろうと思い立ち、物質のサンプルを採取しようと、その辺に転がっていたボールペンを拾うと、その表面をつついてみた。意外にも弾力がある。さっきは少し慎重だったが、今回はしっかりと力を込めたはずだから勘違いでは無いだろう。見た目はもっとどろっとした粘液質の様に思えたのだが改めて意外だった。だが弾力はあるとしても、ゴムのように堅いわけではない。さほど力を入れなくても、この物質の一部を採取するには十分だ。私はこの物質にボールペンを慎重に差し込んだ。
「痛っ!」突然耳鳴りと共に後頭部がハンマーで殴られたような激痛が走った。私はサンプル採取などほったらかしてその場に頭を抱えて倒れ込んだ。
「これは…」くも膜下出血と言う奴か、とつぶやくはずだったが、それ以上は激痛で声がでなかった。よく話しに聞く『くも膜下出血』に違いない。特にこの年齢まで、大病もしたことはないし、健康診断結果でもコレステロールや血圧も高くなく、医者から注意を受けるような数値が出たこともなかった。くも膜下は医療機関での迅速な対応が生死を分けると聞いたが、この状況で医者も減った暮れもない。ああ、私はこんなところで死んでしまうのだろうか? 頭の中にははっきりと死の一文字が思い浮かんだ。不思議とそれほど恐怖は感じなかった。だが、だんだんと意識が遠のいていく感じがした。やがて、深い眠りに落ちる寸前のように頭の中を意味不明な妄想や幻聴が聞こえてくる。これはもうだめだな、と考え始めたとき幻聴の中でもひときわはっきりとした音声で私に誰かが語りかけてきたのだ。
「松島さん、痛いです。やめてください。私はまだ生きているんです」白井の声だ。
「白井君か? どこに居るんだ?」
「貴方の目の前です」
気がつくと目の前には川が流れている。そして川の向こう側には白井が一死まとわぬ姿で立っていたが、その姿はどこか曖昧ではっきりしなかった。
「これが話に聞く三途の川か。白井君は私を黄泉の国に連れて行くために現れたのか?」
「いいえ違います。私が貴方に伝えたいのは私はまだ生きているということと、これ以上私を傷つけないでくださいとうことです。それに貴方もまだ死んでません」
「私も君も死んでない? だってここは三途の川なのじゃないのか?」
「それは三途の川なんかじゃありません。貴方の脳が見せている幻、いや夢みたいなものです」
「だって、君は私の目の前に居ると言ったし、現に川向こうに君はいる」だが白井自身の姿はひどく曖昧で、本当に彼なのか、私には断言できなかった。
「それも貴方の脳が見せている幻です。しかたありません、私が貴方の精神に直接話しかけているので、脳が錯覚を起こしているのでしょう。でも、貴方と連絡をとるにはこの方法しかなくて」
「今一つ意味が分からないのだが、仮に私は死ぬ前の幻視を見ているわけではなくて、君も存命であるとしよう。私の精神に直接話しかけていると言うのはどう言うことか? それとも私が聞き間違えたのか?」
「聞き間違えていません。実際に直接精神に話しかけています」
「それでは、もう一つ聞きたい。君は今どこにいる? どこから私に話しかけている?」
「あなたの目の前にいます…」
「それは三途の川の目の前と言うことか?」
「残念ですが、それは私ではありません」
「ではどこにいるんだ? 私をからかっているのか?」
「申し訳ありません。でもそういう風に考えられても仕方ないかもしれません。でも今からお話しすることはもっと信じられないかもしれません」
「なに?」
「目の前と言うのは現実世界の話です。貴方がつい数秒前までドライバー、あるいは鉛筆のような細長い棒でつついていたのが私なのです」彼が言ったことがよくわからない。だいいち私はいままでなにをしていたのだ?
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