第9話
白井を待つことかれこれ3時間経過。さすがに捜し物が何であれ時間がかかりすぎだ。何があったのか心配になってくる。
「そろそろ誰か探しに行った方がいいんじゃないか?」四十代前後、自分より二、三歳は上だろうか? 天然でなければ今時はなかなか見ないパーマヘアの眼鏡男が言った。誰かがおまえが行けばいいだろうとつぶやく。さすがにこれは本人の耳入ったようで、すぐ不機嫌な表情になった。そして何かを言い掛けようとした矢先だった。
「自分がいく」私はなぜか無意識のうちに口走っていた。
「おっ!行ってくれる? 誰も行くなんて言わないから、正直、此奴等全員使えないと思ってたところだよ」その男は言った。いまだIDカードを首からぶら下げているおかげで、名前はすぐわかった。設計部の課長補佐の多喜田だ。この男についてはあまり良い話を聞かない。実際に一緒に仕事をしたわけではないからよくわからないが部下へのパワハラが酷いと聞く。部下はそれでも問題になるからまだ控えているのだろうが派遣社員や下請けに対するイビりがとにかくえぐいらしい。彼と仕事をした人間はたいてい二度と一緒に仕事をしたくないと言う。所謂サイコパスという奴だろう。あまり人に優しくしたりとかする気がないというか発想そのものがない。人間らしい感情がどこか欠落している。だからさっきみたいなことも平気で言うのだろう。
「一人は危険なのでは?」受付のかわいらしい女の子が言った。こちらも名札をつけたままだ。松下さんか。
「そう言えばそうだな。じゃ君がついて行ってくれ」この男正気か? 一人で危険で、何故女の子をお供させようと言うのだ? 此処は出来るだけ元気そうな男性社員だろう、普通は。だが該当しそうな者は一様にそしらぬ振りをしている。皆、厄介事は背負い込みたくは無いのだろう。絶望的な状況で人が二人も消えているのだ。ミイラ取りがミイラになるのを恐れているのだ。私も彼らの気持ちは理解できる。だから、そもそも彼らを当てにしていはない。
「いや一人で大丈夫だ」備え付けの非常用の懐中電灯を壁からはずすと、スイッチを入れて非常用階段へと進んだ。
今は何階まで水没しているのだろうか? 電力節約のため、24階以外の電力はほぼシャットダウンされている現在、昼間でも窓が無い非常階段は扉を開け放たない限り、真っ暗で全く見通せない。とりあえず二十三階からだな。私は、重い防火扉を開けて廊下に出た。
このフロアは経営統括部などの会社の中枢があるフロアだ。立派な応接室、重役会議が開かれる大きな部屋、そして、取締役、もちろん社長、会長室もある。一つ一つ見て回ると、そこにはつい昨日まで忙しく執務を行う重役たちや、外部からの客、会議中の者も居たと容易に想像できた。なぜなら、黒こげになった何かがそこここに転がっているからだ。中にはかろうじて原型をとどめている者もいたが、ほとんどはただの燃えカスにしか見えなかった。かすかに異臭がしたが、腐敗臭ではなく焦げ臭い臭いだ。これだけ人が死んで、腐敗臭が無いということはほぼ一瞬で燃えカスになったということだろう。不思議なことに哀れとも悲しいとも感じなかった。あまりにも人としての原型をとどめていないことが、自分の心にどこかよそ事か架空の世界の話くらいにしか思え無かったのだろう。
とある部屋の前であしを止めた。会長室だ。おそるおそる開けてみると予想通りかつて会長であった炭の固まりがいすの上に乗っていた。半分以上は崩れ去って机の上にばらばらになって落ちている。うちの会社は月一に朝会というのをやっていて、会長様のえらい御託を聞くというありがたい催し物だ。だがこうなってしまってはもう聞くことも無いだろう。今時、こんな昭和から全く進歩無い会社が、つい昨日まであった事が驚きだ。入社当初はこのノリがなじめず、何度も辞職を考えた位だが、今となってはそれも悪くなかった。昨日の災害で一気に何もかも失ってしまったのだ。
会長室を出て他の部屋を物色するがどこも人間大の炭ばかりで気が滅入った。
「危機管理室」ふと目の前に現れたこじんまりとした、ブースのプレートが目に付いた。白井の部署だ。
扉を開けると部課長向けの大きめなデスクと一般職向けの小振りなデスク二つが置いてある。一般職向けデスク二つには例によって元人間だった黒く炭化した物質が二体ある。炭が乗って無いもう一つデスクは白井のだろう。白井はつい三時間前には私たちといたのだから。
だが炭のかわりになにかがある。懐中電灯で照らすと水たまりかなにか判別できないぬめりの有るような物質がこぼれていた。おそるおそる近づいてみると水たまりや何かをこぼした物ではない。なにかゲル状の物だ。以前テレビで見たヌタウナギの出す粘液のようであった。
胸ポケットのボールペンを取り出して、そのスライムみたいな半透明の物質をつついてみると、意外に弾力性が有る代物だった。まさか白井がスライムで遊んでいたとも思えないが、炭化した遺体だらけのこのフロアでどう見ても異質なものだ。どこかで漏れ出たものにしては天井にも壁にも染み出した跡がない。まるで誰かがバケツいっぱいのヌタウナギの粘液を白井のデスクにかけたとしか思えない。だが白井がそんな嫌がらせを受けるような恨みを買っているようにも思えなかった。
このスライムが何であるかを調べている時間はなかった。白井を早く見つけなければならない。どこかで倒れたロッカーの下敷きになって助けを待っているかも知れない。あるいは倉庫や荷物置き場に入って外に出られなくなっている可能性もある。
私は、その場を離れ隣のブースに移動するため、スライムは放って入り口へと踵を返した。一瞬スライムがぶるっとふるえたように見え、恐怖で一瞬心臓がきゅっと縮んだ気分になる。驚いて、懐中電灯をスライムに向けた。
「まさかな…」スライムはさっきと形が変わったように見えたが、目の錯覚だろうと自分に言い聞かせた。ただの無機物だ。運動に関わるような体の器官も無かった。まさかエイリアンのフェイスハガーのようにいきなり飛び出すようなことは有るわけ無い。気をとりなおし扉の取っ手を握って手前に引いたとき、それが起きた。
「ま、松島さん…」背後から聞き覚えがある声が聞こえた。白井の声だ。だが、だいぶ弱っているのかとても苦しそうだった。
「おい! 白井君か? どこにいる? 助けにきたぞ!」懐中電灯をてらし部屋の中を照らすと粘液がこぼれていたあたりに白井が素っ裸で立っていた。だがどこかぼやけたようであいまいな存在に思えた。それにさっきまで影も形も見えなかった。どこにいたのだろうか? 机の下にでも隠れて居たのだろうか。そんな疑問もあったがとりあえず見つかって良かった。わたしは取り急ぎ彼の所に行き、裸であるのを気遣って自分のきていた上着を脱ぎ彼に渡そうと、差し出した。だが、彼、いや彼だったものは一度受け取るために手をあげようとしたが、はかなくもまるで溶けた氷のようにぐずぐずと朽ちた。かれの頭も身体も次第にその形をとどめられなくなり、その場に崩れ去り、そこには先ほどと同じくゲル状になった白井のれの果てがまるで大量に捨て去られたヌタウナギの粘液のように残っていた。ー
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