検閲官の蒼い月 - 5

 僕は中流家庭に生まれ、両親からはそれなりに愛されて育ってきた。父は公安省勤めで、母は僕と同じ真理省の検閲官だった。僕はいつも周りの目から監視されてきた。同級生や教師、周りの大人。そして彼らもまた監視されてきた。

 ある時同級生が肉親を告発した。自分自身を育ててくれた母親が総括されたことを彼は自慢していた。そうすると瞬く間に家族へ監視の目を向ける子供たちが増えた。親は子供に怯え、何人も告発されていった。僕はそんなことしなかったが、結局他の誰かに告発され、まずは父が、ほどなくして母も総括された。


「だから、僕もそう長く持つわけがないんだ」


 走りながら誰へともなく呟いた。相互監視社会に生まれ、生かされてきた。だから死ぬ時もそのルールによって殺されるのだろう。

 けれど彼女は違う。彼女はこんな終わっている国に殺されるべきではない。僕が気が付いたら、あの時彼女を買った闇市の一画に辿り着いてた。


 奴隷商はおらず、籠もきれいさっぱりなくなっていた。特に驚きはしなかった。この辺りは真っ先に検挙されるだろうと思っていたからだ。


「はぁ……はぁ……」


 ずっと走り続けたせいですっかり息があがっていた。これほど運動するのはいつぶりだろう。より深く息を吸い込む為に空を仰ぐ。今日は月明かりがまぶしかった。『ニシオオイズミ』に日照権を侵害され、長らく太陽の光を浴びてないこの身体には、とりわけ優しい光だった。

 目が慣れてくると、路地裏に見覚えのある少女が佇んでいる事に気づいた。良かった。やっぱり此処に来ていたんだ。早く彼女を連れて帰ろう。


 そう思っていた。


 彼女の目線の先に立つ、金糸の女性を見るまでは。


「──メルル・オルデュール」


 身体から血の気が引き、総毛立った。おしまいはもうすぐそこまで歩み寄ってきていたのだ。



「──ペストって知ってますかァ」


 立ち竦んで動けなくなっている少女に対して、メルルが語り掛けた。


「平たく言うと厄介な病気なんですけどねェ、これを媒介するのは不潔なネズミなんですよねェ」


 間延びした声だが、ここからでも分かる程の圧があった。自分が少女の立場でも動けなくなっていたかもしれない。


「ここいらはネズミだらけだからァ私らが清潔にしなきゃならないわけですよ」


 そう告げると、メルルは紅い双眸で少女を見下ろした。


「良い服着てますねェ。それで擬態したつもりですか」

「……ぎた い?」

「いくら着飾っても誤魔化せないもんですよォ。その濁った目……貴女からもドブネズミの匂いがプンプンします」


 メルルが一歩踏み出す。


「だから清潔にしなくっちゃあ。そうでしょう?」


 僕も二人のもとへ駆け出していた。メルルが彼女目掛けて蹴りを繰り出すのと、僕が彼女を抱きかかえたのはほぼ同時。その蹴りは僕が庇うような形で受けてしまった。


「うぐっ!」

「モモチ!」


 わき腹をえぐられ、脂汗がどっと噴き出る。うまく呼吸ができず、飛び込んだ勢いもあまって彼女を抱いたまま倒れ込んだ。


「おやおや、おやおやァ。貴方が親ネズミでしたかァ。探す手間が省けましたねェ」

「こ、この子は僕の娘です……貴女が思うような孤児なんかじゃ……」

「なるほど。ではまずお名前をうかがってもよろしいですかねェ」

「…………」


 突然の邂逅とわき腹の痛みのせいで、僕の頭は真っ白になっていた。何も思いつかない。彼女を抱く力を強めた。


「おやおやおやおやァ!自分の娘の名前すらご存知ない?まあそれもそのはずですよねェ」


 メルルは覗き込むように上体を前に出してきた。


「貴方は独身ですもんねえ、シキ・モモチ」


 どちらにせよ、答えは変わらなかったようだが。


「所轄が違えば分からないとでも思いましたかァ?貴方の素行の悪さは公安省でも有名ですよォ」

「……メルル・オルデュール。僕は反体制派なんかじゃない。彼女と静かに暮らす事ができればそれで満足なんだ」

「反体制派じゃないかどうか決めるのは貴方じゃないんですよォ。貴方なら言ってる意味、お分かりですよねェ」


 もう僕に希望はない。どちらにせよ、それは変わらない。けれど僕はまだ諦めていなかった。呼吸を整え、少女を抱き上げる。そして脇目も振らず一目散に駆けだした。


「逃げられると思ってるんですかァ?シキ・モモチさん」


 楽しそうな彼女の声だけが追ってくる。ここで追いつく必要がないということは、彼女も僕もよく分かっているようだった。


 何せ僕にはもう、どこにも逃げ場はないのだから。

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