検閲官の蒼い月 - 4
その朝はひどく気怠かった。激務の疲れが全く落ちていない。悪酒のやりすぎで頭は痛むし、定刻になると自動で点灯されるスタンドライトを直視すると目の奥が焼けそうになる。立ち上がるとふらつき、強い吐き気を覚えた。
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、まだベッドの上で眠っている少女を一瞥する。この少女が来てから何かが変わったわけでもない。ただなんとなく、部屋に帰るのが少しだけ楽しみになったような気がする。
「行かないと」
きつけがてらオワテル産の酒瓶をひとくちあおり、ジャケットを羽織って外に出る。今日も変わり映えのないルーチンワークが始まる。
卍
しかしその日はひとつ違いがあった。整然と立ち並ぶ検閲官のデスク。その二つ前の席が空席になっている。病欠かと思ったがすぐに違うと気づいた。書類も備品も、何もかも片付けられていたのだ。
「おい、あれもしかして」
僕は業務をこなしながら隣の席の検閲官に声をかけた。彼は目をこちらに向ける事もせず、同じく作業をしながら答える。
「お察しの通りだ。総括されたってよ」
「いったい何をしでかしたんだ」
総括された人間は、初めから此処に居なかったものとして扱われる。したがって本来であれば消えた検閲官の事について話すのもご法度だ。けれど人の口と思考には戸を立てられないものだった。
「クリメリアの隊商が来てからモグリの奴隷商が増えたのは知ってるか」
「ああ」
「その中に反体制派が紛れ込んでいた。少年兵を集めてクーデターの画策をしてたってよ」
それが事実なのかは分からない。確かなのは、反体制派として総括された存在が居るということだけだ。
「それを引き金に憲兵隊の奴隷商狩りが始まった。消えちまった奴は奴隷を家で飼ってた。反体制派との関与を疑われた。あとはまあ、"女王様"の仕事さ」
「メルル・オルデュールか」
僕が胸騒ぎを覚えた。オワテル国公安省治安局の憲兵隊は街の治安部隊として活動しているが、魔女狩りめいたことに手を染めているという噂もある。特にメルル・オルデュールという女は血も涙もない。
彼女は検挙をしない。それは下っ端の仕事だからだ。代わりに彼女は、気まぐれに闇市に現れては難癖をつけ私刑を行う。今回の突発的な奴隷商狩りも彼女が関わっているとすると、明日は我が身だった。
「モモチ、あんたよく闇市に行ってたよな」
心臓が飛び跳ねる思いだった。それまで一瞥もくれなかった彼が、じろりと此方をにらんだからだ。
「モモチが拵えた偽造ビザには世話になったこともあったが、程々にしとけよ」
「あ、ああ。そうだな」
一刻も早く家に帰りたくなった。何もない公共住宅の一部屋に過ぎないが、今はあの殺風景な部屋がとても恋しかった。
卍
珍しく日付が変わる前に帰宅する事ができた。いつもは眠りについている少女も今日は起きて出迎えてくれた。彼女の笑顔を見ることができたのは嬉しかったが、それはそれで問題があった。
「おそとでたい」
まだ元気が有り余っている彼女のわがままが出たのだ。
「外って、外が危ないのはあんたが一番知ってるはずだろう」
「モモチがいるもん」
「ダメだ、危険すぎる」
「どうして?わたしを買ってくれた時も外に居たじゃん」
「あの時と今とじゃ状況が違うんだ」
「意味わかんない ずっとおうちのなかじゃたいくつだよ」
「ダメだ!」
つい声を荒げてしまった。もしものことがあって二人が引き離されたら。その事を考えると、冷たい怖気が全身を駆け巡るかのようだった。
「ただでさえ危ない橋を渡ってるんだ!これ以上僕を困らせないでくれ!」
感情に任せて叫んだが、それが間違いだったと気づいたのはすぐだった。彼女が、今にも泣きだしそうな顔で僕を見ていたのだ。
「お、おい!どこに行くんだ!」
彼女が玄関から飛び出すのを止められなかった。足がすくんで動けない。どうしてあんなことを言ってしまったのか。今朝よりもずっと頭が痛む。
「待て!おい!待ってくれ!」
しかしパニックに陥っている時間もない。すぐに彼女を追う必要があった。外に出て走り出しながら、彼女を呼び止めるための名前を決めておけばよかったなどと、そんなどうでもいいことを考えていた。
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