検閲官の蒼い月 - 3

 生活の中に人一人が増えるということは、予想以上に大変だった。最初の仕事は彼女を風呂に入れる事。警戒からか想像以上の抵抗を受け、結局その日は諦めざるを得なくなった。

 二日目、仕事が終わった後あえて食べずにおいた配給の残りを持って帰った。これもまた彼女は警戒し、しばらく机の下から出てこなかったが、ずっと飲まず食わずだったのだろう。とうとう観念して平らげ始めた。


「よくもまあそんな美味そうに食べるよな」


 煮崩れた野菜と細切れ肉のシチュー。具はほとんどない。それとぼそぼそのパン。それを鬼気迫る勢いで食べている。まるで今食べなければもうそのチャンスはないかのような。


「風呂に入ると約束するならベッド使って良いぞ」


 満腹になって疲労が出てきたのだろう。船を漕いでいる彼女にそう告げると、こくりと頷いて応じてくれた。昨日からは考えられない変化だった。

 餌付けの甲斐あってか、それからは比較的順調に彼女と打ち解けていった。余っていた衣服の配給クーポンを使い、彼女の服を揃えた。風呂に入れて服を着せれば、もう路上生活者には見えなくなっていた。

 ただし外見をコンプレックスに思っているのか、それからも僕が着ていたコートを、身を隠すかのように纏っていた。



「モモチはなんのおしごと してる?」


 彼女からの問いは、帰宅が午前二時を超えたある夜、唐突に投げかけられた。


「どうした藪から棒に」


 それまでも此方からの質問に答えてくれるようにはなっていたが、彼女から声を掛けられることは初めてだったため、何となく落ち着かない気分だった。


「モモチ いつもかえりおそい おしごとっていってた」

「ああ」


 そういえばそんなこともあった。


「本や新聞の間違いを修正するおしごとだよ」

「まちがい いっぱいある?」

「ああ、そりゃもう。いっぱいいっぱい間違ってるんだ」


(正しい事なんてひとつでもあるのかすら分からんがね)


 ここ数日は特に忙しくなっていた。戦勝記念日の祭りと、カルト教団『輝く刃』の恒例行事が近づきつつある。扱う情報が増えれば検閲しなければならない項目も増え、その日のうちに帰れず真理省の床で雑魚寝する日すらあった。

 僕は疲れ切っていた。唯一の楽しみと言えば、三本ある彼女の手の爪を切ってやる事くらいだった。その日も彼女を膝に乗せ、伸びた爪をひとつずつ適当な長さに切ってやっていた。


「モモチなら おそらにうかぶいきもの なにかわかる?」

「いきもの?」

「窓のそとみると ふわふわって 太陽のほうへとんでく」

「ああ、ふわふわちゃんか」

「ふわふわちゃん?」


 練馬のサブタワー、『ニシオオイズミ』から発着陸する、イルメン国との空輸を担当する生物。

 世間ではイルメン国行き航空券の存在がまことしやかに囁かれているが、そんなものは脱国を防ぐためにちらつかされた偽りの希望でしかない。


「大きなタワーと楽園を行ったり来たりしてるんだよ」

「らくえん?」


 そう訊かれて少し考えた。楽園とは何をもって楽園とするのだろう。パンを好きなだけ食べられること。それとも手に入る情報が全て真実しかないところだろうか。あるいは。


「あんたみたいなこどもが捨てられないようなところかな」

「らくえん……行ってみたいな」

「わがまま言わず良い子にしてたらいつか連れてってやるよ」

「ほんとう?」

「ああ、やくそくだ」

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