検閲官の蒼い月 - 2
結局その日の業務が終わったのは日付が変わる前だった。これでも早く上がれた方だ。いつもならすぐに帰って少しでも睡眠時間を確保するところだが、僕の足は気が付けば闇市に向かっていた。
月の出る夜空に惹かれたせいかもしれない。良くない事だと分かっていながら、僕はたまにこうやって寄り道をする。マガジンに載っている煌びやかな国オワテルより、粗悪な脂と汚水の臭いにまみれた路上生活者達の巣窟の方が、まだ真実に近いような気がしたからだ。
とはいえ、この一画に真実なんてものは売ってない。あるのはシミと穴だらけの古着や、子供の小遣いでも買える粗悪なドラッグ。それと正体不明の肉で作られたソーセージくらいだ。
僕が検閲したマガジンも売られている。ただしうんと古い号で、しかもボロボロにすり切れたものだ。これが僕の仕事の行く末かと思うと、変な笑いがこみ上げてきた。
「お兄さん」
声を掛けられて身が縮こまった。目立ちすぎただろうか。僕の身なりは特別良いものではないが、少なくとも彼らよりかは清潔だ。言ってみれば恰好のカモ。恐る恐る振り返ると、浅黒い肌の男が此方をじっと見ていた。
「良い子が居るんだけど買わないかい。安くしとくよ」
男は親指で背後の暗がりを指した。よく目を凝らすと、隘路に並ぶ大きな錆びた籠が見える。ほとんど空になっていたが、ひとつだけ小さな少女が膝を抱えて座っている籠があった。
歳は十かそこらくらいだろうか。銀色の髪が綺麗だと思ったのもつかの間、此方に一瞥をくれた彼女の顔を見て、僕はそれが売れ残りなのだと理解した。
右腕が二本。蒼い瞳も右側だけ二つあるため、計三つの目が此方を見ている。右半面には羽毛のような体毛がびっしり広がり、右耳も羽に変異していた。
「マモニカ産?それともアムダスト?」
「お兄さん詳しいね。少年兵の成りそこないさ。見てくれは御覧の有様だが、あっちの方は未使用だよ」
僕は値札を見て呟いた。
「高いな」
「これでも勉強させてもらってんだ。これ以上は"食肉"に流した方が儲かる」
監視付きの集合住宅に奴隷を招くなど、通常では考えられない行動だった。真理省に勤める僕達は最低限の衣食住が保証されている。ただしそこに自由はない。国家の機密を扱う仕事である以上、悪目立ちするような真似をする奴から順番に"総括"されていく。
「あんたの上着とセットでその価格なら買うよ」
それでも僕は彼女を買う気になっていた。別に同情しているわけではない。この国では珍しくもない事だ。ただ、朝起きて仕事に行って、検閲して、飯を食って、また検閲して、帰って寝る。真実から遠ざかるばかりのルーチンワークに飽き飽きしていたのかもしれない。
男は嬉しそうに檻から少女を出し、脱ぎたてのジャケットと共に引き渡してきた。僕はしわくちゃになった紙幣を数枚彼に握らせた。たったこれだけのやり取りで、彼女の命は僕のものになった。
「あんた、名前は」
「…………」
少女は怯えたような目で見上げてくるばかりで応えなかった。僕は自分が来ていたコートを脱いで、彼女が着ていたボロの上からかけてやった。
「僕はモモチだ。別に逃げてくれてもいいけど、行くとこがないなら案内するよ」
彼女が拒絶するなら、そのまま逃がしてやってもいいと思った。奴隷商が着ていたジャケットを羽織りながら歩きだす。路上生活者特有の悪臭がするかと思ったが、鼻腔をかすめるのは煙草の匂いだけだった。
(オワテルの人間じゃないな。クリメリアの隊商から外れたモグリか……)
どうだっていいことだった。もうだいぶ遅くなってしまった。僕は自分の家に帰る。おずおずとついてくる少女の気配を背後に感じながら。
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