第3話 一般的な街(パニック後)

 逃げるだけなら……。思わず背後のドアノブに触れて、だけど、同時に逃げてしまったら二度と戻れない確信が背筋を撫でた。


 これで、もし何かあったら……。この状況では生憎、便利に動き回れる人間は少ない筈だし、それに、瑠璃華の対話術や情報収集能力で安全な場所を調べて貰っても、そこに辿り着くのは恐らく僕一人になる。


 確かに、空気感染の可能性も無くはないが、バイオテロ犯が世界を滅ぼすと考える理由を考慮すると「滅した後にどうするか」という課題がある筈で、生命力の強い細菌ないしウイルスが飛沫または空気感染するとなると、新世界は大陸の除菌からスタートする事になる。


 もし僕がテロ犯なら、新世界の除菌なんて途中で諦めて、無農薬の作物を適当に作って死ぬ事になるだろうし、世界規模のバイオテロなんて企画する集団はそれくらい考えるだろう。


 よって、感染しているだけなら、充分注意することで危険性は限りなく零になるから大丈夫。


 そんな大演説を敢行できるメンタルがあるなら、たぶん僕は遊びを絶って学力全国一位を取る事だって出来る。


 今、目の前の相手は人一人を撲殺できる凶器を手にしていて、知る限り最高の武力の持ち主でさえも「凶器を持った不審者を倒せるか?」という問いには「逃げて通報するに決まってるじゃない。(罵倒割愛)明らかに現行犯逮捕になるんだから一方的に逃げて通報したほうが楽で確実」と、ゴミを見るような冷ややかな目でこちらを見つめながらつらつらと言って仰せだったし、力尽くで説得するのはきっと不可能だ。


「落ち着いて下さい。一度死んだとはいえ、今は生きてるんですよ」


「いつああ・・なるか分からないでしょ?」


「信じるかは任せますが、少なくとも今は兆候すらない状態だと言っておきます」


 冴木さんは、黙っただけでバットを上段に構えた。上半身の筋肉量も人並み以上にはあるらしく、ブレのない構えだ。


「それに、奴らが何日先まで活動するか分からないし、水道もどうなるか分からない」


 少しずつ、体勢を崩さずしっかりとにじり寄ってくる冴木さん。


「知り合いはバイオテロだと言っていました。これから、世界的に人間より動く死体の方が多くなる可能性すらあるんです。だから……協力させて下さい」


 遂に、振り下ろされる距離まで近づいた冴木さんに僕は目を瞑って軽く頭を下げた。


「……少なくとも、今生きている人は、協力し合わなきゃ生き残れないと……僕は思うんです」


 いつ殴られるか分からないので、なるべく身構えながら、それでも言い切った。


「……空気感染するかもしれない」


 冴木さんの声は震えている、ように聞こえた。これは幾ら覚悟していても、殴るのは、しかも一撃で死ぬ可能性すらある頭蓋をかち割るのは流石に緊張しているらしい。


 などと、敵に塩を贈るというか、謎の思いやりを発揮しながら、僕は顔を上げた。もう、殴る必要も殴られる必要も無いように思えた。


「これは地球規模のバイオテロで、新世界に除菌剤を撒いて回るほどテロ犯はバカじゃない筈です」


「……つまり?」


「空気感染はしません。飛沫も。恐らく、一定量の新鮮な病原体が体組織や血液中に入らないと感染しないと思います」


「そっか……そうだね……。はぁ……」


 バットへ寄りかかるように崩れ落ちた冴木さんは、魂まで抜けていきそうなため息を漏らして、しばらく額をバットの柄の先に載せたまま顔を上げなかった。


「疲れていると免疫力も落ちるって言いますし、いくら濃厚接触といえど同じ部屋に居るのはリスクがありますから、念のため僕は外に泊まります」


「……うん」


「それで、RAINだけ交換しておきましょう。ご飯とか配達しに来た時に連絡できないと困るので」


「分かった」


 彼女はそうして、輝くような笑顔で立ち上がった。


「交換しよっか」


「……はい」


 僕はそれを見て、やはり、これに裏があるようには思えないなと、改めて実感する。でも今回ばかりはその頬に、一条の濡れ跡が残っていた。


「じゃあ僕は夕飯を盗ってきますね」


 ボタンを二、三回押すだけの交換はすぐに終わり、僕は何か、連絡先を交換した事が急に小っ恥ずかしくなって早々に立ち去る理由を口にする。


 口にした以上、留まるのも変なので、春先の生ぬるい風が押し戻そうとする立て付けの悪い鉄の扉を僕はグッと押して外に出た。


 登りよりか比較的短く感じる階段を下り切ると、斜陽の橙色に照らされた街に明かりが付き始めていた。

 この時間特有の、駅に戻る人達と夜の街に駆り出す人達の忙しなさが消えて、今はのろのろと動き回る死体達が道路を占拠している。


「……ひどい」


 人の心を擦り減らす光景を目の当たりにして、僕は現実の凄絶さを改めて実感した。目の前のリアルすぎる動くマネキン達は、確かに、数時間前まで生きていたんだ。この場所で……。


 僕は考えても仕方が無い事リストにゾンビの故郷を入れて、大通りを駆け抜けていった。


 頬に当たる風が、いつもより冷えていた。






 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇







 音が出るパチンコ屋などにゾンビが吸われているらしく、少し離れるとゾンビはすっかり居なくなっていた。


 僕はそんな中で、酸欠で頭が回らないまま、体の欲望のままに酸素を吸入している。


 ゾンビなのに、疲れるのは相変わらずだ。


 汗を拭っていると携帯がデフォルト設定の軽快なベルの音を鳴らし、その音に驚いて道の端に寄った。


 もちろん周りに反応する奴らはいない。


 そういえば居ないんだった……。


「……もしもし?」


「あぁ、お兄ぃ。さっき誰かと揉めてたけど大丈夫?」


「もう問題ない。分かってくれた」


「その状況で生き残ってる人なら当然の判断ね」


 なんで瑠璃華が自慢げなんだ。


「そうそう、さっき言いかけてたのはフィクサーってSNSアプリでしょ?」


「そうだけど……」


 さも知っていて当然と言いたげに、サラッと正解した。検索に便利なアプリがあるって発言から、そこまで導くなんて。妹の知財は相変わらずだなぁ……。


「これ、すごくいい。母数が多くて、情報の精査はちょっと面倒だけど、集まる情報量がニュース番組よりも俄然多くてとにかく便利! SNSには興味無いからってもっと前に調べなかったのを、後悔するくらい」


「それは良かった」


「国民の情報や感情を勝手に吐き出してくれるツールを作るなんて、予想して作っていたなら──開発者の私生活とか思考法や理論を本にして欲しいレベル」


 たぶん全人類が数年でそのレベルに到達する可能性は一ナノメートルも無いから、この先も全く伝わらない例えだと思う。


「それで、何か収穫はあった?」


「場所は全く分からないまま。この場所が何のために、いつから存在しているのか。何も分からなくて」


「それは……ヤケにきな臭い場所になったなぁ」


「間違いなく父さんが原因だと思うの。父さんね、研究以外にはまるで興味ない。みたいな顔して自衛隊の偉い人と仲良かったりするから」


「うーん……」


「お兄ぃも入れると思いたいけど、父さんと連絡がつかないからなんとも言えない。もしかしたら……」


 つまり、父さんが非感染者を保護する前提でそれを作っていたなら、僕は入れない。


「……仕方ないよ。それに、父さんしか知らないんだから、今考えても答えなんて……」


「そんな事ない。もうすぐ夕食の時間だから、人が来るはず。直接渡すなら、なんとでもしてみせる!」


 そういえば……夕食を用意しないと。


「最後になるけど、ウイルスがどの辺まで拡大してるか知ってたりする?」


「今のところ進行は止まってて、まるで感染するのが・・・・・・・・・分かっていたみたいに・・・・・・・・・・半径二キロくらいの綺麗な円形でコンクリート製で五メートルくらいのバリケードが設置されてる。電車はたまたま・・・・人身事故で止まっていたみたい」


「バイオテロ、なんだよね?」


「発表はそうなってるけど、疑っている人は多くいるみたい。こんなの……流石に怪しいってレベルじゃないけど」


 瑠璃華は若干呆れたように言い捨てる。


「でも、各国で起きてるんだよね」


「それが謎で、他の国は初動の対策なんて無かったみたい。そもそも各国でこのSNSのシェアがそこまで伸びてないにしても絶望的な状況になってる」


「日本だけか……」


「まだ分からないけど、テロ犯がいくつか新人類に相応しい国を選んでいる可能性はあると思う」


「ありがとう。良く分かったよ」


「ふん、お礼を言われる程調べてないし。これから各国でシェア率の高いSNSを漁ってみる所。どうせ暇だしね」


「それじゃあ、たの……」


 頼もうとする前に、通話はブツリと切断された。


「はぁ。せっかちというか……なんというか……」


 妥協しない兎か、早い亀なんかになりそうだ。


 どっちにしたって止まらないし、追いつけないし、周りは引っ張られてばかり。


 しかし、今はそれがこの上なく頼もしい。後もう少しだけ、小さくて力強い背中を借りよう。


 いつか見た妹の背丈を思い出しながら、僕はアテのない希望を見出していた。


 そうでもしないと、陰鬱な雰囲気のコンビニには入れそうに無い。誰かが止めたのか、自動ドアのセンサーと蛍光灯は光を失っているが、ガラスが割れているし、店員や客は中に入ったまま出てくる気配が無かった。


 店内は、ここから見る限りでもホラー演出たっぷりであり、助からない死にかけた人が大切な人に形見を渡そうと手を伸ばしてきてもおかしくないような雰囲気なのだ。


 ガラスの飛び散る足下に気を付けながら、僕は殆ど廃墟となったそこに足を踏み入れた。


 パキパキと音を立てるが、殆ど反応が無い。


 少し奥まで入って──なんでここの奴らが外に出られないか分かった。ずっと、鳴っている。それは冷凍庫や冷蔵庫の商品を冷却する音だった。


 無音になると良く分かるが、思いの外この機械は音を立てていたらしい。


 原因に納得していると、微かに別の物音がした。


 硬く閉ざされたスタッフルーム。その奥で、確実に何かが動いた音だった。


 カウンターに行くには、片方を蝶番で水平に止められた、片方を上に上げて通行する一般的な板を使う他は乗り上げて移動するしかない。


 奴らは、幸いにも知能らしい物は無かったのか、カウンターの中に誰も居ない。それで、僕は少しの期待と待っていたスタッフの恐怖を胸に抱きながらスタッフルームのドアノブを握った。


 果たして、そこに居たのは────。


 人形ではある。……暗くてよく見えない。がん、がん、と、不可解な物音だけがさっきより鮮明になっている。


 がん、がん……。音の正体は、壁に頭を打ち付ける、奴らの仲間となってしまったスタッフだった。


 ひどく気の毒な気分になって、すぐに扉を閉めようとしたが、テーブルの上、綺麗に整えて置かれた手帳と携帯を見て部屋に入ることを決心した。


 そっと入り、スマホと手帳を取って……


「うあ゛ぁ……」


「ッ────!?」


 今、間違いなく反応した。自分の立てる音より、僕の存在に向かって反応していた。


 手を突き出して振り返った彼は、僕に触れたが、その後の反応は似たようなものだった。壁か何かと勘違いしたのか「あ゛……あ゛ぁ……あ゛……」なんて間抜けな声を出しながら、僕を完全に無視してのろのろと徘徊し始める。


「はぁ……はぁ……」


 驚きに思わず息を止めてしまって、脱力した途端に息が荒くなっていた。


 これは嫌な収穫になるかもしれないけど、新しい発見なのは間違いない。どうやら、動く死体にも、個体差がある。


 瑠璃香に言うべきか、とりあえず携帯を開くと、冴木さんからのメッセージが3件ほど溜まっていた。


『今いいかな』

『何があるか、分かったら教えて!』

『大丈夫?』


 との事だった。僕はまず自分の無事を告げ、適当に弁当の名前を言っていく。


『うーん、微妙だね……』


 仕方がないので、写真を撮って送ることにした。


 カシャ、とわざとらしく鳴る携帯を恨めしく思いつつ、ゾンビの視線を感じながら写真を添付する。


 しかし、フラッシュもしっかり焚いているのに「ぁあ゛?」なんて言って振り返るだけで過度な反応はしない辺り、目は間違いなく退化していそうだ。


 僕もいずれ、そうなるのだろうか。


『じゃあ、この中だったら何が良いですか?』


『牛丼! あと、サラダとドレッシング。あとあと、レンチン系の保存食は全部持ってきて欲しいな。レンジはあるからさ』


『保存食、ご飯とカレーばっかりになってもいいですか?』


『OK!』


「さいですか」


 予想の数倍は大荷物になりそうな想像をして、沈んでいた気が更に滅入った。残念な事に、ゾンビになったからと言って体力が無限に湧いたりしないのだ。……湧くといえば、あの悍しい食欲は感じていない。


「……うーん」


 現に、手に取った牛丼を見つめていても、抑えきれない食欲が沸いたりはしない。


 昼すら食っていないのに……。


 とはいえ、これ以上何も食べずに活動するのは嫌な予感するので適当な弁当を見繕った。


 電子レンジの音でも逐一反応されるが、もう気にするまい。どうせ敵対しないんだし。


「いただきます」


 一口目を口に運んだ瞬間、まるでぴっちりと閉じた地獄の釜が内部の圧力に負けて爆砕されたかの如き食欲が吹き出していた。胃がきゅうっと胸を締め付け、冷や汗が止まらなくなって、目の前がくらりと歪む。


 体の不調とは裏腹に、今は脳の命令よりも脊髄の信号の方が優先されていて、頭には辛うじて食器の使い方を覚えている程度の理性しか残っていない。


 殆ど飲んでいたと思う。一瞬で食べ終わった僕は、一層強まる強烈な飢餓感を感じていた。


「はぁっ……はぁっ……」


 息も荒く、握り飯が陳列された棚の座り込むとほぼ無心で包装を破いては取り込んでゆく。


 どれくらいそうしていたのか。息継ぎが必要な勢いで食っていた僕は、胃が水を寄越せと抗議の声を叫び始めて、やっと飢餓感が過ぎ去った事を知った。


 とりあえず水を飲もうとして立ち、僕は自分の食事量に愕然としながら腹を見る。そこには、風船かツチノコみたいに浮き出た胃がうねうねと動き、一気に投下された食料を消化しようと奮闘する姿があった。


 ……まるで、別の生き物みたいに。


 突発的な吐き気が襲ってくるが、喉に痛みを覚えるばかりで、全く何も上がってこない。水がないから、満足に吐き出すことも出来ないらしい。


 喉の痛みと吐き気に耐えながらヨロヨロと清涼飲料水売り場に向かうと、無駄に重い扉を開いて、水分補給に最適だと思われる商品を奪って一気に飲み干した。


 今度こそ吐き気が襲ってくると思いきや、吐き気も過ぎ去ってしまい、胃はより嬉しそうにうねうねと動き始める。


「なんだよ……これ……」


 僕は、とことん化け物になった体に慄然とした。


 震えているのは、この、死んだ体が生き返る事は無いという事実と、死んでいるから、この先悪化するしかないだろう。という確信のせいだ。


 しかし、今、一番怖いのは、僕が己の獣性を自覚するのが困難だという事だった。


 体が奴らに近づいても、それが発動するまで自覚なんて無い。


『いきなりああ・・なるか分からないでしょ……?』


 冴木さんの声がリピートする。ああ、そうだ。確かに言う通りだったよ。僕は、いつ化け物になるかも分からない……。


「最悪な奴だ……」


 思わず額に手を当てて、ひんやりとするガラス張りのショーケースにずるずると座り込む。


「……はぁ」


 数十分後に会うとき、どんな顔して会おうか。


 流石に数十分くらいは持って欲しいな。


 無気力にそう願いながら、僕はプラ製のレジ籠にたっぷり荷物を詰め込み、家路を急いだ。

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