第2話 一般的な日常(動く死体あり)
「……生存者とか探した方がいいのかな」
そんな僕の思考停止気味の目標というか呟きは、すぐに解決する事になった。
人が飛び出したのだ。さながらゾンビの太平洋とも言える、その真っ只中の大通りに。
音を立てたのは、一匹のゾンビが飛び出した人に攻撃されて倒れたから、らしい。その事を咄嗟に、体の影から覗かせた光り物、恐らくバットであるそれを見て想像した。
スポーティな服装に身を包んで、キャップを被った細身な人だ。
ふむ。ゾンビの海に金属バットを持った生存者。
まるで映画みたいだ……。
……って、言ってる場合か!
非日常に慣れすぎて感覚が麻痺したのか、ゾンビになって脳の何処かが麻痺してるのか、僕の危機感が働くのは些か遅かった。
例えば普段、角の向こうの車を意識する程度の危機感が二徹した後まで下がっていると考えれば分かりやすく……ないな。うん。ひどい。ついでに二徹した事も無いので尚更である。
とにかく、その生存者は遅からず取り殺されるだろうし、実際、周辺の音で活性化したゾンビ達が死体らしからぬ機敏さでその一点に向かいせっせと足を動かしていた。
もう時間がない。
とにかく走る。近くまで走る。これを近場と言うには五十メートル程瞬間移動する必要があった。勿論、この距離であの量のゾンビをどうこうするのは無理だとしても、この場を脱出させる手伝いくらいはしたい。
そんな風に考えて生存者に近づいていたが、彼は見ている間にもより困難な窮地に追いやられている。
彼は向かいのビルに向かおうとしていたらしいが、向かってくるゾンビの大群にたたらを踏み、その間にも包囲網は強固になっていた。
「早く元の建物へ!!」
僕は走りながら叫んでいた。
元の建物にはゾンビが見えないし、ここは一度出直すべきだろう。引くのも勇気。と、かの武人舞木 瑠璃華僕の妹も言っていた。
彼は後ろを振り返り、そのまま走って戻るかと思いきや、刹那、逡巡の後に音も無く近くにあった車のボンネットに乗った。そのまま素人には見えない体捌きで、するりとボンネットから車の一番高い位置に移動する。
……? この人も妹と同じく超が付く武闘派なのか……と一瞬考えたものの、この騒ぎを聞き付けたのか、もう既に建物側──ゲームセンター側からゾンビが湧き出しているのが視界の端に入り、ウチの超人と一緒にするのは辞めた。
しかし、この量をどうするのか。軽く百人は超えていそうなこの大群が、ほぼ一点に集中しているんだから非常にまずい。
疎らだった間隔が詰まって行き、彼が逃げた車の周囲、そのかなり至近距離にもゾンビがうろつき始めた。最初にゾンビをぶん殴ったゲームセンターの近くなんて、新春の福袋売り場並みに混雑している。
が、動きが緩慢になっているし、音が発生した直後のブースト状態は終わったと見ていい。
ゾンビも疲れるんだな……。と、僕は膝に手をつき肩で呼吸しながら実感した。ゾンビってなんだ。フェニックスも疲れたりするのか……?
汗が滴る視界から彼を見やると、伏せた彼の真面目な目と視線が絡み合った。うん、まあ、考える迄もなくこのアイコンタクトの意味は「どうにかしろ」の一択だろう。
どうにか……どうにか……。そうだな。やっぱり、この団体様の方が移動して頂き、宜しければそのまま土か天にお還り頂くのが一番良いと思うんだよな。
汗を拭い拭い、大声を張り上げる為に息を大きく吸って体を反らし、手を口に添えると、思い切り叫んだ。
「おぉ〜い!」
数人が反応した。けど、当たり前に未だ全く状況は好転しない。……大声のつもりだったのにな。
「ぁあーー!!」
今度はもう只々大きな音を出す為に叫んだ。あのシュミの悪い死体集団の隅々まで、一人残らず聞こえたと思うが、緩慢な動きのままノロリノロリとこちらに向かい始めるのみだった。急に難聴になるな。なんでそう生存者の音にだけ思い切りが良いんだ……。
なんて、下らない事を考えつつ、いきなり惨殺死体になる可能性がグッと減って人並みに安心した。こういう時、人間がどれくらい安心するのか分からないが、それは空前絶後の謎で丁度いい。基準は舞木 景ケイただ一人。更新未定。うん。なんか良いな。これぞロマン。
そうして大きく息を吐き出した瞬間、数歩で息が荒く戻るのも構わず走り出した。
彼の居る車が不規則に揺れている。どうしてか居場所がゾンビにバレていたらしい。
一歩一歩、ゾンビの波に突っ込もうと肩が当たろうと転ばない様に踏みしめて走る。
ふと見やると、既に揺れは耐えられる限界に来たようで、彼は腰を浮かして飛ぶ姿勢を取っていた。
これ、間に合うかな……?
嫌な考えを振り払い、過密地域に達した所で直線に行こうとした事を後悔した。して、彼といえば今飛び出した所で、なんとかゾンビの空白地帯に着地した。
しかし、タンッ、という音にあざとく反応した奴らも動き始めていた。
焦る。
あと数メートル、数メートルで完全に囲まれて喰い殺されてしまう。折角生きたのに、目の前で死んでしまう。そんな光景……見たく無いッ!
「わぁーッ!!」
くそっ!!
もう止まらない。数人は振り向いたが、全然勢いが死んでいない。きっと生存者までもう三歩もない。
目が離せなかった。
見たくないと叫ぶ理性と裏腹に、生存者と周囲のゾンビにある欲望を向けていた。恐らく食欲と羨望だった。そんな悍おぞましい体になってしまったんだと、その時に改めて自覚したように思う。
自分の意思とは関係なく湧いた欲望に恐怖しながら、僕は叫んだ。目の前のゾンビの壁も、食いつく奴らも、より大きな音であれば扇動出来ると強く願って。
「寄るなァァアア!!!!」
それは咆哮だった。とても自分の口から発せられたとは思えない音圧を纏ってゾンビ達に直撃していた。これが火事場の馬鹿力というやつか、或いは、ゾンビの能力に【咆哮】なんてのがあるんじゃないか。ってくらいの大声だった。
そしてまるで見えなくなったのか、唐突にゾンビは生存者を完全に無視して四方八方に散り出す。
なんというか、僕は思ったより人間を辞めているな。
ぺたりと座り込んで震える彼を見ながら、僕は呆然とそう思った。
それからしばらくして、互いの息が整った頃。
「……はやく、ここ、離れましょう」
震える少女の声が聞こえた。僕は、もう末期なのかも知れない。確かに筋肉の芸術点が高い脚をしているなとは思うが、そういう趣味は無い。無い筈なんだ。もう僕の脳はボイスチェンジしてでも卒業しようとしていると言うのか……。
「また、囲まれるなんてイヤです」
腕を擦り合わせながら何とか立ち上がった彼は……彼は、彼……は……かれ……?
あれ……?
「……どうしたんですか?」
これは聞いてはいけない。この神秘性というか、大切な何かが壊れる気がする。
思わず戸惑ってしまったが、当たり前だった。これは最早新しい扉そのものだ。つまり、ほぼ完全な中性だった。いや実際に中性な訳が無い。あったり無かったりはするけど、というか声は女子だ。しかし、あっても不思議に思わない端正な顔立ちと短髪。軽く日焼けした肌。
見れば見るほど趣深い空間がそこにあった。
女子らしい顔立ちであれど、アクセントになる太めの眉と短髪がよく似合っている。
うん。これはこれで……。
「いや、なんでも。その、さっき行こうとしてたのアレですよね」
困惑する眼と正面で目が合いそうになり、思わず顔を横に逸らしたのを誤魔化そうとして、さっき行こうとしていたビルに目線を向けた。この人のそんな顔を直視して真顔を保てる自信がない。そんな特殊な訓練は受けていないのだ。……ただでさえ整っているのに、表情のギャップも最高だとは……。
「そうです。来ますよね?」
「えっ、まあ、はい」
なるべく顔を合わせないように答えた。良く考えてみれば、まだしっかり太陽さんが仕事をしている訳で、フードを被っただけじゃあっさりと死体バレしてしまう可能性が高い。嘘……だろ……。つまりどっちにしろ、僕は顔を見て話す事が出来ない。可能だけどしないのと、不可能なのは違う。あんまりだ。
「……行きます」
「……なんで落ち込んでるんですか……変な人」
あの、聴こえてます。
しっかりとトドメを刺された後、付いて来て下さい。という声の後に続いた。
その人はやはり、見た目通りの健脚だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そのビルは昔にオレンジ色だったかも知れない灰汁色の外壁で、ヒビだらけで、一階の狭い階段の入り口には「2Fランチ食べ放題!中華!炒飯!美味!」という怪しげな看板が立っている。
そう、向かいのビルの隣にあった細道の先、ビル群の真ん中らしい、いかにもなビルが目的地だった。
「はぁ……はぁ……あの、ここって……」
「安全だと思うんです。この細道の上に、狭くて急な階段……」
ねっ? という顔でこちらを見やる美少女。どんな顔をしても似合うので暫定美少女に今決定した。まだ美男子か美少女かの審議は続くが、暫定である。
「なるほど……でも、安全そうなら中の人も生きてそうですね。こんな細道、知る人ぞ知るって感じですし、ゾンビが入り込むのも難しいですし」
「あ……」
「いや、開けてくれますよ。たぶん」
外からこの人の声がしたら絶対に開ける。僕だったら乳飲料の販売でも、怪しい宗教の勧誘だと分かっていても開けるね。間違いない。
根も葉も芯も何もない空虚な自信を沸かせながらも、僕が先に、後ろに名無しの美少女を連れてドアへ直接攻撃する事になった。うん。まあ、物理で殴れば良かろうなのだ。
僕は軽くドアを叩いて、声を上げた。
「すいませーん、どなたかいらっしゃいますか?」
返事がない。
ドアノブを捻るとギィ……、と、やや錆気味の音を立てて呆気なく開いた。戸締りもされてない……店主が無用心な人なのか、それとも既に……。いや、中華屋の店主が山のような筋肉量で、海のような心の広さを待った中国拳法の師範なら無用心で済むかも。
つまり十中八九お亡くなりになっているかも……なんて、限りなく曖昧な、底が抜けている水筒に水を注ぐ方がまだ有意義なレベルの予想を立てつつ僕は室内に不法侵入した。
「中に誰も居ませんよねー……」
もちろん返事は無い。
居たら勝手にびっくりする。その上で勝手に路上生活を強いる事になってしまうけど、恐らく彼らには自我らしい物は存在しないから、恨まれたりはしないだろうし、死体は法律の範疇外なので逮捕もされない。きっとそうだ。
などと僕は、中に動く死体が鎮座していたら窓から放り投げようという決意と共に、誰に言う訳でもない陳情を並べて立てていたが、もっとも、まだ自我があるタイプの人類だったらこの限りではない。むしろそうであってほしい。
少し前まで営業していたらしい中華屋の店内に荒れた様子は無く、香ばしい中華調味料と油の匂いが漂っていた。怪しい見た目に相反して、いや、べつに外側と中身が比例しているとは思っていないけど、予想よりも小洒落た店内の雰囲気に僕は少し面食らった。
シックな漆塗りの椅子と、ヤニの厚い、木目が浮き出ているタイプのいかにも削り出しな机が並んでおり、照明もどうやら雰囲気に合う物に拘っているらしい。その吊り下げの照明が照らす壁紙は赤茶と茶渋みたいな緑の調和が取れた一品だった。
もしや、油でテカっているだけ……?
漆塗りの椅子とヤニ厚めの机に疑惑を持ちつつ、僕は真っ先に厨房へと向かった。
完全に死角になっていて、人が寝るスペースとしたらそこしか無い。正確には寝るなんて平和な事じゃなく、倒れた後にゾンビ化が始まっている状態だ。
ほんとに、奴をどうしてくれようか。
特に人の睡眠や気絶を疑う状況にさせ、人類の安心と平和を勝手に奪い取った罪は重い。もし元凶と対面したら、ランジーも助走をつけてぶん殴ると思うな。
これまた一方的に恨みを募らせつつ、または現実逃避とも言うが、とにかくやっと物理的に視覚したそこに居たのはネズミだった。……外見と中身はある程度比例するらしい。
注意深く客室を見て回った後(客室といっても、厨房前の大きなワンフロアだけ)、僕は彼女を中華屋に引き入れる事にした。
「中には誰も居ませんでしたよ。大丈夫そうです」
「……失礼しまぁーす」
彼女は一つ頷くと、中に声をかけて店内に入っていく。
あの相槌は何の意味があるんだろう……。まるで十年来の相棒みたいな仕草があるのは、なんというか、特別感があってイイけど、分からないと微妙な心持ちになる。これが……恋……?
いやいや、と頭を振って変な驚きと考えを振り落とし、少し遅れて合流した。
「はふぅ〜、もう疲れましたよぉ……。緊張するやらなんやら、もうここで終わるのかと……」
そこには、テーブルにダラリともたれ掛かる猫がいた。かわいい。
このまま顎でも撫でれば、だらしない顔でゴロゴロと鳴いてくれるのかな。なんて、そんな様子を想像して頬が緩んでしまったらしい。
「……どうしたんですか、変な顔して」
ダラけたまま、顔だけこちらに向けていた。他意のたの字すら見えない純粋な面持ちである。そんな顔をされると、妄想した事を申し訳なく思ってしまう。
純粋な可愛さとは、それだけで特殊能力……。いつだったか、妹がこの世の真理を見たような顔をして言っていたっけ。
「いや、その、変な顔してたからつい……」
親しくないのに「可愛い」なんて核爆弾を投下する訳にもいかず、これは咄嗟に変な顔に変換されたが、正直悪化した気さえする。
「変な顔って言っても、いい意味というか、力の抜けた顔をみて釣られたというか」
立て直そうとして舌ばかり回るが、肝心の脳内人格達はそれぞれの主張が四方八方にすっとんでいた。
「……お互い、変な顔をしていなかったんです。そう。それに、緊張は体に悪いらしいですよ?」
どうにでもなっていいやと、面倒になったので、適当に締め括って、逸らし続けていた顔に目を向けると、がっちりと呆れ返った目線にロックオンされていた。
「かなり焦ってますね。女子と話した事とかなさそうです」
申し訳程度の敬語が付随しているものの、威力は抜身のナイフそのままだ。
「ははは……はい。ほぼ全くありませんね」
「え、全く……? それに褒めて無いよ……?」
開き直った所にスッとそれを投擲するのは酷くないか……? 遠慮とか距離を置くとか、あの、そういう選択肢はありませんでしたか……?
「……大丈夫デスヨ。は、はは……異性と話した経験が豊富にあったとしても、言う程の趣味も無いし、使う機会は永遠に来ないからなぁ……」
血反吐を吐いたような気分って、こんな感じなんだろうな……。圧倒的な苦みだ。もう全部吐き出した。
どんとこい、軽蔑の眼差し。
「うん、確かに来なさそう……」
否ッ、それは同情!
ひどい。どうして僕はここまで来てコミュ力を否定した上で同情されて居るんだろう……。同性だったらお互い様だなって、そう言い合えるのにな……。
「そうだ。名前なんて言うの?」
もう彼女は敬語を使う気が全く無くなったらしく、それは仲良くなったからとかじゃなくて、尊敬できる人間じゃないなと思ったからに間違いなく、僕は涙さえ零さなかったが、心は粉々と言っても過言じゃ無い。
そんな傷心者へ、もう遠慮する期間は終わったとばかりに、頬杖をついて携帯を弄りながら目線だけで答えを催促している有様なのだ。
世に言うあれ。彼女も陽の者、そう、陽キャだったんだ。きっとこの気さくな態度の裏で、酷く罵っているんだろうな……あいにく被虐趣味は無いので、それを素直に喜ぶ事なんて出来ない。
「舞木まいき 景けいです……」
「そっか」
そう言ってサッと携帯を閉じると
「よろしく、ケイ君」
人畜無害そうな、しかしどこか自信を湛えた笑顔で手を差し出してくる。純粋そうなその仕草は、やはり他意なんて無さそうに見えた。
毒気を若干抜かれつつ、その手を取る。
「よろしくです」
思ったより柔らかかった。なんて他意まみれの感想しか出てこないし、僕も人の事を言えないな。
一瞬、手をためつすがめつ勝手に痛み分けにした後、やっと聞くべき事を思いついた。
「そういえば、名前を聞いてませんでしたね」
「ん、私は冴木さえき 翔架しょうか。苗字でも名前でも、好きに呼んでいいよ」
思いの外あっさりと教えてれるんだなぁ。と、今までマトモに話した事すら無い僕からすると大きな一歩である名前に感動していて、一瞬迷った上に、その時何も考えていなかった。
「ショウカさんですね、了解です」
なんて、謎にしみじみと言うものだから変に見えたんだろう。
「……やっぱり、名前にさん付けはやめてくれない? 先生っぽいというか、その……」
とても言いにくそうだ。あ、言わなくてもいいです。分かってます。なんか気持ち悪いんですね……。
「なんか、童貞っぽい?」
それを知っているとは思っていなかったし、全く心の準備という防御網が機能していない角度からの強襲に僕はなす術なく撃沈した。
これは妹で耐性が付いて無かったらもう立ち直れないレベルのダメージだと思う。
少し困った苦笑いを浮かべている強襲者には、表情から察すると悪気は無いらしい。
「セクハラですよ、それ」
精一杯の笑顔、というよりか苦笑いの形に崩れる頬の痙攣を抑えながら言い返すのがやっとだった。事態を悪化させる天才か?
どうせなら真顔で……いや、それはそれでダメな気がする。うむ。手詰まり感があるな……。
「あ、うん。そうかも……そうだね。ごめん」
一瞬、ふと真顔になったかと思えばさーっと血の気が引いていき、深刻そうな顔で頷かれた。何を考えられたんだ一体。そんなに変なことはしないぞ。
そして訪れる沈黙。葬式場でも中々見られないくらい重く痛々しい静寂だった。それも仕方ない事である。ここからいきなり「ご飯はどうします?」とか聞くのはデリカシーやモラルを利己主義的な観点から否定するのと同じだし、第一、普段から尽くを無口でやり過ごしたコミュ力皆無の自分に搭載された語彙ではこの状況を打破する術など無かったからだ。
しかし誰か一人の口数が少なくても物事が動くことはままあるので、それはリーダーシップが無いというだけで、現代社会を生き延びる上で枷になる事は無いと僕は思う。無口万歳。
とはいえ、流石に今回に限っては黙っていても解決しない。何せ二人しか居ないし。正確には僕ともう一人、ぼっちとぼっち状態なので、よりひどい現状であるのは間違いなく、無言の圧力は増すばかりだった。
数分、体感的には数十分に感じられた時間をあっさりと打ち破ったのは一本の電話だった。
唐突に鳴り出したベルの音に若干驚いて、血の気の引いた顔のまま無言で携帯を弄り続ける冴木さんを横目に入り口の方まで移動しながら通話ボタンを押した。
「も
「もしもし!?」
もろに直撃したので、高周波の残響が頭の中に残る。
せっかちなのは兎も角、どうして叫ぶんだ……。
「……もしもし」
耳に携帯を当て直すと瑠璃華の声が、驚くべき事に、普通の音量で出力されていた。
「……その、肝心な事を忘れてて。そういえば、おにぃが今生きてるとしても、何かあったらぽっくり死んでもおかしく無いんだよね……」
……全く、相手を責める言葉が使われて居ないし、それに、瑠璃華が物忘れをするなんてらしくない。
あるのは労いを超越して死ぬ可能性を憂鬱する言葉だけで、それはそれで瑠璃華らしいと言えばそうかもしれない。
「とにかくなんだか……不安になってきちゃって」
あれ……前に妹と意見が揃ったのは凡そ数年前になるような……? こうして見ると、改めて普段の瑠璃華の高飛車ぶりを実感するなぁ。感激というか、感慨深いというか……。
「父さんも母さんも音信不通だし……だから、これを聞いたらすぐに電話して。あと、定期的に電話するけど、そっちも何かあったらすぐに連絡すること」
瑠璃華の中では留守電に掛けているつもりらしい。
勝手に死ぬ心配をされるのも嫌だな。
「うん、まあ、暇を見て連絡すれば良いんだろ? それと、感染する心配は無いよ。だってもう、すっかり感染してるし」
「…………えっ?」
相当なショックを受けていて、電話越しでも分かる絶句ぶりだ。
「えっと……嘘、でしょ? ちゃんと説明して」
「そうだな……一時間くらい前に電話した時には既に感染から数時間経ってたんだよ」
「なんで……そんな……」
瑠璃華は嗚咽混じりにそう言う。
やっべ。これは間違いなく言葉足らずだった。
「いや、でも問題ないんだ。大丈夫だから」
「……っ何が、大丈夫って。全然良くない! だって、その感染症はッ……!」
「だから、僕は一度死んでるんだよ」
「ぅえ?」
「ああ、間違いなく死んでる。それで復活したんだ。他の奴らと同じように。……瑠璃華はどこまで知っているんだ?」
「……大規模なバイオテロによって引き起こされた感染症で、宿主が脳死した後も寄生的なライフスタイルで擬似的な生命活動を行う可能性が高いこと」
まるで朗読しているかの如く、妹は同じ速度でつらつらと謳った。早くて分からないんだよな……まあ、瑠璃華はその速さでも理解できるんだろうけど。
「えっと……つまり?」
「ああもう! このバカ!! つまり、お兄ぃの言う通り、死んだ後も動き続けるってこと!」
「なるほど。にしても、バイオテロでこんな風になったのか……一体どこの誰が……」
「他国でも酷い有様みたい。って言っても、どこのテレビ局も各国のニュース番組の映像を切り貼りして解説してるだけの情報だから微妙だけど……全く、同じ映像ばかりで飽き飽き!! 国民のために──なんて言って、危険なことはしないんだから!」
「まぁまぁ……」
国内の事もロクに把握できないし!! 無能ばっかりね! などと吠える妹を諫めると、少し安心した。これこそいつもの妹だ。
「そんなことより、お兄ぃが生き返ったってどういうこと? 感染症はあくまでも擬似的な生命活動、つまり、猿真似しか出来ないはず」
「だろうね。人間らしい行動は見かけなかったよ」
「って事は、つまり、今喋ってるお兄ぃは細菌かウイルスの模倣した偽物って可能性が……」
なんでそうなる。……もしかして、ウイルスで真似できるレベルだって言いたいの? 高度なギャグなの?
震える妹の声は迫真の演技じゃ無ければ本気で、それが本当なら────なんて、ぞっとする考えだ。
しかも、考えるだけ無駄な可能性でもある。今、少なくとも舞木 景は生きているし、それで充分だと思うのだ。
「笑えないし。ほら、あれだよ、きっと脳死はしなかったんだよ」
「うん。そう、きっとそう。私だって、そんなの、父さんに言われたって信じられないもん」
うんうん。と一人大きく、画面の向こうで真面目に頷いている瑠璃華の様子を想像して思わず笑みが溢れた。
でも、そういえば、瑠璃華が父さんの言葉を信用しないなんて、初めてかもしれない。まあ、父さんだったら結論は間違えないだろうし、曖昧な事は断言しないから、そんな事態にはならないと思うけど。
「それで、瑠璃華の方はどうなったの? 少しは落ち着いた?」
「都心から離れて、山間部に移動したみたい。トンネルばっかりで、どこに移動したか分からない。そんな道路知らなくて……でも、方角的に都心から離れたのは間違いない。どこかの施設の中。打ちっぱなしのコンクリート造りで、結構大きめの質素な部屋で、鉄の扉とトイレの個室と、二十四時間換気の小さなファンとコンセント以外は特に何もない、変な部屋でカンズメになってる」
またもや詳細まで覚えるには難がある情報量を電話で言い放った妹は、これで満足かとばかりに、むふー、と深く息を吐いた。
「それで、落ち着けそう?」
「そんな訳、ないじゃない!! 場所も分からないのに!!!!」
うがぁー! と火竜の如く暴れ回る妹。うむ、普段よりひどい暴れ方だ。どうもフラストレーションが溜まっているらしい。これは想像でしか無いが、もしその場に居たら、肋骨が何本か逝っていただろう。
「まあ、落ち着きなよ。情報を集めるならいいアプリがあるから……」
「それ、位置情報は使わなくて済むアプリ?」
「なんで?」
「GPSがうまく機能しなくて。何故かこの部屋でGPSを使うと、千葉県沖から十キロくらい離れた、太平洋のど真ん中になるから」
「それは……本当にそこに居るんじゃないの? だって、瑠璃華でも知らないような道を使って、わざわざ半日もかけて移動したんでしょ?」
「確かに……辻褄は会う……」
「ねぇ、待って。一度死んだって、本当に?」
……ッ!?
後ろを振り返ると、そこには懐疑の目を向けた冴木 翔架が、どこか不安そうに佇んでいた。
「感染してるから。だから、あの動く……奴らの中から出てきたの?」
「ごめん、また後で」
瑠璃華に一言断って電話を切って向き直ると、照明に照らされた彼女の冷や汗すらも見える。
「……どうなの?」
彼女の疑いの目は一層強く、怯えは少なくなって、一歩踏み出して現れた右腕には────きらりと光るバットが握られていた。
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