十.二  カンカジャン

 二〇一二年  バンコク

 バンコクは一月に入ると空気は一層乾燥し、夜ともなれば気温もぐっと下がってクーラーをかける必要が全く無くなる。これからほぼ二ヵ月は、昼間はかなり暑くはなるものの、気持ちの良い日が続く。雨は全くと言って良いほど降らない。


 久しぶりのバンコクは暑かったが、さなえには、この暑さがむしろ気持ちよかった。両親は、涼しい時期とは言え昼間の暑さが自分の体に障るのではないかと心配しているようだが、自分はこの暑さが「体調と気分」に悪くなる方に影響しているとは思っていない。むしろ、気持ちが前向きになって来ているような気がしている。だが、バンコクに着いて暫くは相変わらず外に出る気がしなかった。

 ある日、バルコニーの紫や白やピンクのブーゲンビリアの花がいつのまにか鮮やかなのに気が付き、窓を開けたまま冷房を点けずに、ラウンジのソファーに腰掛けてぼんやりと見ていると、窓から入って来る、やや湿り気をおびた空気が鼻腔をくすぐった。

 そのとたん、何故か分からないが、あの何とも言えない独特な匂いに包まれてむんむんと暑く、活気を帯びたヤワラートの中華街の光景が唐突に頭に浮かんだ。

 同時にさなえは空腹を覚えた。

 この温暖な環境のなかで、さなえは気力が充実して来ているのを感じていた。

 その日の夕食時、親子三人そろって食事をしていると、トッケー(大ヤモリ)がトトトトト、トッケー、トッケーと何回か鳴いた。名前そのままに「トッケー」と素っ頓狂な鳴き声だ。

「あっ、トッケーだ。珍しい」

 さなえは久しぶりに聞いた鳴き声が可愛いと思って言った。

「あら、この所、うちの近くの何処かに棲み付いているらしくて、見た事は無いけど時々鳴いているわよ」と、母親が父親と顔を見合わせて微笑みながら優しく言った。

「ふーん。気が付かなかった。今は5回だったね。7回鳴くとチョクディー(ラッキー)って言うわよね。大きいのは三十センチ以上もあるみたいね。でも、チンチョㇰ(やもり)とおなじに「ヤモリ」って日本語に訳しているらしいけど、トッケーは大ヤモリとでも言うのかしらね」

 そう言ってからさなえは《あれっ、私って普通に話している》と思って両親のを交互に見ると、二人ともとても嬉しそうに自分を見ている。

 それを切っ掛けにさなえの調子は何故だか急速に改善し始めたのだ。

 何処からとなく、チッチッチッチッ、ケッケッケッケッ、チョッチョッチョッチョッとチンチョㇰの鳴き声がしきりにしている。

「チンチョㇰは大きくてもせいぜい十センチぐらいで、見た目も可愛いけどトッケーはちょっとグロテスクで大きいし家の中には入って来て欲しくはないわよね」

 いかにも気持ち悪いと言わんばかりの顔で続けて言った。気持ちがとても明るくなって来ている。

「気持ち悪いと言えばさー」

 普段なら食事が終わるとあまり話したくも無いので、さなえは直ぐに自分の部屋に引っ込むのだが、今夜は自分が楽しそうに話をしているのを見てか、父親が昔話を始めた。よほど嬉しかったのであろう。

「さなえの生まれる前の話しだけど、初めての駐在の時の社内旅行で、カンカジャン国立公園にあるカンカジャン・ダムの近くにバスで行ったんだよ。バンコクから西に行くと、丁度マレー半島に差し掛かった辺りにあるペチャブリー県にあるんだけど、野趣豊かと言えば聞こえは良いがね、なかなかの経験をさせて貰ったよ」

「あー、膝から下をそれこそ百ヵ所ぐらいなんかの虫に食われて、一ヶ月ほどかゆいかゆいってあなた騒いでいたわよね」

 母親が、思い出した様に言った。

「そうその時の話だよ。まず、宿についてシャワーは無いので、水屋で水浴びをしてくれと言うので、四、五人で掘っ立て小屋の中のコンクリートの水槽から手桶で水を汲んで汗を流していたんだ。外はまだ明るくて、中は裸電球は有ったけど暗くて、目が慣れていなかったのであまり中の様子が見えなくてね。

 隣で頭から水を浴びていた人が、「あれなんだこれ」と言って水を汲んだ桶を入口の明るい所に持って行ったと思ったら、「ギャー!ボウフラ」と叫んだんだよ。

 慌てて、その人所に行って彼の頭を見たら、「ボウフラ」が髪の毛のあちこちに何十匹もひっつていて、それがもピョコピョコと動いていたんだ。

 だんだん目が慣れて、水槽の中を見るとボウフラがいっぱいでね、でも水はそれしかないので、水の表面をパシャパシャッと叩いて、ボウフラが下に沈んでいる間に水をすくい上げて水浴びをしたよ」

「恐ろしいわねー。私にはそういう所、到底無理だわ」と母親が呟いた。

「私も嫌だわ、鳥肌が立ったわ」

 さなえは身震いをした。

 さなえがまだ聞きたそうな顔をしていたのを見て、父親が続けた。

「まあ、そんなのは序の口でね。夕食は、屋根はついているけどオープンエアーでね。

 まるっきり外で食べているようなものだけど、電燈が真上にあるので、食べているそばから蚊や蚋(ぶよ)みたいな虫が、ご飯や炒め物やトムヤムクンスープの上にパラパラと落ちて来るんだ。

 でもまだそんなのは良い方で、黒くてちょうどゴマぐらいの大きさの甲虫がご飯の上に落ちると、お米とお米の間にものすごい勢いでチョコチョコッと入って行っちゃうんだ。 

 炒めのもはあまり目立たないし、スープとかは浮いているのをスプーンですくって捨てればいいし、ご飯にのっかているだけであれば箸でちょこっととれば良いけど、潜って行っちゃうのはお米を掻き分けて探さなくてはいけないんだ。でも、探している間にもどんどんと潜って行くんだ。その内、真っ白なご飯がごま塩をかけたようになってね。

 皆、酔っぱらっているから『わー潜って行くー』とか言って、ゲラゲラ笑いながら食べていたけど、後で考えると何度もやりたいとは思わないね」

 母親は、恐ろしげな顔で首を振りながらも、口元をほころばせながら聞いている。

 さなえは、つい昨日までなら、こんな話は興味もないし、全くつまらないと思っていただろうと思ったが、今はとても楽しく話が聞けるのに気が付いていた。

 遠くで雷が鳴っていたかと思っていたら、それがだんだん近づき、気が付いたら激しい雨になっていた。この所決まって今頃の時間に激しく降るようだ。

 父親は、タバコに火を点けてから、思い返すようにまた続けた。

「それぞれが、2人とか4人が入れるバンガローに分散して寝るんだけど、言ってみればそのバンガローって殆ど掘っ建て小屋みたいなもので、天然のエアコンよろしくあちこち隙間だらけなんだ。

 それで、バンガローの入り口のドアの上に電灯が点いているんだけど、そこが明るいもんだから、蚊とか蛾とかの虫が「蚊柱」のようにのもすごく大量に群がっていてね。恐ろしいけど手で除けながら扉を手前に引っ張って開けると、その蚊柱というか虫の群れ全部がスッと部屋の中に吸い込まれて入って行っちゃうんだよ」

 さなえはそれを想像して身震いした。母親は、何度か聞いた話なので多少余裕はあるが恐ろしげな顔で聞いている。

「で、こりゃーちょっと相当飲まないと眠れねーなーって思ってね。あんなにいっぱいの虫の中ではね。夕食の流れでそのまま二次会になったんだけど、結構感覚がマヒしてやっと寝る決心がついてから寝たよ。殆ど気絶状態でね。

 失敗したのは、その夜は半ズボンだったんだ。だから膝から下全体を虫にやられてね、蕁麻疹みたいにポツポツと腫れ上がってしまったんだよ。靴下でも履いていればよかったんだけど、はだしでサンダルだったんで足の裏以外は全部虫刺されでそれは往生したよ。

 でも、僕はまだいい方でね。我々は二人用のバンガローで、隣のベッドの竹下さんは、背中全体を南京虫にやられて、結構長い間医者に通っていたよ。

 我々とは別のタイ人スタッフのバンガローでは、三十センチほどのトカゲが枕もとをのそのそと這っていたり、朝起きたら勝田さんのパジャマの上に小さかったけど七、八センチほどのサソリがいたりと話題に事欠かない社内旅行だったね。さすがに、現地スタッフの皆もあれはいくらタイ人でも厳しかったし、二度と行きたくないといっていたよ」


 次の朝、さなえは昨夜の事を思い出して、一人で笑っていた。父親の話は恐ろしい話だが、面白かった。父親はよほど気分が良かったらしく、いつもより饒舌であった。母親は、自分が父親の昔話を楽しそうに笑いながら聞いているのを見て、安堵した顔をしていた。

 これまで、さなえは自分で考えても良い子で、ほとんど親には心配をかけないで来たと言う自負があった。勿論、親は親なりに心配はしていただろうとは思っている。

《でも、今回ばかりは親たちに心配をかけてしまった》

 まるで、それまで濃く垂れこめていた朝霧が太陽の光を浴びて一気に消えて、目の前の眺望が急に開けたかのように、さなえは正気に戻った気がした。

 同時に、プラパンにチャペルの前で授業のノートのコピーを渡した後の記憶が、急に早回しのビデオみたいに戻って来た。ひとたび記憶が回復し始めると、さなえ自身も驚くほど鮮明にプラパンとタニンとドゥアンチャイ四人でのロイカトーンの時とその後の事がよみがえってきた。

 さなえに戦慄が走った。

 授業のコピーを渡した後、彼が「ありがとう、助かるよ、それじゃあ」と言っていかにも素気なく行こうとするので、「今度いつ会えるの」と聞いたら、何と「そうだね、時間が出来たらね、それじゃあ」と言って、行ってしまったのだ。

 そう、彼の後姿を目で追っていたら、激しい稲妻とともに舞台がまるで急に暗転したように、そこからの記憶がとぎれてしまったのだ。

 今までは、その時の事を思い出そうとすると頭がショートした様になってしまったが、今は違った。はっきり思い出したのだ。かわりにそれはそれは激しい悲しみが襲ってきた。

 要するに「もう君には会いたくないよ」と言われたも同然だ。目の前で扉をぴしゃっと閉められてしまったのだ。思い出したら、涙がボロボロと出て止まらず、嗚咽をくりかえした。

 一時間ほどするとだいぶ落ち着いて来た。

《あー、何てことをしてしまったんだろう。プラパンを怒らせてしまった。今考えれば彼にひどい事をしたと思う。でも、あの時の自分の気持ちとしてはタニンなど全く目ではなくて、単に友達と言うだけなので「何てことない」と思っていたんだわ。

 私のプラパンに対する気持ちは揺ぎ無いもので、プラパンは当然それを分かってくれると思っていたのだ。

 ちょっとやばいなとは思っていたけど……。

 しかし、プラパンには、この胸を引き裂いて見せない限りは分かるはずも無かったんだわ。確かに、逆の立場で考えたら、自分は嫉妬に狂ったであろう。ましてやロイカトーンにプラパンが大富豪の娘を連れて来て、その娘は単なる友達だからと言って三人で花燈籠を流そうと言われたら……》

 さなえはプラパンの事を思うと胸がしくしくと痛んだ。

 彼を傷つけてしまった。

 彼に会って自分の気持ちを伝えたい。きっと怒ってしまって、私から気持ちがもう離れてしまったのだろう。だが、このままでは自分の気持ちは納まらない。そうだ、もう少し回復したら東京に帰って彼と話そう。

 もう少し回復したら……。

 そう思ったら、さなえは、何時か親たちに連れて行ってもらった中華街のお粥屋に行きたくなった。

 食欲が戻った娘を見た両親は殊のほか喜んだ。

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