十.三 サラシン
二〇一二年年二月
左右田さなえは、南国特有のゆったりと流れる時間、体を包む柔らかで温暖な空気、両親の溢れんばかりの愛情、情愛に満ちたタイの人々の優しさなどに抱かれながら、すっかり回復して来た自分を感じていた。そろそろ日本に帰って授業に出ようかと考えていた。
母親はさなえがすっかり元気になった様子を見て、一週間ほどの予定で日本に一昨日帰って行ったので、その日は一人で日系のデパートで買い物をしようと、スカイトレインのナショナル・スタジアム駅からマーブンクロンのショッピングセンターに向って歩道橋を歩いていた。行き交う人たちでひどく込み合っている。
その時、プラパンが前方から歩いて来るではないか。隣にドゥアンチャイが仲良さそうにプラパンの腕を掴んでいる。
さなえは、顔がこわばっていくのを感じた。
彼はバンコクに来ていたのだ。それにドゥアンチャイもだ。やっぱり、ドゥアンチャイだ。始めっから二人は付き合っていたのかも知れない。二人ともさなえに気が付いたようだ。
ドゥアンチャイはあわててプラパンの腕から手を離した。
さなえは自分でもひどい表情をしているだろうと思った。
プラパンも表情が硬い。彼はさなえのこをとじっと見つめながら近づいてきた。
「ハーイ、さなえ」
プラパンがやや表情を和らげ挨拶をした。
さなえは声が出せず頷いたが、涙が溢れて来て彼の顔が歪んで見えた。彼はそっとさなえの腕をとって歩道橋の端へ誘った。三人が一瞬、人の流れを止めてしまっていたからだ。
彼に腕をとられた瞬間、電流が腕から体中に走ったように感じ、さなえはよろけた。プラパンは何も言わず心配顔で支えてくれた。ドゥアンチャイは何と言って良いのか分からないというような表情をしている。
さなえが涙を拭いて、少し落ち着いて来た様子を見て、彼が「ゴメンね」と言った。
さなえは強く首を振った。「自分こそごめんなさい」と言いたかったが、声が出ない。
彼は相変わらず悲しそうな顔でさなえを見ている。声は出ないが涙は少し止まった。
何か言わなければとさなえは思うものの、あまりにも急で残酷な再会であったので頭の中が真っ白になって何を言っていいのか分からない。
彼が自分の事をどう思っているのかと思って、彼を見ても悲しそうな表情をしているだけで分からない。
悲しそうに見える彼の顔はさなえに突然会って迷惑に思っているからではないか。
そう思ったらまた涙が出そうになったので、上を向いて堪えていると、「さなえ、バンコクに来ていたんだ。僕は今月の終わり頃日本に戻る予定なんだ。さなえ、全然授業に出て来ていないね。どうしていたのかと思っていたんだ」と、プラパンが優しく言った。
《どうしていたかって思っていたんだったら連絡ぐらいして呉れてもよさそうなものに》
さなえはそう思ったが、いや、プラパンと話すのが怖くて携帯は解約してしまったんだし彼が悪かったんではなくて、自分が悪かったんだと思いながらプラパンの顔を見ていたら、胸が締め付けられて言葉が出ない。
《謝らなくてはいけないのに》
そう、謝らなくてはいけないと思い、さなえが深く息を吸い込もうとした所、「じゃあね、さなえ」と大きくため息をつくようにして言ったかと思うと、プラパンはさなえの挨拶を待たずにドゥアンチャイとスカイトレインの駅の方に行ってしまった。
振り向きざまに手を振ったプラパンの目が赤くなり涙が浮かんだように見えた。
《あー、また行ってしまったわ。でも何とかして謝らなくては。それに、もう遅きに失してしまったけど、私の本当の気持ちをもう一度だけ言っておかないと、一生後悔すると思うわ》
二人の後姿を見ながらさなえは自分に言い聞かせていた。
それにしても、プラパンはドゥアンチャイとやはり恋人同士だったのだろうか。ドゥアンチャイが原因で彼が離れて行ってしまったのだろうか。さっきのあの二人雰囲気はいかにも恋人同士の様に見えた。
ドゥアンチャイがプラパンの事を好きなのは明らかだ。でも彼の方は何とも思っていないと言っていた。ハッとするほどドゥアンチャイはスタイルも良いし、美しい。
さなえは、自らのせいで彼が離れて行ってしまったと言う自責の念が強く、彼に対する気持ちを抑制してきた為か、この所、彼の事は若干あきらめ気味であったのだ。
だが、今仲良さそうな二人に会って、如何に自分がプラパンの事が好きであるのか改めて認識したのだ。
ドゥアンチャイに対する嫉妬心も勿論ある。しかし、やはりあの時タニンに「ノー」とハッキリ言うべきだったんだ。
後悔先に立たずだ。
そう思ったら胸が苦しくなってきた。さなえは結局何も買わずに帰宅した。
この胸が張り裂けてしまいそうな苦しみは、自分が犯した罪に対する罰だと思っている。
それにしても辛い。
彼に会いたい。
今回は記憶を失ったりする事は無かったが、激烈な苦しみから逃れるためにむしろ記憶を失ったままの方が良かったと思いつつ、再び陥りそうな底なしの泥沼の縁にかろうじてかじり付きながら、何とかこの気持ちに区切りをつけなくてはとさなえはもがいていた。
彼とはこのままと言う訳にはいかない。彼の心をもう取り戻せないないかも知れないが、ともかくもう一度会って謝るのは当然だが、あの時どういう気持ちだったのか、そして今どういう気持ちなのかをぜひ伝えなくては……。
ともかく何らかの「区切り」をつけて前に進まないと。このままだと再び暗闇に紛れ込みそうな気がした。
さなえは、その夕刻に心を振り絞ってプラパンにメールをした。彼のメールアドレスは覚えていた。
プラパン様
今日はプラパンに会うことが出来てとても嬉しかったです。いまさら私にはこんなことを言う資格はありませんが、あなたの事をとても愛しています。何らかの理由で私に会いたくなくなってしまったようですが、もしかしてロイカトーンにタニンを呼んでしまったからかなと思っています。もしタニンを呼んだことが原因なら本当にごめんなさい。でも、一言だけ言い訳をさせてください。何を今更と思うでしょうけど……。
今考えれば、あの時タニンに当然断るべきだったと思っています。
私自身は、タニンの事は単なる友達、或いは単なる親戚の子みたいに思っています。ですから、私は、私があなたの事がこんなに大好きなのだから、あなたは当然の事ながら分かっていてくれるはずだし、タニンの事なんか気にしないだろうと勝手に思っていたんです。でも、そこが私の甘い所なんだろうと思います。
きっと、プラパンからしてみれば両天秤にかけられたと思ったのでしょうね。本当に御免なさい。私のあまりの無神経さに、今考えてみると自分でもほとほと呆れています。
私は、あのロイカトーンの後、東京に戻ってからチャペルの前であなたと会ってノートのコピーを渡したところまでは覚えていたのですが、そこから家に帰るまでの間の記憶が無くなってしまって、その時以来なぜか体調を崩してしまっていました。その時の記憶を失ってしまったせいで、なんでそんな状態になってしまったのか分からなかったのです。
あの四人での、今にしてみれば「忌まわしい」ロイカトーンの宵の事は無かった事にしたいと何度も思ったのに、その時の事は残酷にもいやにはっきりと覚えていたのです。
でも、ふた月ほど前にチャペルでの記憶が戻って、理由が分かりました。遠回しの言い方でしたが、「会いたくない」とあなたに言われてしまったからだと思います。だからと言って、あなたを責めているのでは全くありません。それだけは分かってください。
実はあの後、自分でも何故だか分らなかったのですが、プラパンの事がとても怖くなってしまって、携帯電話を解約してしまいました。きっと自分を責める気持ちがそうさせたのではと思っています。
今考えると、あなたが怖いと言うのは変ですよね。でも「時間が出来たらね」と間接的に会いたくないとあの時言われて、次にはもっと直接的に、「別れたい」と最終宣告されるのが怖かったのではないかと思っています。
それにドゥアンチャイの事もあります。あなたが彼女に心を奪われてしまったのではないかと思ってしまって……。きっとそうした事に対する拒絶反応で記憶を失ったり携帯を解約したりしてしまったのかなと思っています。
でも、それはプラパンが悪いのではなく、すべて私が悪いせいです。
長々と書いてしまいましたが、もし、他の理由で私と会いたくなくなってしまったのであれば、それはそれで怖いですが知っておきたいです。
先程は、お会いできるとは全く思っておらず、お会いしたショックと、ただ悲しくて言葉が出なくて……。それとドゥアンチャイと一緒だったのでとても動揺してしまって、何もお話が出来ず残念です。
プラパン、最後に一度だけで良いですので、お会いして是非お話ししたいと思っています。今更プラパンの心を取り戻せるとは思っていませんので、プラパンは何も言わなくて構です、ただ私の気持ちを聞いていただくだけで良いです。
でも、もし会う事がかなわなければ、ひとことだけ最後に言わせて下さい。今更聞きたくもないし、煩わしいと思うでしようけど。
これまで貴方は私にとって世の中で一番大切な人でした。これからもきっとそうだと思います。
でも、もしそう思われるのが迷惑だと思うのであれば、このメールに返信しないで下さい。そしたら今後一切あなたに迷惑を掛けないようにします。
でも、出来れば連絡をお待ちしています(なお、携帯はバンコクに来る前に新しく契約しましたので、この新しいメール・アドレスに返信お願します。
さなえ
メールを出し終えると、昼間外出したこともあってドッと疲れが襲ってきた。しかし、彼から返事が来るかも知れないので、眠ってしまうわけにはいかなかった。うとうとしてはハッと目を覚まし携帯をチェックする事を何度も繰り返しているうちに朝になってしまった。相変わらず返事は来ていない。
以前であればこちらからメールをすれば、授業中でもない限り、一時間もすれば必ず返事が有った。なかなか返事が来ないと言うのは、どう返事を書こうか迷っているからだろうか。
迷っているのは悪い兆候に違いない。会うつもりならすぐに返事が出来るはずだ。会いたくないと言うのを言い辛いからではないか。
さなえは、遅くとも午前中には来るであろうと思っていたが、来なかった。そこで今度は、夕方までには来るだろうと考えた。この時点では、まさか返事が来ないと言う事は考えていなかった。返事ぐらいよこすだろうと。
所が、夕方近くになって、この時間まで返事がないと言うのは返事もしたくないからなのかと思い始めた。
メールを送ってからそれこそ一秒たりとも気を緩めず、携帯を握りしめるようにして待っていた。だが返事が来ない。「迷惑だと思うなら返信しないで」なんて書かなければと後悔した。
《彼の気持ちを取り返すことが出来るとは思っていないのに、返事ぐらいくれたって……。いや、出来る事ならやっぱり取り戻したい》
しかし、丸一日経ってもメールが返ってこない。もしプラパンがメールアドレスを変えてしまっているのなら、あて先不明で戻ってきてしまう筈だ。電話を掛けようかと一瞬思ったが、怖くてできない。
《返事が無いと言う事は、私が迷惑な存在なんだ》
何度も何度もさなえの頭の中でこだましていた。
昨日の夕方メールしたのにもう夜の九時だ。返事を書くのにそんなに時間がかかるはずはない。やはり返事を書きたくないんだ。
《私が迷惑な存在なんだ。返事もしたくないんだ》
さなえは悪い方に悪い方に考える様になっていた。
勝手にそう思い込んでしまったとたん、さなえは自分が自分で無いような気がしてきた。自分を第三者的に見ている「別の自分」がいるのに気が付いた。
すると、「別の自分」が、自分に向って「彼はもうあなたの事なんて興味もないし、会いたくもないと思っているのよ。当然、返事なんか書く気はさらさら無いのよ。だってそうでしょう?例えば、あなたがとても楽しみにしていた二人だけのクリスマスのディナーに、彼にドゥアンチャイを連れて来たいなんて言われたらどう?
あなたは大バカ者よ。どうしようもないわね。救い難い人ね。返事が無いと言う事は、あなたの存在自体が迷惑なのよ」と、何度も何度も攻め立て始めたのだ。
思わず耳をふさいだりしたが効果はなかった。
父親はまだ帰っていない。日本からの客の接待で少し遅くなると言っていた。お手伝いのオーイさんは夕食の後片付けをしてだいぶ前に帰って行った。
だだっ広いラウンジのソファーで独りぼっちで「別の自分」に攻め立てられていたさなえは、いたたまれずに、鍵、携帯、財布、パスポートなどを入れるポーチを掴んでコンドミニアムを出た。
一人で悶々としていたくなかった。
さなえはコンドミニアムのあるランスワン通りからプルンチット通りに出てしばらくしてから右折してウイッタユー通り(英語名ワイヤレス通り)に入った。緑が多く、お洒落なこの通りをさなえは気に入っていた。
雨はすっかり上がっているが、時折先程降ったスコールの名残の雨滴が木の葉から落ちて来て額や頬に当たっているが、さなえは全く気付かなかった。
右手に、何かのパーティーに招かれた父親に連れられて来たことがあるアメリカ大使公邸の広い庭が見えてきた。庭の奥の公邸の建物からローソクの炎のようにチラチラと光が漏れているのが見える。何て綺麗なんだろうと思いつつ、歩きながら暫く見つめていたが、車道の方に向かい、電柱にぶつかる様にして止まった。
体が揺れている。
夜も九時を大きく回ろうとしているせいか、昼間の渋滞とは打って変わって車はまばらになっている。涙で滲んで良く見えないが、ルンピニ公園の方から何台かのタクシーが向かって来ている。
さなえは、「私って迷惑な存在なんだ」と呟きながら、また歩道に戻った。
暫く歩いて白い塀のアメリカ大使館を通り過ぎて少しすると、右手前方にルンピニ公園が現れ、右折して歩道橋を越えてからサラシン通りのルンピニ公園側の歩道を歩き始めた。
食べ物屋の屋台が何軒か続いたり途切れたりしている。
とある屋台に近付いたとたんに、唐辛子やニンニクを油で炒めた強烈な刺激を伴う匂いに襲われてひどくむせてしまった。目を腫らして嗚咽した様子はこの炒め物のせいだと周りに思われているのかも知れないとさなえは思った。
無意識にさなえは、プラパンとの思い出の場所に向かっていた。
屋台が途切れたところで、さなえは立ち止まって公園の中の方を見た。視線の先に池が広がっていて、池の畔に日本人の間で「タイ桜」とも呼ばれているピンク色のチョンプー・パンティップの花が見事に咲き誇っている。外灯に浮き上がったチョンプー・パンティップは遠目にはまるで満開の夜桜のように見え、ときおりハラリハラリと花冠が落ちている。落ちた花冠が降り積もって地面にまるでピンクの絨毯を敷き詰めたかのようだ。その樹の太い幹にデンファレ(デンドロビウム・ファレノプシス)が絡み付き紫色の花で幹を覆い尽くしている。
「なんて綺麗なんだろう」
つい声が出てしまった。
昨年の大洪水の時期に来た時に、プラパンが、さなえの好きなデンファレの花とチョンプー・パンティップの花が一度に見える所があると言って一度連れて来てくれた所だ。その時にはチョンプー・パンティップが咲くにはまだ早かった。
その時、そこで彼とキスをした。後にも先にもその時一回だけであった。
ロイカトーンにタニンを誘う話をまだしていない時だ。
さなえはそこで過ごした二人の幸せなひと時を思い出して、顔が緩んだ。幸せな思い出に包まれたまま、無意識に車道の方に進んだ。
一、二歩車道に出たところで、歩いてきた方向からショッキング・ピンク色のタクシーがかなりのスピードで向かってくるのが目の端に映ったとたん、「キィィィー」という急ブレーキと切迫したクラクションの音が襲ってきた。
さなえはとっさに、踵を返すか、動かずにこのままひかれてしまおうか迷った。死にたいと思っていたからだ。しかし、迷っている時間的猶予は全くなかった。
凍り付いたように固まってしまったさなえにタクシーが大音響と共にぶつかってきた。
ぶつかった瞬間、すべてが無音になり、それまで目に溜まっていた涙が飛び散った。
霧のようになった涙が外灯に照らされ、辺りが一瞬あざやかな薄紫色に染まった。
ほんの一瞬の事だが、さなえの目には、あの恨みのロイカトーンの花灯篭に飾った「紫色の蘭の花」が、目の前で刹那に咲いたかのように思えたのだ。
四、五メートルほども飛ばされるような大きな衝撃を受けた割にはさなえの美しい顔にはかすり傷ひとつ無かった。首から提げたプラクルアン(仏像のお守り)がさなえの顔のあたりに砕け散っていて、あたかもそれがさなえの「顔」の身代わりになってくれたかのようであった。
信心深そうな見物人の1人が、これは「この女を愛する者たちへの仏様のせめてものご慈悲ではないか」と言った。
近くの屋台にいた誰かが直ぐに連絡したのであろう、救急車がたちどころに現れてさなえを連れて行った。
近くに落ちている携帯電話がチリチリチリン、チリチリチリンと淋しそうに何度か鳴って止まった。それに気付いた年配の警官はさなえの物と思われるその携帯を証拠品を入れるプラスチックの袋に入れた。
タクシーの運転手は、いかにも自殺するかのように突然歩道から現れてきたと証言したが、屋台の客たちは、女が道路の反対側に渡ろうとしたが、ボーっとしていて事故にあってしまったのでは、と証言が食い違った。少し先に行くと八十年代からポツポツと現れ始めた若者向けの小さなライブハウスが何軒かあるので、そこに行こうとしていたのではないかと思ったらしい。
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