第十章 フアンファ(ブーゲンビリア) 二〇一一年~二〇一二年

十.一  神宮外苑いちょう並木

 二〇一一年十二月 東京

 教授が黒板に書いている文字を左右田さなえは機械的に書き写している。バンコクから帰ったさなえは、大学の地域経済論の授業に出ていたが、教授が話している内容は全く頭に入っていない。

 プラパンはまだバンコクから戻ってきていないので、彼の為にも講義のノートを取っておく必要がある。

 あのロイカトーンの宵のバーンパコンからの帰り道、プラパンは無理して元気を出していた様子だった。さなえの花灯篭が、始めのうちはプラパンとタニンの花灯篭の間を行ったり来たりするように流れていたが、途中でタニンの花灯篭の近くを暫く流れていた。

 さなえはやきもきしながら、プラパンの顔を見ると、彼はがっかりした顔をしたかと思うと、直ぐに「あー、やっぱりね」と言うようなあきらめ顔になった。さなえはたまらずプラパンの手を取って強く握ったが、プラパンは全く上の空だ。

 そうしている内に、今度はさなえの花灯篭がタニンから離れ、プラパンの花灯篭と並んだ。しかしさなえはタニンの手前大喜びするわけにもいかず、微笑みながらプラパンを見ると彼もにんまり顔となった。

 所が、タニンとドゥアンチャイの花灯篭が二人の花灯篭に近付いて離れず、ろうそくの火が殆ど見えなくなるまで四つの花灯篭がくっつくようにして流れていったのだ。

 さなえがタニンとドゥアンチャイを見ると二人は複雑そうな顔で微笑んだ。今度はプラパンを見たが、彼は遠い目をして何とはなしに浮かない顔をしていた。

  さなえは、タニンにも良い顔をしてしまった自分を憎んだ。プラパンとはバンコクではそれっきりで、さなえが東京に先に帰って来ていた。

 プラパンは四、五日したら帰ると言っていた。後味が悪く不安ではあったが、東京に帰ればタニンもいないし、プラパンと二人で仲良くやれると思っていたのだ。

 だが、ロイカトーンの後に家まで送って貰って以来、プラパンからは一度も連絡が無かった。自分から連絡をすれば良いのだが、何となく気後れしてしまって連絡が出来なかった。

 連絡するとすれば、タニンとの事を言い訳しなくてはいけないが、それをいきなりメールですると言うのも変だし、やはり会った時に話すべきだなどと逡巡する内に時が経ってしまった。

 もうプラパンはこちらに帰って来てもいいはずだと思っていたら、プラパンが大学のチャペルのところで、何とドゥアンチャイと親しそうに話してはいるではないか。さなえは心臓が止まるのではないかと思う程驚いた。

《まさか帰って来ているとは、帰って来ているなら帰ってきたと言うぐらい連絡をくれたって良さそうなのに。それに学校も違うのにドゥアンチャイと一緒にいるなんて。いくら遠い親戚といったって……。やっぱりドゥアンチャイはプラパンの事が好きなのだ》

 そう思いながら、さなえは声をかけるのを躊躇した。彼らはこちらに気付いていない。

《どうして連絡してくれなかったんだろう。やはり、タニンとの事を怒っているのだろうか。それとも美しいドゥアンチャイに乗り換えてしまったのか》と、考えつつ、さなえは二人の方へは行かずに、自分でも何か何だか分からない内に、彼らを避けるうようにして足早に校門を出た。

 プラパンの言うようにドゥアンチャイと付き合っているとは思ってはいない。何故彼を避けてしまったのだろう。これまでなら彼は帰ったら必ず連絡してきたはずだ。さなえは自問した。

 さなえの足が自然とプラパンといつか行った神宮外苑のいちょう並木の通り沿いにあるカフェに向かっていた。今年のいちょうの黄葉は例年より遅かったが既に散り始めている。だがさなえにはそんなことはどうでも良かった。

 まるで夢遊病のように屋外のテラス席に座った。この所快晴が続き今日は特に暖かいとは言え、テラス席は日陰になっていてさすがに寒いが、さなえは全く気が付いていない。学生アルバイトの様なウエイターが飛んできて寒いので室内の席に移ったらどうかと勧めてくれたが、断ってコーヒーを頼んだ。

《どういう事だろう》

 何度も何度もさなえは反芻していた。

《電話をしてみようか。いや、しつこくしたら嫌われるかも……。やはりタニンが原因だ、何としてでも誤解を解かなくては》

 だが、タニンとは、父親が亡くなってしまって可哀そうという同情心から始まったとは言っても、付き合っていたのは事実だ。だから、いずれプラパンには彼との事は話しておくべきただと思っていたので、ある意味良い機会ではあったのだ。

 だが、タイミングとしては最悪であった。

 よりにもよってロイカトーンにタニンも一緒に行かせてしまったのだ。逆だったらどうだろう。タニンがではなくプラパンがドゥアンチャイを単なる友達だと言ってロイカトーンに連れて来たら。きっと自分はひどい嫉妬の鬼と化していたであろう。

《やっぱりあの時タニンに断るべきだったんだわ。自業自得だわ》

 さなえは呟いた。

 その晩さなえは意を決してプラパンに明日の昼休みに会いたいと電話をした。彼が出席していなかった授業のノートのコピーを渡すからという事を口実にした。自分も欠席した分は友人のノートをコピーしておいてある。これまでであれば、昼休みに会おうと言えば、では一緒にお昼でも食べようと彼は言うのだが、今回は違った。

「ありがとう、じゃあ午前の授業が終わったらチャペルの前で」と、素気ない。

 さなえはともすると挫けそうになるのを必死にこらえ、だからタニンは単なる友達だと話をしたのにと言おうとしたものの何となく弱みに感じて強く出られない。帰って来ていたのに連絡もくれないなんて冷たいじゃないと言おうとしたが、それも言い出せなかった。

 次の日の昼にさなえはロイカトーンの時の事を謝って、タニンの事は何とも思っていないと言う事を良く説明しなくてはと思いながらチャペルの前で待っていると、コートの襟をたてて寒そうにしてプラパンがやってきた。

 心もち表情が硬い気がする。近づいてくると、いつもの親しみあるれる笑顔で、「さなえ、わざわざありがとう。数日前に帰って来ていたんだけど、結局、二週間ほど学校を休んでしまったんで、色々その間の生活のキャッチ・アップが大変でね。ノートのコピー助かるよ。それじゃあ」

 プラパンはそれだけ言うと立ち去ろうとした。

「ちょ、ちょっと待ってプラパン」

 さなえは慌てて呼び止めた。今にも泣きそうだ。ここで彼に涙を見せたくない。泣き落としにかかっていると見られたくなかったし、なぜか涙を見せたら終わりになってしまうような気がした。

 連絡もくれないでと彼を責めようにも、生活のキャッチ・アップが大変でと先に言われてしまって責める口実を失ってしまったし、タニンの事をごめんなさいと謝るのも今更だ。

 それで、結局「今度いつ会えるの?」と聞くと、「そうだねー、時間があったらね。それじゃあ」と、いって悲しそうな顔をして行ってしまった。

 さなえは目まいでその場に倒れてしまいそうになって、植込みの縁石に崩れる様にして腰掛けた。プラパンの後姿が段々と遠ざかって行く。

 声を出して呼び止めたいと思っても、声が出ない。縁石に左手をついて体を支えながら、右手をプラパンを呼び止める様に前に差出し、何か言いたげに口を開けたまま暫く彼の後姿をぼーっと見ていた。

 彼が校舎の中に消えてしまうと、とめどもなく涙が溢れた。すさまじい脱力感が全身を襲って、頭の中が真っ白になった。どのぐらいそこに座っていただろう。体が動かない。既に午後の授業が始まっている。

 真面目な女子大生の例に漏れず、さなえは普段授業をさぼる事は全くない。プラパンを追ってバンコクに行くために授業を休んだのは、彼女にとってはよっぽどの事であったのだ。

 いつもなら授業の事が気になって仕方がないのに、何だか授業に出るのが急に馬鹿らしく思えてきた。そう思ったら何となく気が楽になった。真面目に授業なんかに出たって何になるんだろう。

《自分が招いたことだ。自分が招いたことだ……》

 自分を責める言葉が頭の中でエコーのように何度も、何度も響いた。彼の別れ際のあの堪らなく悲しそうな顔が脳裏に焼き付いて消えない。

《彼を悲しませてしまった。きっと許してくれないだろう》

 さなえは、いばらの荒野をさ迷い始めた。

《何てことをしたんだろう》

 その時、頭の中で「プツン」と大きい音がして何かが切れた気がした。

 それ以来、さなえはプラパンとチャペルで会ってノートのコピーを渡した後の記憶がぽっかりと穴の開いたように無くなってしまった。


 遠くでドアをノックする音が聞こえ、それが段々と大きくなって、「さなえ、さなえ、大丈夫?入るわよ」と言う声が聞こえたと思ったら、母親が部屋に入って来た。

 さなえは始め自分が何処にいるのか気が付かなかった。母親が部屋に入って来てから周りを見回すと何と自分の部屋にいたのである。

「あれ、つい今まで学校のチャペルの前にいたのに、変だわね。どうしたの?ママ」

 さなえは状況がまったく掴めなかった。瞬間移動でもしたのかと思っていた。

 母親が心配そうな顔で自分を見ている。

「さっき下で、お帰りってあなたに声をかけたんだけど、私に気付かない様子で、ぼーっとした感じで二階に上がって行ったもんだから。それに顔色も良くないし、授業があるはずなのに……」

 母親が自分をしげしげと見つめながら言った。

《そうだ、だんだん思い出してきた。プラパンに授業のノートのコピーをあげたんだ。で、その後どうしたんだろう。それを思い出そうとしたら、気分が悪くなり吐いてしまいそうになった。

「ごめんママ、気持ちが悪いの、ちょっと横になるね」

 さなえは横になった。

「あら、どうしたのかしら、熱でもあるのかしら」

 母親はさなえの額に手を当てた。

「うん、別に熱がある訳では無いわね。風邪でも引いたのかしら。暖かくして少し寝ていなさい。晩ごはんまであと二時間ぐらいあるから、胃薬とかいる?持ってこようか?」

 母親はそう言いながら、心配顔で部屋を出て行った。夕飯があと二時間後と言う事は、あれから既に四時間も経っていると言う事だ。そうだ、プラパンと会ったのがちょうどお昼休みが始まったばかりだったから。

 それから……。そう考え始めたらまた胃の辺りがムカムカして気分が悪くなった。

「じゃあ、胃薬とお水ここに置いておくから」

 母親が心配そうな顔で、またさなえの額に手を当ててから、何故だろ言うと言う顔をしながら下に降りて行った。

 横になっていると、夕食が出来たと言って母親が呼びに来たが、全く食欲がわかず、横になったままでいた。さなえは、何でこんな状態になってしまったのか分からなかったが、深く考えられないでいた。何かが頭の中でぷっつんと切れてしまった様だ。

 

 次の日の朝、さなえがまだまどろんでいると、母親が起こしに来た。昨夜は殆ど眠れなかった。朝方になってやっと少し眠くなって来たのだ。

「どう、具合は?まだ気持ちが悪いの?パパも心配していたわよ」

 母親が気遣うように聞いてきた。昨晩、バンコクにいる父親と話しをしたようだ。

「ううん、今は気持ちは悪くない。ちょっと疲れただけだから大丈夫よ」

 さなえは心配かけまいと返事をした。

「そう、じゃあ昨日の夜ごはん食べていないから、せめて朝ご飯を少しでも食べてからまた横になったら」と言うので、下に降りてオートミールのお粥に牛乳とハチミツをかけて食べた、。そろそろ自分の部屋に戻ろうとすると、母親が「ねえ、さなえ、こんな時にこんな事を聞いて悪いんだけど、違ったらごめんね……、あなたつわりじゃあないの」と聞くではないか。

 プラパンとの間ををれ程の関係であったと思っていたのか?

「えっ、妊娠って?まさか。え?で、ママは誰の子だと思っているの?」

「プラパンさんではないの?」

「残念ながらプラパンとはそんな関係になんかなっていないのよ。勿論ほかの誰ともね。でもプラパンとそんな関係で、子供が出来たりしたら嬉しいけどね」

 さなえは正直そう思った。彼の子供を身ごもることが出来たならなんて幸せなんだろう。だが、その後また思考が停止して、涙がぼろぼろっとこぼれた。

「そうなの、分かったわ。ごめんね」

「ううん、良いの。そういう風に思ってくれるだけでも嬉しいわ」

「そう、でもプラパンとの間に何かあったの?」

「うん?別に何も。なんで?」

「何か元気ないし、あなたが大体食欲が無いなんて言うのがまず変でしょう?風邪でも引いて熱でもあるんなら分かるけど」

 さなえはその日は朝から一日、自分の部屋で過ごした。

 なぜこうなってしまったのか思い出せない。プラパンの事を思い出そうとすると頭がショートした様になって、何故か悲しくなるのだ。

 学校へは行きたくないし、何もやる気が起こらない。

 次の日も。

 次の日も……。


 月が替わり、師走になってもさなえは相変わらず何をするのも億劫で、意気が上がらず無気力でいた。

 何でこんなになってしまったのか思い出そうと思っても思い出せない。無理に思い出そうとすると、激しい頭痛がしたり、気持ちが悪くなったりするのだ。この所食欲が無く、二週間ほどで五キロも痩せてしまった。

 母親があなた最近痩せたんじゃないの、ちょっと体重計に乗ってごらんなさいと言われ、量ってってみたのだ。幸い母も父もうるさい事を言わずに静かに見守ってくれている。

 ただ、唯一母が口酸っぱく言うのは、「もっと食べないとどんどん痩せてしまうわよ」である。

 うるさく言ってきたら言ってきたで煩わしいのは分かっているが、少し物足りないような気がしている。もう少し何か言って来て欲しい気もしないではない。我が侭であるのは分かっている。

 それにしても何でこんな状態になってしまったのか自分でも分からない。突然無気力になって全てがどうでも良くなってしまったのだ。

 プラパンの事はとても気になっている。ものすごく会いたい。だが、何故か分からないが、彼に連絡するのが怖いし、彼から連絡が来るのも怖かった。

 それで、あの時以来自分の携帯電話を解約してしまったのだ。自分でも携帯を解約までするのは変だと思いつつそうせざるを得なかったのだ。解約できるほどの気力があったのには自分でも驚いた。

 あの日チャペルの前で待っていると、プラパンがいつもの人の気持ちを明るくするような笑顔で近づいて来るまではハッキリと覚えている。だが、その後の事を思い出そうとすると具合が悪くなってしまうのだ。

 そうこうしているうちに、年末年始の休みに父親が一時帰国して来た。両親とも腫れ物に触る様に自分に接しているのが分かる。別に自分は不機嫌にしている訳では無い。ただ、何か考えようとしても頭の中になんだか薄幕が張ったような、ずっと起き抜けの様なぼーっとした状態なのだ。

 親たちは、自分がプラパンと別れてしまって、その痛手に打ちのめされていると思っているのであろう。

 昨年十一月にバンコクから帰って以来お互い連絡を取っていないし会ってもいないからだ。

 父親にはプラパンとタニンとドゥアンチャイと四人でロイカトーンをやると言ったので、きっとそれが原因だと思っているのであろう。

 だが、彼等からプラパンとどうしたのか、と言った類の話は一切してこない。

 彼等としても二人の関係について触れるのが怖くて、その事に触れる事によってさらに自分の具合が悪くなってしまう事を恐れているのであろう。

《あれっ、そうだ私はプラパンと別れたんだ》

 一瞬、さなえは正気に返った気がした。次の瞬間、また全てがぼんやりとした状況に戻ってしまった。

 そう、原因はあのロイカトーンだ。でも、プラパンとはどんな別れ方をしたのか覚えていない。思い出そうとすると具合が悪くなるので、最近は無理して思い出そうとしないようにしているし、無意識のうちにそれを避けているように思える。

 ただ、何となく彼の事が気になっている。

 携帯は解約してしまったけど、家の電話番号は知っているはずなのに連絡が無いと言う事はやはりタニンの事で怒らせてしまったのだ。でも、どうやって別れたのかが思い出せないのだ。

 最近は彼の記憶を心の奥に閉じ込めておくのが習性になっているのに気が付いた。そう、辛い思い出を無意識のうちに封印しているのにさなえは気が付いたのだ。

 一月も終わる頃になって母親が、バンコクのお父さんの所に行ってみないか恐る恐る聞いてきた。「バンコク」と聞いた瞬間に、何だかとても懐かしい響きを感じた。母親が、自分の気が変わらない内にと思ったのか、その日の夕方の内に、三日後のバンコク行きの飛行機を予約していた。

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