九.三  オンヌット

 二〇一一年十一月 東京&バンコク

 晩秋が近づき木の葉が少しづつ色づいてくる頃、左右田さなえはプラパン・ワイタラーポットと授業の後に待ち合わせて、渋谷駅近くの、今どき珍しい昔ながらの名曲喫茶のような喫茶店でお茶をしていた。

 静かにゆったりとしたこの店の雰囲気が、さなえにとっては、しばしプラパンと過ごすには理想的であった。プラパンもバンコクにはあまり無いこの落ち着いた佇まいが気に入っているようだ。

 下を向いて集中しながら本や教科書を読んでいる、大きな目と長いまつ毛のプラパンの横顔がさなえは好きだ。

 さなえが時々その横顔に見とれていると、彼は、「ゴメン」と言って顔をあげ優しく微笑みかけて来る。

 本に集中してしまい、さなえの事をほったらかしにしてしまってと言う意味で謝っているのだ。だが、それはお互い様で、ここに来て一緒にそれぞれの勉強をしたり本を読んだりしているのも、話をしているのと同じように楽しいのだ。

 さなえ自身は、男性との付き合いの経験は殆ど無いと言っても良い。最も多感な高校時代はバンコクのインターナショナル・スクールに通っていた。母親ゆずりの別嬪で色白のさなえに言い寄る学生はいなくは無かったが、勉強について行くのに必死でそれどころではなかった。

 とは言っても、さなえが心惹かれた男子は、一人、二人は居た。だが、単に憧れの的で終わってしまった。

 そんな中で、一人だけさなえが「付き合った」と言って良い男性がいた。ユッタナーの孫のタニン・ラータナワニットである。付き合いと言ってもさなえはまだ高校生で、時々、タニンから誘いが会った時に、映画を見に行ったり買い物に付き合ったりする程度であった。 

 それも、さなえが大学に入る為に日本に帰って来てからは、折々にメールで近況などを連絡し合ったりするだけの関係になっている。

 タニンの実の父親のニポンが誰かに暗殺された事が切っ掛けで、付き合いを始めた事もあって、さなえは「同情心」からタニンと付き合って来たと思っているし、メールのやり取りをしていると自分では思っている。

 ただ、タニンの方はかなり自分に熱を上げている様子で、それはそれで悪い気はしていない。

 最近は、プラパンも日本人の英語に慣れてきたようだが、相変わらず「地域経済論」のノートのコピーを用意してあげている。最近はこうして授業の後や週末にどちらからともなく誘い合わせて会ったり、時々は母親の誘いもあって家に遊びに呼んだりしている。

 バンコク時代の友達の息子と言う事が判って以来、母親は時々、そろそろプラパンさんを家に呼んだら、と言うようになっていたのだ。

 コーヒーを飲むプラパンが、なんとなく元気なさそうに見えたので、「どうしたの元気がないみたいだけど大丈夫なの」と、さなえが聞いた所、「さなえ、来週から一週間か十日ほどバンコクに帰って来るよ」とプラパンがボソッと言った。

「やはり洪水が心配なの?」

 バンコクは何十年ぶりかの大洪水に見舞われている。雨期明け近い十月に台風などによって例年を超える大雨がタイ北部などで降り、それが徐々に南下してチャオプラヤ川下流のデルタ地帯にあるバンコク周辺に押し寄せて来ているのだ。

「うん、つい最近だけどオンヌットの家の近くで、クロン(運河)の一部が壊れてしまって、浸水した所があったらしいんだ。家までは水が来ないと思うんだけど心配なんだ。

 それとおばあちゃん達が、ドンムアン空港の少し北の、ランシットと言う所にいるんだけど、あっちの方はかなり危ないらしくて、今は、おばあちゃんとマニットおじさんは、オンヌットの家の方に避難しているんだって」

「そうなんだ。それは心配ね。それじゃー気を付けて行って来てね。私が行っても何の役にも立たないけど、心配だから私も行きたいな……。かえって足手まといかな?」

 手伝いを何か出来るわけでは全くないのは分かっているが、さなえは居ても立っても居られない気持であったのだ。


「洪水注意報が出ていて、日本の外務省はタイへの渡航の延期をお勧めしますと言っているし、水道の水はカルキ臭くなってきているし、食べ物も少なくなってきているので、今は来るのは止めた方が良いと思う。

 第一、日本人学校の生徒や、駐在員の奥様達は殆ど日本に帰っている状況だ。あとひと月もすれば洪水はすっかり治まると思うので、ちょうど年末年始も近いしその頃に来ればいいと思う」

 さなえは、バンコクに現在単身でいる父親から来たメールを見ながら、どうしようか考えていた。十一月の六日からバンコクに行こうと考え、現地にいる父親にメールをしたところこんな返事が返って来たのである。

 日本の新聞を読んでいると、今にもバンコク全体が水没しかねないかのように、連日大々的に書き立てている。

 だが、バンコクに土地勘のあるさなえは、新聞が大げさに報道しているほどではないと思っているし、ネットで調べたり、バンコクにいる友達とメールでやりとりをしたりしている限りでは、絶対大丈夫と言う事は無いが、行っても大丈夫だと思っている。

 特に日本人駐在員が多い、ビジネス街や居住地区はあまり問題がなさそうである。

 バンコクに行っても行動は制約されるし、それこそ邪魔になる事はあっても、全く役には立たないのは分かっている。だが、プラパンの一大事に、何もしないでじっと日本でただ待っているのは耐えられない。

 こういう時だからこそ行くべきだと思っている。「なんですき好んで、今なのか」と聞かれれば、プラパンが好きで心配だからと正直に言うしかない。幸い母親は、どうやらプラパンが友達の息子と言う事もあって、彼の事を大変気にかけているようだし、母たちの友達の事も心配なはずだ。プラパンの家が心配だからと言えば許してくれるかもしれない。

「ねーママ。私、バンコクに行きたいの」

 さなえは、食堂のテーブルで、タブレットでニュースを読んでいる京子に言った。

「えー?いつからよ」

「来週六日から」

「何言っているのよ。何もこの時期を選んで行かなくったって、どうせ年末年始に行けば良いでしょ。洪水で大変みたいじゃない。逆に皆帰って来ているって言うじゃないの。駄目よ」と母親は、相変わらずタブレットを見ながら返事をした。

「でも私行きたいの、お願い。そうじゃないと私……」

「えーっ、だから暮れからお正月にかけて行けば良いじゃないの」

 母親はタブレットをテーブルに置き、老眼をはずしてさなえを見た。

「うんん、プラパンの家の近くが浸水したりしているんだって。だから心配だから行きたいの」

「だって、あなたが行ったってなんの助けにもならないでしょ?パパが向こうにいるんだから、何かあればパパが出来る事はしてあげるわよ。あなたが行ったらむしろ邪魔になるだけじゃないの。そんな事も分からないの」

 母親が、やや責めるような口調で厳しく言った。

「……」

 母親に厳しく言われたさなえは、何と言って良いか分からず、しばらく黙って下を向いていたが、悲しさとプラパンへの思いがこみ上げてきて、目から大粒の涙がこぼれ、食卓テーブルに乗せている手の甲に幾つか落ちて弾けた。

「だって、プラパンが……」と言ったが、感情が高ぶってしまいそれ以上言葉が出てこずに肩を小刻みに揺らしながら泣き続けた。

 母親が隣の席に移って来て、泣いているさなえの手を優しくとって、さなえをじっと見ながら「さなえ、あなた……。あなた、プラパンさんの事がそんなに?」と呟くように聞いた。

 さなえは何度かうなずいた。そして、母親の優しい言葉にさなえの嗚咽が一層激しくなった。

「でも、行ったらかえって迷惑になってしまうわよ。日本人の駐在員の奥様やお子様たちは殆ど日本に帰って来ているみたいじゃないの。プラパンさんだってそんな大変な時に来られたりしたら嫌がるはずよ」

 さなえは、「私も心配だからバンコクに行きたいな」とプラパンに言った時に、「それは来てくれたら凄く嬉しいけど、さなえのお世話は何も出来ないし、今は、バンコクはあんな状態だから行かない方が良いと思う」と言われた事を、母親が赤ん坊をなだめる様に自分の手をトントンとするのを見ながら、思い出していた。

 実は、さなえには心配事が一つあるのだ。夏休みが終わり授業が始まった頃にプラパンが、立智大のキャンパスでドゥアンチャイと親しげに話しをしていたのだ。 

 ドゥアンチャイはユッタナー・ラータナワニットの養女のナンタワンの娘であり、昨年から早生山大学に通っている。彼女には自分がISB(バンコク・インターナショナル・スクール)に通っていた時に先輩として本当に色々と世話になった。今でも時々彼女を家に呼んだり、プラパンを交えて会ったりはしている。

 プラパンとドゥアンチャイとは言って見れば義理だが遠縁同士なので二人だけで会うのは当たり前と言えば当たり前だ。

 ドゥアンチャイは遠目から見ても整った顔立ちに痩身だが胸とお尻が出ていてとてもスタイルの良い女性である。その後、学内で何度かプラパンと楽しそうに談笑しているのを見かけた。

 四谷にある早生山大に通っているにもかかわらずわざわざ渋谷まで来てプラパンに会いに来ている様子だ。

 明らかにプラパンの事が好きなように見える。

 しかし、異国の地で同国人同士が親しくなるのは当然で、母国語で自然に話が出来ると言うのは何より貴重である事は、さなえ自身嫌と言うほど身に染みて経験している。自分の場合バンコクのインターナショナル・スクールに通っていたが、家に帰れば両親がいて日本語環境であった。

 だが、それでも学校では日本人と話している方が楽だった事もあり、日本人と一緒に居る事が多かったのだ。

 プラパンの場合は学校でも日常生活でもタイ語を使う事は殆どない。いきおいタイ語で話す機会を求めるのは当然である。ドゥアンチャイもそうなのかもしれない。恐らくそう言う事で親しく話しているのだろう。でも、ひょっとしたら学外でも会っているのではないか。ただもしそうなら、わざわざ立智まで来なくても、途中で会えば良さそうなものに。

 さなえの心は、プラパンがドゥアンチャイと二人だけで会っているのを見た時から、針で突っつかれたように時々ちくちくと痛むようになっていたのだ。

 今まで経験したことのない胸の痛みだ。

 始めのうちは何だか自分でも分からなかった。その内、胸を締め付けるような痛みが襲ってきた。その痛みはどこから来るのか……。

 だんだんと痛みの原因がはっきりしてきた。そうだ、プラパンとドゥアンチャイの事を考えると胸が締め付けられるのだ。

《ジェラシー?》

 さなえは、はたと気づいた。

《そうだ、嫉妬だ。自分はドゥアンチャイにに嫉妬しているのだ》

 だが、次の瞬間、さなえは、

《まさか私が嫉妬だなんて。私は人に嫉妬するような人間じゃないわ》

 と、否定した。

 自分はもっと心が広くて、嫉妬なんてしないものだと思っていたのだ。

《でも……、私、やっぱり焼きもちを焼いているんだわ》

 否定しても、事実は変わらなかった。

 プラパンに対する気持ちが、自分でも驚くほどはっきりとしたのと同時に、一層彼への思いが募るようになったのはそれからだ。

《来てくれるのはうれしいけど、今バンコクはあんな状態だから、来ない方が良いってプラパンは言っていた。それって、ひょっとしたらドゥアンチャイもバンコクに帰っていて、向こうで二人は会う算段をしているので、私が邪魔なんじゃないかしら》

 さなえは自分が「宇治の橋姫」の様に、嫉妬に狂って鬼になってしまうのではないかと恐れた。

 実際、心の中は鬼と化し始めていた。

 ただ、自分は鬼の様に嫉妬する資格はあるのだろうかとは思っている。プラパンが自分の事をどの位思っていてくれているのかよく分からないが、彼がタニンの事を知ったらどう思うだろうか。やはり自分の様に嫉妬の鬼とかすのだろうか。

 自分の気持ちの上では、プラパンと比べればタニンはただの友達である。父親を亡くしたことに対する同情心や、両親が親しくしている家族の一員だからだ。

 だが、他人から見れば自分が心底どう思っているかなんて分からないであろう。

 プラパンは裏切られたと思うかも知れない。しかし、タニンが私の事をどう思おうとも、タニンは単なる友達で、それ以上でもなければそれ以下でもない。人に後ろ指差されるような事は無いのだ。

 では、ドゥアンチャイの事はどうだ。それこそ単なる友達か親戚付き合いだけなのかも知れない。私に男の友達がいて、彼に女の友達がいると言うだけだ。おあいこといえばおあいこではないか。

 だた、そう考えても心は全く晴れないのだ。プラパンにどういう関係なのかなどと聞くことはできない。

 兎も角、この気持ちの乱れを治めるには、プラパンを追ってバンコクに行くしかない。

 それに、一週間や十日会わなくても、どうと言うことは別に無いのに、プラパンがバンコクに帰ってしまったら、もう会えなくなってしまうんじゃないかと言うような、我ながら馬鹿げた不安が襲って来たのだ。

 バンコクにどうしても行きたいと話した夜、母親は寝室でバンコクの父親とパソコン電話で何やら長く話をしていた。先程の自分のバンコク行きの話しについてであろうと言う事は想像出来た。実は、昨日、タイ政府とバンコク都庁はバンコク都内全体に及ぶような冠水の危険性は減少したと発表していた。


 翌週、バンコクの父親のいるランスワン通りのコンドミニアムに着いたさなえは、早速プラパンの携帯に電話をしたが留守電になっていた。

 また、むくむくと心の中の鬼が起きて来て、《ほら、プラパンはドゥアンチャイと会っているに違いない。お前なんか来たって会ってなんか呉れないぞ》と、攻め立てた。

 結局、両親は、さなえがバンコクに行くことを、不承不承だが承知したのだ。母親が自分の様子をどうやら見かねて父親を説得してくれたらしい。母親はさなえが嫉妬の鬼と化しているのはさすがに気が付いていない。

「どうした、電話が通じないのか?」

 飛行場に迎えに来てくれた父親は、さなえがなんでバンコクに来たかったのかと言う話には触れなかった。娘の恋心にどういう態度をとっていいのか分からなかったのであろう。ただ、どうしていいか分からなくても心配で、聞き耳だけは立てていたようだ。

「うん、留守番電話で今電話に出られませんって」

「携帯に掛けたのか?オンヌットの実家に電話してみようか?彼は、お前が今日来るのは知っているんだろ?」

 父親の方もさなえの心配が移ったかのようだ。

 プラパンに、自分もバンコクに行くと連絡した時に、ちょっと驚いた風だったが、彼の方が先に行っているので、空港に迎えに行こうかと言ってくれた。だが、さすがにそれは断った。まさか父親を差し置いてボーイフレンドに迎えに来て貰うなんて。

 何となく父親に対する遠慮と言うのか、今まで甘えて来たのに、男が出来たから急に「はい」と手のひらを反すようにするのは、いくらなんでも気が引けたのだ。

「うん、後でもう一回試してみて、もし掛からないようだったらお願い」

 さなえは意気消沈して今にも倒れんばかりである。

 そこに、さなえの携帯が鳴った。表示を見るとプラパンからだ。さなえは一気に血圧が上がって行くのを感じ、喜びのあまりめまいを覚えた。

 さなえが先程電話した時は、ちょうど彼は運転中で、道路際に車を止めて電話をくれたのだ。母親と近くのテスコロータスと言うスーパーに、夕食の買い出しに行く途中だった。母親がちょうどいいから、さなえとさなえのお父さんを、明後日の夜オンヌットの家にお呼びしたいと言っているので来てもらいたい、さなえのお父さんには後で母から電話をしてお願いするからとの事であった。

 それと、もしさなえが疲れていなければ、会いたいから買い物の後にそちらに迎えに行くので、出来れば今夜二人で一緒に食事をしたいと言うのだ。胸が張り裂けそうだったが、やはりこれも断った。今夜は父親と食事をすべきだと。

 かわりに、今日はこの近くでお茶をしたい。また、明日は一日出来れば一緒にいたいと言うと、分かったそうしよう、さなえは親孝行で偉いね、そういう所も大好きだよって言ってくれたのだ。

 思わず涙が出そうになったが辛うじて堪えた。嬉し涙だが、父親が誤解して心配するといけないからだ。

 コンドミニアムに迎えに来てくれたプラパンと、洒落た店がポツポツと立ち並ぶランスワン通りを歩いて、プルンチットのアマリンプラザにあるアメリカ系のコーヒー・チェーン店に入った。

 道すがらプラパンに聞いた所によると、プラッカノンとプラパンの実家があるオンヌットの間を流れているプラッカノン運河から枝分かれした細いクロン(運河)が、プラパンの実家近くを何本も走っていて、そのうちの一本から水が溢れてしまったり、土地の低い所はあちこち冠水したりしているらしい。

 だが、プラパンの家の辺りは比較的高台になっているし、家から大通りのスクンビット通りまで冠水している所はなく、今のところは問題はないようだ。

 ただし、ドンムアンの北にあるランシットは完全に水浸しで、祖母(プラニー)たちは、当分オンヌットの方での避難生活を余儀なくされているようだ。早めに一階の荷物は殆ど二階に避難させてあり、大事なものはトラックでこちらに運んできているので、あまり心配はしていないようだ。

 祖母は自分の父親(佐藤)が残した家に居ることが出来るのでかえってよろこんでいるそうだ。ランシットの市場はほとんど機能しておらず、そこで卸売りをしている祖母の相方のマニットは、商売にならないと文句を言っているようだ。

 ただ、バンコクの台所といわれるクロントイ市場はまだまだ品物は豊富の様で、食べるのには困らないよとプラパンが言っていた。

「さなえ、わざわざ有難う。お父さんやお母さんに止められたんじゃあないの?まさか本当に来るとは思わなかったよ。でも、来てくれて嬉しいよ」

 プラパンは、コーヒー店で改めてお礼を言いながら、自分の手でさなえの手をしっかりと包んだ。手を取られたのは初めてだ。彼の手は男性の手にしては意外と華奢で軟らかかったが、強く握ってくれたその手はしっかりとして頼りがいを感じさせた。さなえはそれだけで満足で涙が溢れそうになった。

「今夜はプラパンと一緒に食事したかったけど、お父さんとは久しぶりだし、洪水だから来ない方が良いって言われていたのを無理して来ちゃったので、少しはゴマをすっておかないと……。

 なんか、日本人学校は二十日ごろ日まで休校で、小中学校の生徒の八割が一時帰国しているし、バンコクの北部の工業団地に入っている日系企業は、十月の始め頃から操業を停止している所が多いって。かなりの駐在員の奥様達も日本に帰国している中で、逆に来るなんて頭がおかしいって皆に言われるって、父に言われちゃった」

 さなえは、肩をすくめながら消え入るような声で言った。

「そうそう、教育省がバンコクの学校を休校にしたから、日本人学校もそうしたんだろうね。それに、近くまで水が来なくても、洪水の時に流行るデング熱とかコレラとかの病気が怖いよね。

 お父さんやお母さんが反対するのは正しいよ。日本語で『無謀』って言ったっけ。向こう見ずとか。英語でレックレス」

 プラパンは笑いながら、さなえのほっぺたをつねるふりをした。

「プラパンだって帰って来たじゃあない?」

「僕の場合はここに家があるからさ。さなえにそういう所が有るとは驚いたよ」

「え?そう言う所って?」

「うん、向こう見ずな所。でもそういったさなえも好きさ」

 プラパンはそう言いながら、さなえの頬をまたつねろうとしたが、さなえは悪戯っぽく横を向いて頬を膨らませた。

「そうそう、今年は大洪水の影響で、バンコクのあちこちで催される予定だったロイカトーン(灯篭流し)のお祭りイベントは、中止になってしまったよ。でも、個別にはみんなやるみたいなんだ。

 バンコク都庁は、花灯篭を川や運河で流さない様にと言っていて、指定の十六の公園を開放するので、そこで安全に楽しむ様にって発表しているけど、バーンパコン川の河口近くの辺りまで行けばきっと水の流れも良くて、流した灯篭が詰まって洪水の被害が広がるような事も無いと思うんだ。灯篭はすぐ海に流れて行ってしまうので安全だしね。 

 河口はバンコクから東南方向だからスクンビットを真っ直ぐ車で行けば六十キロ弱だから、一時間ぐらいで行けるよ。丁度良いから、十日は、一緒にロイカトーンに行こうよ」


 プラパンとお茶をした後、父親とはシーロム通りのチャルンクルン通りに近い辺りのソイを入った所の、西洋館風の一軒家をそのままレストランにした、タイ料理店で夕食をとった。やや古めの木造のコロニアル風の洋館を改装したもので、全体に温かみがあって趣がある店だ。

 父親が日本からのお客さんの接待などでも使うらしく、料理の味も良かったが、今夜の食事を断わったプラパンの事が気になって、あまり食が進まなかった。その理由はもうひとつある。実は、気になっていたドゥアンチャイとの事をプラパンに聞いてしまったのだ。

「プラパン、ドゥアンチャイもバンコクに帰って来ているの?」と、思い切って聞いてしまった。そんなことを聞けば恐らくプラパンを不愉快にさせるだけだと分かっていても、どうしても気になって聞かずにいられなかった。

 するとプラパンは、「ドゥアンチャイ?」と怪訝そうな顔で聞いた。

「ほら、大学で時々お話をしていたじゃない。ドゥアンチャイと」

「さあ、彼女が帰って来ているかどうか知らないけど……」と言いながら、さなえの事をじっと見た。

「いや、彼女も洪水が心配で帰って来ているのかなと思っただけよ」

 さなえは、慌てて言い訳をしたが後の祭りであった。

「さなえは、僕とドゥアンチャイとの事を心配しているの?」

 鋭いプラパンは真剣な顔だ。

「いや別に……。あっ、うん。でも、やっぱり心配」

「どうしたら信用してくれるか分からないけど、単なる遠い親戚の子って言うだけだよ」

 プラパンはさなえの両手をとり、しっかりとさなえの目を見ながら言った。

「ごめんなさい、変に焼きもちなんか焼いて……」

 さなえは、恥かしさで顔が赤くなっているのを感じた。

「でも、ちょっと嬉しい。焼きもち焼いてもらって」

 プラパンは、本当に嬉しそうだった。

 だが、やはりあれはまずかったと、さなえは後悔した。

 コンドミニアムに戻ると、留守電メーッセージがあり、聞いてみるとなんとユッタナーの長男ニポンの実の息子のタニンからであった。

 さなえが訝しげに、「ねえ、パパ、タニンから留守電が入っているけど、私がバンコクに来ているのを何で知っているんだろう?」と、聞くと、

「あー、この間サマートさんと電話で話していた時に、さなえがバンコクに来るんだよって話をしたから、タニンは彼から聞いたんじゃないかな」

 シャワーを浴びようとしてバスルームに向かいながら父親が言った。

 今回は、タニンには会わないでおこうと思っていたので、ちょっと面倒だなと思いつつもさなえは返電した。

「オーさなえ、電話ありがとう。バンコクに来ているんだね。久しぶり」

 懐かしい「英国訛り」の英語だ。一方、プラパンの方は中学高校とアメリカ人の先生が多かったせいか、どちらかというとアメリカン・イングリッシュに近い。

「うん、ちょっと用事が有ってね。授業が有るんであんまり長居は出来ないけど」

 長居が出来ないと言う事で、暗に忙しいから会えないかも知れないと言うニュアンスを伝えたかったが、タニンは意に介さずで、「そうなんだ、でも明日会えないかな」と聞いてきた。

「それが、明日は友達と会う事になっているの」

 さなえが済まなそうに答えた。

「そう、それじゃー明後日は?」

 タニンは畳みかけて来る。

「ごめん、明後日は父と出掛ける事になっているの、……でも明々後日は空いているわよ」

 何となく後ろめたさと言うか、きっぱり今回は会えないと言い辛かったために、つい明々後日は空いているなどと、余計な事を言ってしまった。

 ただ、空いていないと言えばじゃあ明々後日は、やなあさってはと聞いてくるに決まっている。相手が言って来るのを待ってその日もダメ、その日もダメと言うのは忍びなかった。ましてや、嫌いな相手でもない。

「そう良かった、それじゃあ明々後日、五時半ころににそちらに迎えに行くよ。あ、それから十日のロイカトーンだけど、一緒に行かないかい?今年は洪水でちょっと寂しいけど」

 ロイカトーンは、先程プラパンと一緒に行く約束をしてしまった。正直、プラパンと二人だけで灯篭流しをやりたい。だが、タニンは父親の知人の家族で無碍には出来ないし、親しい友達でもある。一瞬迷ったが、「お友達と一緒にやるって約束しているの、もし良かったら一緒に行かない?」と返答してしまった。まずいなーと思ったがこれも後の祭りだった。

「オッケー、それじゃー明々後日に会った時に、待ち合わせ場所とか打合せしよう」

《はてさて、なんて自分は八方美人なんだろう。と言うか、なんではっきり断らなかったんだろう。タニンと一緒に行ったら、プラパンとの間を壊しかねない。なのに、タニンにも良い顔するなんて》

 さなえは悔やんだ。ベランダでチンチョㇰ(ヤモリ)がさっきさからチッ、チッ、チッ…とさなえを責める様に鳴いている。

《もしかしたら、自分はタニンの事も好きなのかなー。もちろん嫌いではないし、むしろ好きだと思う。好きと言ってもそれも単なる友達としてだし。プラパンとは比べようもないしね。プラパンは分かってくれるに違いないわ》

 さなえは、そう思いつつ、悩みが一つ増えた事に気付いた。

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