九.二 オギクボ
二〇一一年七月 東京&バンコク
「あなた、大変!さなえがナリサさんの息子さんをうちに連れて来たわよ。期末試験が終わったので、タイ人の友達と家で打ち上げしたいって言うから、てっきり女の子を連れてくると思っていたら、男の子だったの。
さなえが、留学生のサポートをしているって言っていたでしょう?その内の一人でね。その人と話していたら、あんまりナリサさん達の話に似ているんで、お母さんの名前とか、苗字とか、ひいおじいさんの名前とか、実家の住所とか、いろいろ聞いたら、なんと間違いなくナリサさんの息子さんだったの。プラパンさんと言うの。
さなえも、彼が、我々の友達のナリサさんの息子さんだったなんてって、びっくりしていたわ。何となく私たちが話していた人たちと似ているとはさなえも思っていたらしいけど、まさかそんな偶然が有るはず無いと思っていたみたい。
プラパンさんも、ナリサさんや佐藤さんの知り合いが東京にいるって言う話は聞いてはいたみたいだけど、まさかさなえがその話に出ていた人たちのお嬢さんだったとはって驚いていたわ」
パソコンに映っている京子は興奮していた。
「おい、本当かい」
「本当よ。間違いないわよ。そうそう、プラパンさんは寄宿舎に入っていたから我々は彼に会った事がなかったけど、トンが、トンがってよく息子さんの話をナリサさんがしていたわよね。普段本名で呼ばないものね。トンの本名がプラパンだったとはね。
確かにナリサさんが、息子さんが日本の大学に留学する準備をしていると言う話を以前していたわ。ただ、幾つか受ける予定で、受かるかどうか分からないのでもし決まったら連絡するからと言う話になっていたわ。
連絡が無かったから駄目だったのかなと思っていたの。私も帰国やらさなえの大学受験やらで忙しくてほとんど忘れていたわ。
でも、本当にビックリしたわよ。それで、あなた……、ナリサさんの息子さんと言う事は、ヒヨットしたらさなえと彼とは、親同士が腹違いの兄弟で、その子供達だから、従兄妹同士と言う事になるんじゃない?」
京子の目が光った。
「うん、そういう事になるね。で、二人はどんな関係なんだい?」
「だから留学生サポート・プログラムで担当になってサポートしているって言ったでしょ」
「いや、それは分かったけど、何か恋人同士みたいだとか」
「まさか、まだそんな……。そんな感じではなかったけど、家に呼ぶぐらいだから随分親しいとは言えるわね。でも、従兄妹同士なら結婚しても別に何の問題もないわよ」
「おいおい、もう結婚の話しかい?」
「いえ、例えばの話しよ、勿論。でも、なんか不思議な巡りあわせよね。やっぱり、この際ハッキリさせておいた方が良いんじゃないかしら。だって自分たちのお爺ちゃんが同じ人かどうかって本人達にとってはとても重要よね。
二人が単なる友達だったとしても、従兄妹同士だと言う事が後で判ったりでもしたら、何で言ってくれなかったなんて話になるわよ。お父様やナリサさんのお母さんに問い質しても、本当の所は分からないかもしれないわよね……。でも、こうなる前に聞いておけば良かったのに」
京子は焦っていた。
「うーん、そうだな。再来週一時帰国するから、その時にオヤジに聞いて見るよ。もしハッキリしなかったら、僕とナリサさんのDNA検査をしてみれば判るから、親父に一応検査の了解を取って置くよ。それと、ナリサさんには、オヤジのとの話しの具合もあるからバンコクに戻ってから話す事にするよ」
京子からの電話があった翌々週、バンコクから一時帰国した恒久は京子と荻窪の実家を訪れた。恒久は、食事の前にちょっと仕事の話が有るからと言って父親の源一郎を誘って書斎でビールを飲み始めた。京子は姑と一緒に夕食の支度をしている。
「オヤジさー、昔、初めてバンコクに行った時に、タイ人の女の人と会ったでしょう?」
恒久は、長年胸につかえていた物を吐き出すように言った。
「……」
源一郎は口をつぐんだまま、訝しげな顔で恒久を見ていたが、「なんだい、いきなり。タイの女の人っていったい何の話しだい?」と、やっと口を開いた。
「うん、ちょっと言い辛くてずっと言いそびれていたんだ。僕のタイ人の知り合いにナリサさんと言う人がいるんだ。京子も良く知っていてね。
で、その人のお母さんなんだけど、オヤジとそのナリサさんのお母さんとが、二人で写っている写真を持っていてね。古い話だけど僕が初めての駐在の時に、ナリサさんに見せて貰ったんだ」
「タイの女の人と写真?何時のだって?」
「オヤジが初めてのバンコク出張の時の……」
「ちょっと待てよ」
源一郎は一生懸命記憶の糸をたぐっている様子だ。
「そう言えば、果物売りの女の人とメナム川で、外人に写真を撮ってもらったことが有ったよ。そうそう思い出したよ。あった、あった、そう言う事。でもその写真どこに行ったかなー、かあさんにも見せたことが有るけど、どこかにしまってそれ以来見たことが無いよ」
「きっとその時の写真だよ、裏にオヤジの名前が英語と漢字とで書いてあって、オリエンタル桟橋にてって書いてあったよ。あれはチャオプラヤ川って言うんだけどね」
「うん、うん事務所近くのニュー・ロードって言ったかなあ、あそこで天秤棒担いで果物を売っている女の人がいてね。言葉は通じなかったけど、身振り手振りでなんとなく解かりあえた気がしてね」
源一郎は、遠くを見つめるような目つきで思い出すようにしている。
「事務所の近くにいつもいるんで、スイカを食べながらタバコを吸ったりしていたんだ。スイカが甘くてね。冷えてはいなかったけど。それで、帰る前になんとなく記念にとおもってその河の畔で写真を撮ったんだ。そう言えばあの写真どこに行ったんだろう……」
源一郎は懐かしそうに言った。
一方、恒久はドキドキし始めた。案外あっさりと白状するかも知れない。
「それでね、その人のお母さんはオヤジと撮った写真をとても大切そうに自分の父親の写真と一緒にしまっていたんだって。で、そのナリサさんが、オヤジと自分の母親とが一緒に写っている写真を見た時、その中の男の人と僕とがそっくりで、かつ左右田と言う名前まで同じなんで、僕に見せてくれたんだ。
実際にその写真を見せてもらったら、なんとそこにオヤジが写っているじゃないか。驚いたのなんのって。たまたま仕事の関係で知り合った人の母親が、なんとオヤジと仲良く写っている写真を持っているなんてさ、まるで小説みたいな話だよね。ところが、それだけではないんだ」
源一郎は、楽しそうに聞いている。恒久は、グイとビールを飲んで続けた。
「ナリサさんの話によると、彼女が生まれた時期と言うのが、母親と自分の父親と思っている人とはちょうど別居中だったんだって」
ここで、恒久はもう一度ビールをグイと飲んで続けた。
「で、大切そうに仕舞ってあったオヤジとの写真を見て、ナリサさんはひょっとしてこの男の人は自分の本当の父親ではないかと疑い始めたんだ」
恒久は、ほんの些細な反応をも見逃すまいとじっと父親の目を見ていたが、戸惑った様子は無かった。
「いやー、それは名誉なことだが、残念ながらわしはその人の父親ではないよ。お前も疑っていたのかい?」
源一郎は、楽しそうに笑った。
「本当かい?もしそうだとしても、オヤジは当然否定するのではないかとは思っていたけど」
恒久は迫った。
「だいたい考えてみろよ、たった十日ちょっとの出張で素人娘とそんな関係になるなんてことは至難の業だし、失礼ながら相手は天秤棒担いだ果物売りだよ。一方、相手の立場に立てば、道端の果物売りながら必死に生きている娘だ、行きずりの外国人となんとかなんて言う変な濡れ衣を着せるのはそれこそ失礼だろう」
源一郎の顔から、楽しそうな笑い顔が消え、額に皺を寄せてはいるが、口元は僅かながらほころんでいた。
「まあ、男女の仲は他人には窺い知れないからな。信用しろと言葉で言ってもどこかに疑念はどうしても残るしね。ま、お前とその知り合いの人のDNA検査をすればハッキリするんじゃないかな」
源一郎にあっさり否定されて、こっちから言おうとしていたDNA検査の話も先に持ち出されて、恒久は頷くしかなかった。
「うん、まあそう言う事なら分かったよ。オヤジが違うと言うんだから違うんだと思うけど、一応念のためDNA検査をしてみようかな……。
僕のその知り合いの人って言うのは、日系企業の現地スタッフでね。ほらJAST(日本オーディオ・システム・テクノロジー)ってあるだろう、そこが八十年代の半ばにカラーテレビの現地ノックダウンを始めるんでまず駐在員事務所を作ったんだけど、当時、彼女はそこに勤めていたんだ。
仕事の関係で行き来している内に、その人とちょっと親しくなり始めて、彼女の実家でお母さんのタイ料理をご馳走になったりしたんだ。そしたら次の日、また直ぐに来てって言うから行って見たら、その写真を見せられたんだ。
実はさー、その時以来ひょっとしてその人と僕は兄妹かもって、今までずーっと思っていてね。彼女の方はそう思っていたと言うより、兄妹だと確信していた様だったよ。京子は、その人は自分の義理の妹かもしれないって言うんで、とても親しくしてたんだ。タイ人の義理の妹なんて珍しいとかって嬉しそうに言ってね」
恒久はまだ半信半疑であった。
「ま、『証拠写真』だと思っているみたいだから、バンコクに帰ったら早速二人で検査して見たらいいよ。ところで何で今頃になってそんな話をするんだい?お前が初めての駐在と言う事はかれこれ二十五年近く前になるんじゃないかね」
源一郎はにこやかに言った。
「そうなんだ。でもさー今まで何か言い難くってね。何度か聞こうかと思ったんだけどね。で、まさに何で今頃になってそんな話と言う事なんだけど、またそれがなんとも不思議な巡りあわせでね」
恒久が続けようとしたところに、京子が「そろそろお食事の支度が出来るけど如何?」と聞いてきた。
「もうちょっとしたら行くよ」
恒久はそう京子に言って、話を続けた。京子は、二人が何を話しているのか知っているせいか、恒久を見ながら意味ありげな含み笑いで戻って行った。
「それがね、少し前に、さなえがタイ人の留学生を高井戸の家に連れて来たんだ。男性のね、友達だと言って。さなえが学内で留学生のサポートをしているんだけど、その内の一人らしいんだ。
話が長くなるから要点だけ言うと、京子が色々話を聞いている内に、その子は驚いたことに、さっき話したジャストにいた事のある、僕の知り合いのナリサさんの息子だったんだ。
ほら本人はオヤジの娘だと思っている人のね。そうなると、彼女の息子はオヤジの孫になるし、さなえとは腹違いの従兄妹同士になっちゃうじゃない。
別に従兄妹同士だから問題が有るわけじゃないんだけど、自分たちのお爺ちゃんが同じ人だったとしたら、本人達は当然知る権利があると思うんだ。だから、今頃になってなんだよ」
源一郎は、「ほー」と言う顔で何度も頷いた。
「確かに、もし親同士が腹違いとは言え、彼らが従兄妹同士だったとしたら、本人達に言っておいた方が良いよね。ま、残念ながら全く違うがね。
しかし、タイ人と日本人が日本で偶然に知り合ったところが、親たちばかりかおじいさんおばあさんたちも知り合いだったなんて、随分偶然と言えば偶然だね。
と言っても、我々は知り合いって言うほどではないけどね。でも、かあさんが聞いたら驚くよ。京子さんは知っているんだろこの話」
源一郎は、やや真剣な顔で言った。
「うん、でもこの話には前段があるんだ。実は、オヤジが昔会ったその果物売りの父親と言うのが元日本軍の将校なんだ――」
恒久は、思い出す風にして続けた。
「写真の裏には、佐藤孝信、豊橋市出身で、確か第十五師団だったと思うんだけどその師団所属の少尉と書いてあったんだ」
源一郎は目を細めて聞いていた。
「うん、彼女の父親が日本人の将校だったと言っていた気がするな。名前とか、出身とかはすっかり忘れてしまったけど、その時、へーと思った記憶がある。確か亡くなったとか言っていたような気がするが」
源一郎は、目をつぶって思い出そうとしているようであった。
「そうなんだ、オヤジがその人に会った時は、死んでしまったと思っていたみたいだけどね。
でも実は生きていてね。
その時は既に、その人はタイ住井の現地スタッフをしていたんだ。僕は、佐藤さんと言う人の話しをナリサさんから聞いていて、どうも似た人がいると思って調べてみたら、タイ住井の佐藤さんと同姓同名だったんだ。
それで、ナリサさんとお母さん、お母さんと言うのはオヤジがいっしょに写真を撮った人とだけど、佐藤さんに会ってもらったら写真の人本人でね。驚いたのなんのって……。
涙の再会でなくて何て言うんだろう、衝撃の巡りあいかな。僕ももらい泣きしてしまったよ。まさに事実は小説より奇なりだね」
恒久が、「どう?この話」と言うような顔をした。
「……その住井の佐藤と言う人って、あの商社の間で有名なタイ住井の佐藤さん?」
「そうなんだよ。あの佐藤さんだったんだ」
「へー、そんなことがあったんだね」
「それでさ、昔にオヤジが会った果物売りだった人のお母さんにお姉さんがいるんだけど、なんとそのお姉さんと言うのはユッタナーさんの第二夫人でね」
「えー、何だかとてもややこしいけど、奇遇というか、ものすごく偶然が重なっているねえ」
源一郎は、相変わらず目をつぶって、頭の中を整理している様子であった。
恒久は、日本への一時帰国からバンコクに戻ってから、佐藤が残したオンヌットの家に住んでいるナリサを早速訪ねた。
オンヌットは、バンコクからはプラッカノン運河の向こう側と言う事もあって、かつてはローカル色豊かな所であった。一九九九年末にスカイトレイン(BTS)のオンヌット駅が出来てからは開発が進み、今や世界第二位のスーパーマーケットのカルフールと、第三位のテスコと組んだテスコロータスや、高層のコンドミニアムが次々と出来ており、将来性のある地域と言われているが、まだまだ緑の多い古き良きバンコクが其処此処に残っている地域でもある。
この家は生前佐藤が手塩にかけたレインツリーやマンゴー、タマリンドの樹、鳳凰木(火焔樹)、またピンクや紫、白などのブーゲンビリヤなどの大きめの樹の間に、それぞれの季節に花が咲く背の低い樹や草花が植えてあり訪れる者の目を楽しませる。
例えば今の様な雨季には、月夜に芳香を放つシルクジャスミン(月橘)や、やはり甘い香りのピープ(コルクノウゼン)、また寒季には赤い花のデイゴや紅葉するモモタマナ、寒季から暑季に咲くタイ桜ことチョンプー・パンティップ、そして暑季にはタイの国花のゴールデン・シャワーなどである。広い庭には鯉が泳いでいる池があり、池にせり出してサラ(タイ風の東屋)が建てられている。
恒久がナリサを訪れるのは、京子が娘のさなえを連れて先に日本に帰る時に歓送会をして貰った時以来なので、ほぼ九か月ぶりの事だ。
鬱蒼とした木々に囲まれた庭を通って、恒久が、母屋に着くと玄関近くのベランダでナリサが待っていた。
「そう言えば、この二月に、ナリサさんがかつて勤めていたことが有る、ジャストのタイ工場は遂に民生用の液晶とブラウン管テレビの生産を終了したんだってね。今後は、カーエレクトロニクスとか業務用のシステムに転換して行くらしいね。時代は変わるねえ」
サラでお茶を飲みながら、恒久が思い出した様に言った。
「本当にね。変わって行くわよね。この間、仕事でジャストの工場に行ったんだけど、ラインの組み換えとか忙しそうにしていたわ」
考え深げにナリサ。
「でも、テレビはそれなりに他のアジア諸国や、中東方面に売れていたんじゃないのかい?」
「ええ、自社工場では完全に撤退と言う事なんですが、外部に生産委託をしてそこから仕入れて中東、アジアに販売して行くようですよ」
しばしお茶を飲みながらよもやま話を続けた。森の様な庭の方から涼しい風が流れて来ている。
「実は、先月の終わりにさなえがタイ人の留学生を、高井戸の家に連れて行ったんだけど……、京子がその留学生と話していたら、なんとその留学生はナリサさんの息子さんだってことが分かったんだ。プラパンさんって言うんでしょ?」
頃合いを見て、恒久は出来るだけ非難めいた口調にならないように気を付けながら、本筋に入った。
「えっ!トンが?そう、名前はプラパンと言うの。本当に?だって、トンに日本人の友達の家族が東京にいるから、連絡しておくので挨拶に行きなさいって言ったの。
でも、始めから面倒見て貰ったら、依頼心が強くなって甘えてしまうので、少しして勉強や生活に慣れてきたら挨拶に行くからと言いわれたの。だから、ツネヒサーさんや京子さんに話していなかったし、京子さんの連絡先もまだ教えてなかったのに……」
ナリサは飛び上がらんばかりに驚いた。
「いや、事前に連絡が無かったとか、聞いて無かったとかそう言う話ではないんだ。きっと何か事情があったのだとは思っていたから。実は、さなえも学部は違うんだけど立智でね。大学内に留学生をサポートするプログラムと言うのが有って、そこで二人は知り合ったんだって。
それで妻の京子に言わせると、二人はサポート役と留学生と言った関係だけではなく、もう少し親しそうにしているらしいって言うんだ。
しかし、ただの友達だったとしても、親同士が腹違いだけど兄妹で、本人達が従兄妹同士と言う事になれば、本人達も知る権利があるので、ここはハッキリさせておいた方が良いと思ってね」
ナリサは、恒久の話しを一言も聞き漏らさないようにと、真剣な顔で聞いている。
「実は、ちょうどこの間一時帰国したので、張本人のオヤジに聞いたんだ。オヤジはきっぱり否定していたし、きっと本人が否定しても確証が無いと信用できないだろうから、私とナリサさんのDNA検査をすれば、君たちの疑惑が解けるだろうと言っていたんだ」
「そうなんだ、それが一番ね。まあ、そこまで言うんだから違うんでしょうね。なんだか……」
ナリサは、何とも言えない顔をしている。
「そうね、明後日お母さんが泊まりに来ると言っていたから、一応聞いてみるわ。黙ってDNA検査をしたりしたら悪いしね。立智大学にプラパンが留学している事だけでも、話しておいた方が良いって思っていたんだけど。ごめんなさい」
ナリサ自身は、プラパンに左右田家に挨拶に行くように強く言わなかったのは、無意識的にプラパンとさなえさんとを近づけさせたくないと思ったからだったのかなと自問した。
数日後、ナリサは、オンヌットの家に泊まりに来た母親のプラニーに、例の件を話を切り出した。プラニーは月に何回か来て、来ると二泊ほどして帰るのが最近の習慣になっている。
「メー(お母さん)、だい分前の話になるけど、ランシットの家で佐藤のお爺ちゃんの写真と一緒にしまってあった、お母さんと左右田って言う男の人と二人で写っている写真があったでしょ?」
「ソーダー?」
「うん、ほらツネヒサーさんが初めて家に食事をしに来た時の夜に、メーがその写真を見ていたでしょう?」
それまで訝しげにナリサを見ていたプラニーが、あーわかったと言う顔をした。
「それがどうしたの?」
プラニーはやや不安げに聞いた。
「実は謝らなくてはいけないんだけど、お母さんがいない時に、引き出しに入っていたあの写真をこっそり見てしまったの。ごめんなさい」
「別に謝るほどの事じゃないよ。そんな事」
プラニーは「なーんだ」と言う顔をした。
「実はね、あの写真の男の人、お母さんと一緒に写っていた人、ツネヒサーさんにそっくりに見えたからもう一度見てみたくて見てみたの」
ナリサは母の顔をまじまじと見つめながらいった。
「やっぱりナリサもそう思った?あの時、あの写真の人が来たんじゃないかと思ってそれはびっくりしたのよ。それで思い出してあの写真を取り出して見ていたのよ。確かによく似ていたよね」
プラニーは微笑んでいる。
「そう、でもその時お母さんが、一瞬だけどバツの悪そうな顔になったもんだから、何も聞かなかったの。なんか見られてはいけない物を見られてしまった様なね」
プラニーはニコニコして、「何でだろうね。憶えているよ、あの時、慌てて何でもないよとか言って写真を仕舞ってしまったけど。きっと、別れたプチョン以外の男の人と二人で写真なんて、ちょっと恥かしかったのかもね」と、恥かしそうに言った。
「ごめんなさい。もう一つあるの。こっそり写真を見た後、ツネヒサーさんに来て貰ってあの写真を見せたの。だって写真の裏に英語と日本語で左右田って書いて有ったでしょう?ツネヒサーさんの苗字もやはり左右田なの。そしたら、間違いなくこの写真の人は自分の父親だっていうの」
プラニーは娘の話を聞いている内にみるみる顔色が変わった。それを見たナリサは、今まで疑っていた事が、いよいよ事実として明かされるのかと思い緊張した。
「えっ、あの人ってツネヒサーのお父さんなの?しかし、世の中にそんな偶然ってあるのかね。もうどのぐらい経っているんだろう。
私がナコンパトムの家を飛び出して果物を売って歩いていた頃で、あなたがまだ生まれていない時だから、かれこれ四十年以上も前になるんだね。その人は仕事場が近かったのかね、毎日のように私の隣に座って果物を食べてからタバコを吸って行ったの」
ナリサは、遠くを見るような目で昔を思い出しながら話し始めた母親を、じっと見ている。
「言葉は分からなかったけど、なんとなく分かったのよね。少しして彼は辞書を持って来てね。どうやら彼は日本人らしいと言う事が判ったの」
プラニーは宙を見ながら、記憶を辿る様にしてゆっくりと話した。
ナリサは、いよいよ核心に近づくかと期待した。
「私はね、それまで自分の父親が日本人だと言う事を、人には隠していたせいもあって、普段は自分の日本人である部分を殆ど意識しないでいたの。
所が、その日本人に会った時に自分の日本人の血が騒いだのかしらね。何せ、日本人に会ったのはその時が生まれて初めてだったからね。
私は、彼に自分の父親は日本の軍人だったと言ったの。彼は、へーそうなんだって驚いてはいたみたいだけど、それだけでね。で、私はやっぱりそんなこと言わなければ良かったなと思ったのよ」
「ふーん、それで?」
ナリサは先を急がせた。
「その内、帰るからって、川の所で写真を一緒に撮ろうって、カメラを持て来たの。オリエンタル・ホテルの桟橋の所で、ファラン(外国人)に一緒の所を撮ってもらったわ。
一日か二日して、写真が出来たって持って来たわ。その時一緒にコートーカップ(ごめんなさい)と言って封筒をくれたのよ。
後で見たら二百バーツも入っているじゃないの。何でごめんなさいと言って二百バーツもくれたんだかいまだに理由が分からないの。謝られるような事もしていないし、お金を貰うような事もしていないのにね」
ナリサは、話の成り行きにポカーンとしている。
「二百バーツは返そうと思ってそのまま取っておいたので、もしその人が生きているのなら返さなくちゃ。ツネヒサーは今またバンコクにいて、ナリサは時々会うんだろ?今度あのお金を渡すからツネヒサーに渡して、お父さんに返して貰ってよ。
それから、もし出来たらなにがごめんなさいだったのか、聞いておいてもらってくれないかね。その人の事は殆ど思い出さないけど、思い出すとその事が一番気になってね。
しかし、あの人がツネヒサーのお父さんとはね。世の中狭いねー」
プラニーは感慨深げだ。
「分かったわ、彼のお父さんに返すようにお願いしておくわ」
ナリサは、話が核心から外れてしまい、さてどうあの話を切り出したものかと考えながら答えた。
「でも、なんで今頃になってこんな話になったんだっけ?今更でしょう?昔の話だし」
プラニーは不思議そうに聞いた。
「確かに今頃になってなんだけど、なんでこんな話をしたかと言うとね、プラパンがツネヒサーさんのお嬢さんのさなえさんとたまたま同じ大学で、親しくしているみたいなの。
東京に帰ったツネヒサーさんの奥さんの京子さんに紹介しようかって、プラパンに言ったら必要無いって言うので紹介しなかったんだけど、あの大学に留学生を助ける制度が有って、それでさなえさんと知り合ったらしいの。ある時、ツネヒサーさんのお家に行って京子さんと会って分かったみたいなの」
「あらまー、それはまたまた奇遇だねー。そんな事ってあるのかね」
「まあ親しいと言ってもまだ友達みたいなんだけどね」
「へー、良かったと言うとヘンだけど、良かったじゃないか。おまえ、ツネヒサーのことが好きだったみたいだけど、日本人が好きなのは、おまえのお祖母ちゃんの血を引いているからかなと思っていたんだよ。
でも結局お前たちはなぜかずっと友達みたいにしていたけどね。だから、息子がツネヒサーの娘と恋仲になればおまえの恋も半分成就したことになるんじゃないかい?」
プラニーは嬉しそうに笑った。
「何言っているのよ、あの二人はまだそんなんじゃなさそうよ。でも、そうね……、私はツネヒサーさんの事が好きだったけど、彼は私の事はまだ子供だと思ってあまり相手にしてくれなかったわ。
でも実はお互い積極的にならなかったのは実は他にも理由があったの」
ナリサの顔が真剣になった。
先程から風が強くなってきて、そろそろ雨が降り出しそうな気配であった。所が、いきなりピカッとしたかと思うと、バリバリバリ、スドーンと雷が鳴り、雨が強く降りだした。さっきまでチョチョチョ、チチチとうるさく鳴いていたチンチョㇰが一瞬静かになった。
「実はあの二人で写っている写真。お母さんとツネヒサーさんのお父さんとの写真ね。お爺ちゃんの写真と一緒にとても大切そうに仕舞ってあったでしょう?
それと、私が出来た時って、お母さんがナコンパトムのお父さんと別居していた時期だったし、あの写真の日付から見てその人がバンコクに来ていた時だったでしょう?
そんな事を考え併せて、私はその写真の人、恒久さんのお父さんの子供ではないかとそれを見て以来ずっと思っていたの。
そうすると、私はツネヒサーさんと異母兄妹になってしまうからと言う事で……。まさかと言う気持ちもあったけど、どこかブレーキがかかってしまって」
ナリサの話をじっと聞いていたプラニーが口を開いた。
「ゴメンね。そうだったんだ」と言ったとたん、プラニーの目に涙が溢れた。
それを見たナリサの顔色が変わった。
「ゴメンねって、やっぱりそうだったの?」
「えっ?」
プラニーは涙を拭いた。
「ツネヒサーさんと私が兄妹だってことよ」
ナリサは何時になく厳しい表情になった。
激しい稲光と雷鳴が轟き、雨脚が強くなった。
「まさかそんな事ある訳ないじゃないか。謝ったのは貴方達にそんな誤解を与えてしまったからよ。
別にあの写真は捨ててしまっても良かったんだよ。本当に。たまたま捨てる機会も無くて、持っていた事自体忘れていただけよ。
あの頃、他に写真なんて持っていなかったから、お父さんの写真と一緒に入れておいただけだよ。もっと早く聞いてくれれば良かったのに」
プラニーは、真面目な顔でいった。
「本当に違うのね?」
「もちろんよ」
「じゃー、私は誰の子なの?ナコンパトムのお父さんとは別居中だったんでしょ?」
ナリサは母親の悲しそうな顔に構わず、食い下がった。
「そうだね。疑われても仕方ないね。ちょっとね、恥かしい話なんだよ。プチョンが浮気をしていたのが分かって、取るものも取り敢えず家を飛びたしたんだ。マユラをモンテワンの所に預かってもらってね。
で、少ししてから着る物とか身の回りの物を取りに帰ったんだ。ソーダーに会うほんのちょっと前だったかね。そしたら、プチョンにしつこく引き止められてね。勿論、プチョンの事はとても好きだったから、許しちゃおうと思っていたら、相変わらずその女と付き合っていて、私が居ないのを良い事にして、その女の所に泊まったりしていたらしいの。
さすがに私も堪忍袋の緒が切れて、きっぱり別れてしまったの。でも、家にちょっと帰ったその時にあなたが出来たの。ごめんなさいね。ずーっと疑っていたのね、可愛そうに」
プラニーは目を赤くはらしていた。
母親の話しを聞いてナリサは複雑な気持ちになった。
《そんな事だったんなら、私はピーとどうなっていたんだろう》
ナリサの目から涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんよ、ナリサ」と言って抱いてくれた母親の胸でナリサは泣きながら、やはり一応DNA検査はしてみようと考えていた。
「ツネヒサーさんは私と自分のDNAを調べようって言っているの。それで我々が兄妹なのか違うのかが分かるからって」
「そう、それで気が済むんなら調べたらいいよ」
雷は遠のき、雨も小降りになっている。
それからほぼひと月ほどして、事務所にいるナリサに恒久から電話があった。
「例のDNA検査の結果だけど、結論から言うと我々は兄妹では無かったよ」
恒久は、淡々と報告した。それを聞いたナリサは何と返事をしたものか迷った。
「良かったわ」と言うのも変だし、「残念だったわね」と言うのもおかしかった。結局、「そうだったの……」といって暫く黙ってしまった。
母も、ツネヒサーさんの父親も違うと言っていたので違うかなとは思っていたが、これまで二十数年間ひょっとして、と思っていた事もあってなかなか兄妹では無いということが信じられなかった。
だが、科学的に証明されたのだ。
ツネヒサーさんとは兄妹では無いのだ。ナリサは二の句が継げなかった。ではもし、兄妹ではないとあの時点で判ったら我々はどうなっていたんだろう。恋人同士になれたであろうか。ツネヒサーさんは私の事を愛してくれたであろうか。
「ま、ハッキリして良かったね。でも、これからも兄妹だと思って付き合って行こうよ。京子にもさっき電話したら、彼女は何かがっかりしていたよ。ナリサさんが義理の妹で無くなちゃって、ただのお友達になっちゃったって。でも、今まで通りでお願いしますって伝言を頼まれたよ」
「そうね。ハッキリしてね」
ナリサが何とも言えないという風に、ポツっと答えた。
恒久はなぜかホッとしていた。あのままナリサと付き合って行ったら、京子と結婚出来ただろうか。ナリサの積極性に押し切られていたのではないだろうか。
ナリサは美人と言うほどではないが、傍目にも感じが良く魅力的な女性である。だが、兄妹かもと言う疑惑が歯止めになって、それ以上進むことが無かったのだ。
あの頃、京子の事は胸に秘めたままであったが、遥か遠く炎熱の地で漫然として日々過ごしている中で、感覚が減衰し、京子が段々と遠退いていくような感覚を覚えていたのだ。
そうした時に、京子が現れ、覚醒の世界に連れ戻されたのだ。ナリサには悪いが、あの当時本当の事が判らなくてむしろ「良かった」のだ。恒久は一人頷いた。
DNAの結果が出て、恒久が源一郎に報告をした時に、彼に「一度お互い会ってみる気はないか」と、聞いてみたが、「まさか」と言って全く相手にもされなかった。
ナリサの母親も、同じ様な反応であったようだ。
恒久とナリサが長い間、勝手に「疑惑」として抱え、時には悩んだりしていたほどには、当人たちの心にの中に、お互いが残っていなかったようだ。
ナリサのお母さんに二百バーツ渡して、「ごめんなさい」と言った理由を父親に聞いた所、「どんな事を言ったかな。憶えていないが、確か余ったバーツをあげた様な気がする。ただ、貨幣価値があまりピンと来てなくて、なんか余りものを処分して貰うような気がして、そういう風に言ったんじゃないかな」と、言っていた。
その後ナリサにその件は聞かれていないので話していない。いまさらどうでも良いような気がしたからだ。
だだ、当時の二百バーツはかなりの大金だ。子供が出来なかったとは言うものの、二人の間に「何か」があったのではという疑いは、恒久の中で消えたわけではいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます