八.二  シーロム・ソイ六

「二人とも食事はまだでしょう?」

 サマートが、恒久に聞いた。

「うん。まだだけど、どこか近くで食べようかと思って」

「そう、それじゃあ、一緒に行って良いですか?」

 サマートが熱心にお札を火にくべている源一郎に聞いた。

「お通夜は良いのかい?」

「そろそろ終わりますし、もう五日目ですしね」

 喪主が、最後まで居なくても問題が無いと言うのは、いかにもタイらしい。

 三人は、葬儀を途中で抜けて、シーロム・ソイ六にある茜と言う日本料理屋に入った。

「長男のニポンさんってロンドンで亡くなったんだってね。恒久から聞いたよ。ユッタナーさんはさぞ悲しかっただろうね」

 源一郎が顔を曇らせながら言った。

「ちょっと残念ですね。いよいよヤクザな世界から足を洗おうとしたらやられてしまって。若い頃はニポンに苛められましたけど、オヤジに勘当されてからは彼も変わりましてね、結構彼とは仲良くしていました。

 ニポンの件が無ければオヤジはまだ生きていたんじゃないかと思います。オヤジは勘当してからもニポンの事をいつも気にしていて、私にどうしているか調べる様に時々言っていましたし、何かあれば助けてやってくれって言っていました」

 サマートは悲しそうな顔をしている。

「ニポンさんと言えば、京子が言っていたけど、お葬式で頭を丸めていたニポンさんの実の息子さんのタニン君と、うちのさなえとが時々会っていたみたいだよ」

 恒久が話題を変えた。

「そうなんだよ。タニンが言っていたけど、ときどき映画に行ったり、一緒に観光したりして楽しかったけど、さなえさんが日本に帰ってしまって残念だって。日本に追っかけて行きたいくらいだけど、さなえさんの方はただの友達だと思っているみたいだって」と、サマート。

「そうなんだ。でも今でもときどきメールのやり取りはしているみたいだって京子がいっていたよ」と、恒久。

「そうらしいね。そう言えばお父さん、昨夜お通夜にスイットさんが来てくれましてね。例のタイ亜紡ポリエステルに昔いたでしょう?左右田さんどうしているかって言っていましたよ。お父さんが今回、東京からわざわざ葬儀に来てくれるって言ったら、ぜひお会いしたいとスイットさんが言っていました。お父さんの事をとても尊敬しているって言ってました」

「うん、ありがとう。ここに来る直前にスイットさんから電話があったよ。サマート君から聞いたって。明日の昼に飯を食う事にしているんだよ。その後にタイ亜紡ポリエステルに連れて行ってくれるって。今やタイ亜紡ポリエステルが亜細亜紡績の世界中のポリエステル繊維の基幹生産拠点にまでなっているんだってね」

 源一郎は、好物の蒸したワタリガニの身をホジホジしながら言った。

「それは良かったです。スイットさんは、タイ亜紡ポリエステルに三十年弱勤めていて、その後、バンコクの交通システムの会社を経営しています。

 彼は、いわば元日本留学生たちの親分の一人みたいな人で、七十年代始めに留学生仲間と、タイと日本との経済技術交流を推し進める泰日経済技術交流会の設立に加わっていました。

 最近では、元日本留学生たちの悲願ともいうべき、日本のものづくりを重視した技術大学の設立プロジェクト委員長をやっていて、二〇〇七年に遂に日本の各界の協力を得て『泰日工業技術大学』が開学しました。私も元日本留学生の端くれなので、スイットさんに言われてですがかなり協力して来ました」

 サマートは、得意顔で言った。

「所で、恒久が言っていたけど、おたくのタナーナコンの工業団地って日系企業が凄いんだってね」

 源一郎は、まだ蟹と格闘しながら聞いた。

「ええ、おかげ様でタナーナコンの日系企業の入居者数はおよそ百五十社もいます」

「凄いよね。僕が前回のバンコクから帰任する時だからほぼ二十年前になるけど日系企業は十五社であとはタイの企業が四社だったもの」

 恒久もやはり蟹と格闘しながら言った。

 「総入居企業数は、今や約二百五十社で、一番多いのが日系で全体の約六割になります。業種は、自動車部品関連が最も多くて、全体の約三分の一を占めています。その他、主な業種は家電、電機、化学、消費財、食品などとなっています。

 自動車部品はとても多岐にわたっていて、エンジンやモーター類、プラスチック、ゴム、ベルト、カー・ステレオ、ガラス製品などです」

 サマートは得意気の顔をしながら、ビールをグイと飲んだ。

「そうそう、去年の五月に赤シャツ軍団が、伊勢丹がある辺りでデモをして大勢が死んだり怪我をしたりしたって言っていたけど、一体どう言う事なんだね。黄色いシャツ軍団もいるようだし、恒久に言わせると、要は階級闘争みたいなもんだと言っているけど」

 源一郎は心配顔で聞いた。

「そうですね、一言でいうと階級闘争なんでしょうね。時々恒久君とも議論するんですけど、私が言うのも何ですが、やはり所得の再配分が上手く行っていないんですね。

 タイの場合は、相続税、贈与税、固定資産税、不動産取得税とかがかからないのと、キャピタルゲイン(資産売却益)に対する税率は日本と比べるととても安いんです。ですから、お金持ちはどんどんお金持ちになって行く仕掛けになっているんです。

 この国では貧乏な人は放って置かれていたんですね。と言うのは、これまでズーッと金持ちしか政治家になれなくて、金持ちによる金持ちの為の政治をやってきた結果なんです。その状況は今でもあまり変わってはいません。

 僕自身は、経済成長第一主義で、貧困撲滅の最良の薬は経済成長だと思っています。でも現代の資本主義自体には所得の再配分の機能が内在していないと思うので、政府の役割が重要なんですがね。

 二〇〇一年にタクシンが、例の九七年のタイから始まったアジア通貨危機で、経済の落ち込みによって割を食った農民や都市の中間層の不満を、上手に政策に反映させたと言うと綺麗ごとに聞こえますが、要するにバラマキをやって首相になったんです。タクシンを支持したのは、お金の無い大多数の農民や低所得、貧困階層の人達で、例えば誰でも医者にかかれるように、三十バーツ医療制度などの恩恵を受けた人達なんです。

 で、タクシンは汚職の嫌疑をかけられて、〇六年九月の軍事クーデターで首相の座を追われたんですが、彼を支持する人達が赤シャツ・グループなんです」

 サマートはここで一息ついて、茶碗蒸しを木のスプーンですくって食べながら話を続けた。

「一方、王室、軍、官僚、財界などの既得権益を持っている層が、反タクシン派で黄シャツ・グループなんです。

 そして、その後、既得権益組が政権を握ると赤シャツが騒ぎ、タクシン派が政権を握ると黄シャツが騒ぐと言った図式で、選挙をやれば支持する人数の多いタクシン派が当然勝つことになるけど、黄シャツが空港閉鎖みたいなことをやったり大騒ぎで、結局軍が出てクーデターを起こし政権を転覆させる。そして、選挙をやるとまたタクシン派が勝つと言う繰り返しなんです。なかなか終りが見えなくてね」

「とすると、サマート君は黄色シャツ軍団派なのかい?」

 源一郎も茶碗蒸しを食べながら、可笑しそうに聞いた。

「そうですね、分類するとそうなってしまいますね。何せ既得権益組ですからね。私は別に運動に参加したりはしませんがね」

 と、サマートが言うと、

「じゃあ、資金の提供なんかをしたり?」

 と、源一郎は言ってから、慌てて、ゴメン、ゴメン、答えなくて良いよ、と言って謝った。

 サマートは、笑いながらそれには答えず、説明を続けた。

 それぞれの事件が、タイの民主化への一過程と言うと聞こえは良いですけど、恐らく既得権益を維持する体勢を崩して、富の再配分をやらないとタクシンが一度目覚めさせてしまった農民や低所得、貧困層は、納まらないのではないかと思うんですよね」

 サマートは難しい顔をしている。

「でも、それでは君たち財閥が困るんではないかね?」

「勿論困ります。でも、これからのこの国の将来を考えると、本当の意味の民主化は避けて通れないし、絶対必要な事だと思うんです。タクシンは、これまで恵まれなかった人たちを味方につけたけど、本人がこの国随一の財閥を抱えているので、真の改革はやれなかったんです。

 我々にとって怖いのは、いずれこの国を揺るがす様な大改革をやるような人が出て来ることなんです。そうすると、今の様な、個人の富がどんどんと増えて行くような仕組みで成り立っているような財閥は維持出来なくなります。

 税制改革で私財が無くなってしまうのは個人的には困りますけど、いずれ減って行かざるを得ないのではないかと思います。そうした事態に備えておく必要がありますね。

 親父も亡くなった事ですし、直ぐには難しいですが、少しずつ新しい時代に合わせた企業経営方式に移行して行くつもりなんです。中国には既に投資をしていますけど、日本や欧米諸国への直接投資も考えています」

 サマートの顔は相変わらず厳しい。

「そうすると、サマート君は今の体制は改革すべきだと思っているのかい?」

「そうですね、改革せざるを得ないと言った方が正しいかも知れませんね。恒久君とも議論しているんですが、中間層が大分育って来ているとは言うものの、一部の大金持ちと、大多数のお金の無い人達の体制が、このタイで続かないのではないかと思っているんです。

 勿論、私個人は積極的な改革派ではありませんが、この国が今以上に発展するためには、どうしても避けて通れないと思うんです。

 それと徴税システムの確立と言うか、税金をキチット払ってもらうようにもしないとね。それと難しい課題ですが農地改革もね。

 個人的には、この国の命運は既得権益側ではない、軍の若手が握っているのではないかと思うんです。一番良いのは一気にやると混乱が起きるので、方向性を決めて、徐々に所得の再配分を進めて行くのがいいと思いますが、一気にやらないと治まらないかも知れませんけどね。あと、お話しできませんが王室に関係する所が微妙ですね」

 サマートは、考える様に遠い目つきをした。

「確かに難しい問題だね。で、そのタナー財閥の資産とかサマート君の個人資産がどの位かと言うのは余計なお世話だと思うけど、総売上高は一体どの位なんだい?」

 源一郎は、お茶を飲みながら、遠慮がちに聞いた。

「資産状況はお話しできませんけど、グループ全体の昨年の総売上高は千八百億バーツ(四千億円強)です。傘下の企業数は百社ぐらいですね。

 私がタナー・エンタプライズの社長になった時が総売り上げは八十億バーツ(八百億円)で五十社ぐらいでしたから、ほぼ二十五年で売り上げは二十倍以上、社数では倍増した形になりますね。

 実は、二〇〇八年末に日本とアセアン間の日・アセアン包括的経済連携(AJCEP)協定が発効しました。それから、アセアン自体は、二〇一五年までに『政治・安全保障共同体』、『経済共同体』、『社会・文化共同体』の三本から成る、『アセアン共同体』の実現をめざしているんです。

 我々企業は、こうした動きをフルに活用して、事業を推し進めて行くことが求められています。幸い、恒久君が商社にいるんで、日本側の情報とアセアン側の情報を交換しながら、これからの、アジアだけでなくグローバルなビジネス展開をどうするか議論させて貰っています。

 私も来年は六〇才になりますが、子供がいないのでもう少し今のままで頑張って、いずれはニポンの息子のタニンにタナー・グループの経営権を譲ろうと思っています。それまでにわが国の民主化の方向性を見極め、どうグローバル展開を進めて行くのかある程度の道筋を付けて行ければと思っている所です」

 サマートが顔を引き締めたところが父親のユッタナーにそっくりで、源一郎はハッとした。

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