第八章 デンドロビウム・ファレノプシス(デンファレ) 二〇一〇年

八.一  プララム・シー

 二〇一〇年十月

 オークパンサー(出安居)も過ぎ、そろそろ雨期が終わって乾季に入ろうとしている十月も押し迫った頃、左右田源一郎は、畏友のユッタナー・ラータナワニットの葬儀に出席するためにバンコクを訪れた。

 源一郎は、ランスワン通りにある息子のコンドミニアムのラウンジでお茶を飲みながら、バンコクにこれまでに何度か訪れた時の事や、ユッタナーの事などを思い出していた。

 それにしても、バンコクの発展は驚異的だ。一九六〇年代後半に初めて来た時は、ドンムアン空港から市内へ向かう一直線の道路の両側は、満々と水を湛えた水田がどこまでも広がっていたものだ。八〇年代の半ばになると、日本の援助とは言え高速道路が走り、道の左右には民家や商店が建ち並び、ビルもかなり建ち始めていた。

 所は今はどうだ。バンコク中に高速道路、スカイトレイン、地下鉄などが四通八達し、高層ビルはあちこちに建ち、昔威容を誇っていた寺院はビルの谷間に沈んでしまっている。


 ユッタナーは、二十八歳の時に興した繊維・繊維製品輸入・卸売専門商社と、三十四歳の時に日本の紡績会社や繊維商社と合弁で設立した綿中心の紡績・織布製造会社で富を大きく築いた。

 その資本を元手にグループの持ち株会社である「タナー・エンタプライズ社」を設立。

 日系企業をはじめとした外国資本との合弁などにより、繊維関係はもとより、消費財の輸入販売や製造、米や農産物の輸出、飼料や肥料の輸入販売、輸送・倉庫、不動産、工業団地開発、家電製品や自動車部品の製造など、外資と共にタイの産業構造の変化を上手く先取りして拡大してきた。

 今や、ユッタナーの兄弟や息子たちの企業を含めるとグループ内の関連会社は実に百社を超えているのだ。

 ユッタナーが一代で築いたタナー・グループは、タイでは誰もが知る有数の財閥の一つだ。ユッタナーがグループの基盤を形成し、息子のサマートが経営を近代化すると共に、さらに多角化し拡大したのだ。

 ユッタナー一代の成功物語がそのままタイの経済発展と軌を一にしていると言って良いであろう。

 ユッタナーが亡くなった事でタイの一つの時代が終わり、これからは彼の息子のサマート達の若い世代が引き継いで行き、新しいタイを生んでいく事になるのであろう。

 源一郎は、ユッタナーとはそれほど頻繁に会う事は無かったが、常に尊敬する兄貴分として大切に思っていた。彼が亡くなって一抹の寂しさを感じているが、彼のような素晴らしい友人を持っていた事を誇りに思っている。

 ユッタナーの葬儀は、バンコクのビジネスの中心街から2キロほどの所の、それこそビルの谷間にあるワット・チアランポーンで執り行われていた。


 ワット・チャアランポーンは、バンコクの中心街を横断するように走るプララム・シー(ラマ四世通り)沿いにある、比較的新しい華人系の寺院である。人々がタンブン(お布施)をすることで有名なお寺でもある。

 タンブンは「徳をなす」と言った意味で、徳を積む事によって来世に良い報いが返ってくる事を期待して行うものだ。

 この通りを挟んだ南側にタイで最高峰の一つとされているチュラサート大学の広大な敷地が広がっている。

 タイの葬儀は、通常日本で言うお通夜を何日か続けて行い、最後の日に告別式を行うと言う方式で、短くて三日、長くて九日と奇数の回数で行われる。

 ユッタナーの葬儀は七日間行われるが、源一郎と恒久が弔問に訪れたのは、故人と親しかった友人一同が主催する五日目の夕刻であった。お通夜の葬儀は親戚、会社関係、友人など日によってそれぞれが主催して行われることになっている。

 ラマ四世通りから、左右に向き合った等身大の象の塑像と、金ピカに飾られたアーチ状の山門を車のまま入ると直ぐに駐車場がある。入って右手正面に立派な本堂がそびえ、左手と本堂の奥には葬議場が並んでいる。

 この寺院は伝統的なタイの寺院建築様式で出来ており、本堂正面の切妻壁には羽を広げたガルーダとこの寺院の紋章が飾られてある。切妻屋根の棟の端のそれぞれには、天に向かって突き刺す様な、鋭い剣様の「チョーファー」と呼ばれる棟飾りがインドシナ半島の仏教建築の特徴を現しており、多層式の三層の屋根はこの寺の格の高さを表している。


「ナイハン(旦那様)、こちらです」

 源一郎と恒久が、車を降りてどの葬儀場かとキョロキョロとしていると、運転手のカンパーンが降りてきて、本堂の裏手にある一等格式が高そうで規模の大きい葬儀場に案内してくれた。

 正面の白の横断幕に墨で「羅愈戴老先生治喪處」と達筆な中国語で書かれている。 

 入り口で、お香典の二千バーツと、予めカンパーンが用意してくれたプラスチックのバケツに、僧侶の生活用品や僧衣用のオレンジ色の反物が入っているお供えを渡して中に入った。日本の様に記帳するところは無い。タイではお香典とお供え物は、お寺にタンブンとして渡すもので、遺族に渡すものではなく、入り口で受け取ったお香典とお供え物は後で僧侶に渡すそうだ。

 葬議場は、入り口近くから中央の通路を挟んで左右に七~八列にそれぞれ八脚ずつスチールの折り畳み椅子が並んでいるが、途中からはゴザが敷かれている。親族らしい人達六、七十人ほどが、正面の祭壇に向かって左側のゴザに座っている。反対側の親族たちに向い合う所に壇が設えてあり、その壇上で、橙色の僧衣をまとった九人の僧侶が、それぞれ高低はあるが音吐朗々たる声で既に読経をあげていた。

 室内は冷房が良く効いている。この時期のバンコクは、夕刻とは言え昼間の暑気がまだまだ衰えていない。

 二人が椅子席の最前列に差し掛かるところで、今やタナー財閥の堂々たる総帥であるサマート・ラータナワニットがいち早く気が付いて近づいてきた。

「お父さんお久しぶりです。わざわざ東京から有り難うございます。恒久君も有り難う」

 サマートは、控えめに微笑みながら挨拶をした。

「いやー。久しぶり。お父さん残念だったね。ご愁傷様」

 源一郎は手短に挨拶を返した。

 日本で左右田家に下宿していた留学生時代は、痩せた苦学生と言った風情のサマートであったが、年を取るにつれて、段々とユッタナーに似て来て恰幅が良くなり、今や還暦を迎えようとしている歳になって、いかにも華人の「お大尽」といった風貌に変わって来ている。

 サマートが引き上げると、代わりに目を真っ赤に泣き腫らしたユッタナーの養女のナンタワンが娘のドゥアンチャイを連れて近寄って来て、鼻声で挨拶した。数年もすれば五十才になろうと言うナンタワンだが相変わらずの佳容を保っていた。

「今日は有り難うございました」

「やーどうも。ご愁傷様です。残念でしたね」

 恒久がやや緊張の面持ちで応答した。

「こちら、父です。こちらユッタナーさんのお嬢さんのナンタワンさんです。ドゥアンチャイさんは知ってますよね」

 恒久は両者を紹介した。

「どうもこの度はご愁傷様です」

「どうも、わざわざ東京からお越し下さいまして有り難うございます」

 大変に流暢な日本語だ。

「いつも香菜さんにドゥアンチャイがお世話になっています。時々、香菜さんのお宅やお父様のお宅に招いていただいているみたいで、本人はとても喜んでいます」

 ナンタワンはドゥアンチャイを見て同意を求めるようにしながら言った。

「ええ、家にもドゥアンチャイさんは時々遊びに来てくれてね。来てくれると、タイの食材を持って来てトムヤムクンとかタイ料理を作ってくれるんで楽しみにしているんですよ。今度日本にお越しになった時はお母さんも家の方に来てください。いや、タイ料理を作ってくれとは言いませんから」

「ありがとうございます。今度、東京に行った時は寄らせていただきます。それでは」とナンタワンは言って、ドゥアンチャイと養母のマライの所に戻って行った。 

 親族席の最前列の正面の、お棺に最も近い所に座っている本妻のユッピンの右隣に、第二夫人のマライがすわっており、左隣にサマートの母である第三夫人のパッサミーが座っている。

 ユッタナーの様な世代の大金持ちに、妾が二人しかいないというのは、タイでは珍しいと言える。華僑や華人の大金持ちの葬式に第十夫人ぐらいまでがズラリと並び、子供、孫、ひ孫など、当人の血を分けた者たち合わせて百人近いという光景は、最近でもたまにあるらしい。


 近年は経済発展と共に随分と意識が変化してきており、妾を持つと言う風習は少しずつは廃れてきてはいるようだ。だが、都市部と農村部の所得格差は依然として大きく、金持ちが貧しい娘の面倒を見るというのは、タンブン(徳を積む)の精神だなどと都合の良い解釈をする輩もいる。

 こうした風習は、所得格差だけで説明は出来ないが、経済的理由がある事も否定は出来ない。一方で、何事にも「ゆるい」タイ社会において、良い意味でも悪い意味でもその「ゆるさ」が存在する間は、こうした風習はすたれないのかもしれない。タイを訪問した人達は、男女を問わずおしなべてタイのフアンになってしまう事が多いが、こうしたタイ社会の「ゆるさ」が、人々を惹きつける要素の一つなのではないだろうか。


 目の前では、ジュート麻で出来た三角帽子と、同じ麻の簡単な羽織の様な如何にも粗末に見える物をつけた老若男女二、三十人が、お葬式のしめやかさとは縁遠い賑やかさで、「紫色の蘭」のデンファレ(デンドロビウム・ファレノプシス)で飾られているユッタナーのお棺の周りを回っている。

 親族の真ん中に座っている、いかにも剃りたての坊主頭の二十歳すぎと見られる立派な青年がいたので、恒久に誰かと聞くと、ユッタナーの長男のニポンの実の息子のタニンだという。誰かの葬式の時には、親族の中から一人坊主頭になるのが習わしだそうだ。

 源一郎は年格好から言って「あの彼」ではないかと思った。孫のさなえがバンコクにいた時に、ユッタナーの孫と時々会っていたと言う話を恒久から聞いていたからだ。

 葬儀場の外に出ると、サマートがお金に擬した紙片を火が燃え盛るドラム缶に入れて焚き上げるようにと、どさっと渡してくれた。死者が死後の生活に不自由しないようにと言う事らしい。焚火の脇には紙で出来た家やビルディング、自動車などやあの世での生活必需品が並べられており、これも火にくべるのだと言う。

 それにしても、ユッタナーに初めて出会ってから四十年以上も経っている。

 源一郎はこれまでのユッタナーとの友誼を思い出しながら、千バーツと印刷してあるお札に擬せた紙をぶ厚い束から数枚づつ抜き取って燃え盛る火にくべた。

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