七.五 コベントガーデン(ロンドン)
左右田さなえが、両親と一緒にサマート・ラータナワニットから聞いた、ニポンの死についての後日談はこういう内容であった。
心ならずもヤクザな道に入り込んでしまい、父親のユッタナーから勘当されてしまった長男のニポンは、それでも何とか堅気の道に戻ろうと、バンコクやパタヤなどでのコンドミニアムへの投資、ゴルフ場とゴルフ場に隣接した分譲住宅プロジェクト、ビジネス用ビル建設と管理会社の運営などの、真っ当なビジネスに手を広げ、やくざな裏社会のビジネスから少しずつ手を引こうともがいていた。
サマートからの借金は十年かけてすっかり返済したうえに、上手く景気の波に乗って堅気の事業を拡大して来たが、一度入ってしまった裏街道から抜け出る事がなかなか出来ずにいた。
ところが、最近になってついに意を決して無理やり手を引こうと、ある組織に子分と共に自分の縄張りを渡した所、その組織に対抗する別の組織の恨みをやはり買ってしまった。ニポンが縄張りを渡した方の組織が大きくなって、勢力バランスが崩れてしまったからだ。
「サマート、今、妻のニラモンとシンガポールに来ているんだ。悪いがこの週末、時間があったらシンガポールまで来られないか?」
二〇〇七年に年が改まって二週間ほどしてから、ニポンがかなり切羽詰った声でサマートに電話をして来た。どうやら、命を狙われているらしい。その週の週末の夜にラッフルズ・ホテルのロング・バーで会う事にした。
サマートが、ホテル二階のロング・バーに入ろうとした所、横合いから出て来たニポンにむんずと腕を掴まれた。観光客でひどく混んでいるので、メイン・ロビーの所にあるライターズ・バーに場所を移す事とした。この宿泊者用のバーには、そこここに英国人の文豪のサマーセット・モームの写真がかけてある。
「悪かったな、わざわざシンガポールにまで来て貰って」
ニポンは柄にもなく恐縮した顔で言った。
「そんな事より、オヤジも心配していたぞ。どんな状況なんだい?ここは安全なのかい?縄張りを『潮義堂』なんかに渡したりしないで、部下の誰かをニポンの座に座らせれば良かったんじゃないのかい?そしたら、恨みを買う事も無かったんじゃないの?」
ニポンは、サマートの矢継ぎ早の質問にも悪びれず、申し訳なさそうに頷きながら、「うん、オヤジにはお前から謝っておいてくれよ。それと心配ないって言う事もね。電話でちょっと説明したけど、どうやら怒らせてしまった『和青和』と言う組織の奴らが、刺客を放ったったらしいって言うんだ。ここもいずれは見つかってしまうかも知れないので、来週にはここを引き払ってひと月ほどあちこち回って足跡を消してから、ロンドンに落ち着こうと思っているんだ。タニンとシーリンがあっちにいるしね。もっともタニンは息子と言っても親父の籍に入っているけどね」と言って、寂しそうに彼の好きなカミュのXOのオンザロックをひと口飲んでから話を続けた。
「そのタニンは半年もすればロンドンの高校を卒業して、バンコクに戻ることになっているんだ。それからシーリンの方は、ほらいつだったかな昔、ソイ・トンローの家に来てもらった時に、アラヤーと女の赤ん坊がいただろう?その子は今や大学生でね。この子も再来年にはロンドンの大学を卒業するんだが、ロンドンに残って就職したいと言っていてね」
子供の話になるとすっかり顔の筋肉が緩んでいる。タニンはニポンの本妻のニラモンとの子供で、かなり年が行ってからやっと出来た子供である。所が、ヤクザな父親の子供では将来困る事があるだろうと言う事で、父親のユッタナーが自分の養子にしたらどうかと言って来た。始めのうちニポンは、勘当までした上に息子まで取り上げるのかと強く反発したものの、結局は息子の将来を考えて賛成したのであった。
母親のニラモンはシーロムのユッタナーの屋敷にタニンと一緒に住み込み、スクンビットのニポンの所と行ったり来たりするようになった。ニラモンにしてみればニポンは殆ど妾のアラヤーの所に入り浸っているので、自分は息子のそばにいることが出来るのであれば、何処にいてもあまり変わらないからとの事で賛成したのである。
「お前の言う通り俺の代わりに誰かに跡目を継がせれば良かったんだが、前にも話したことが有ったけど、堅気の世界に戻ってからもアイツの組織だっていつまでも後ろ指差されるのが嫌だから、大きい所に引き取ってもらって、俺の組織を雲散霧消させたかったんだ。
そう言う事もあって、期待を持たせないように、子分達を誰もがどんぐりの背比べみたいに扱って来たんだ。
ただ、縄張りを潮義堂に譲ったから怒らせてしまっただけではなくて、実は以前部下が俺の許可を得ないで和青和の者を殺ってしまったんだ。ほんの些細な喧嘩かららしいがね。その上、縄張りの件があったんで、決定的に許せないとなってしまったんだ。殺った奴を差し出せばその件は許すが、縄張りの件は許さないって言っていてね。勿論、そいつを差し出したら殺られちゃうんで、南の方に逃がしたよ。捕まらないと良いんだがね」
「今や兄貴の組織は潮義堂に移っているんだから、和青和はそっちに言えば良いんじゃないの」
サマートが聞くと、「和青和も潮義堂もヤクをやっていて、うちと違ってかなり大きな組織だし、和青和は広州系で潮義堂は潮州系なのでぶつかり合うと大抗争に発展してしまうんだ、だからお互いに手出しできないし、責任者の俺に落とし前を付けさせると言って来ているんだ」と困り顔のニポン。
「サマート、それでお願いなんだ。これ、バンコク銀行の貸金庫の鍵と委任状だ。貸金庫には遺言状も入っている……」
「おいおい、冗談だろ。死ぬと決まったわけではないだろうに、ちょっと気が早いんじゃないか?」
「サマート!悪いが頼れるのはお前しかいないんだ。それに正直、俺はかなり危ないと思っている。何にもなければまた返してくれればいいんだよ」
ニポンは何時になく大変に真剣な表情である。
「裏の稼業で貯めたお金は、半分は子分達で山分けして、後の半分は潮義堂に持参金として持たせたよ。そっちの方はお前には関係は無いんだけどね。
それで、まともな事業についてなんだが、悪いがサマート、当面俺が帰って来るまでの間だけど目配せしておいてほしいんだ。それで万が一俺に何かあったら息子のタニンが一人前になるまで、おまえが面倒を見ていてくれると有り難いと思っているんだ。タニンが成人したらまともな事業は全て引き継いでもらうように書類は整えてあるんだよ」
ニポンがどうも本気の様子なので、サマートは話を聞きながら分かったと言う素振りでうなずいた。
「それと、不動産や預金の類についてはタニンと妻のニラモンにはそれぞれ三分の一を、それから、アラヤーと娘のシーリンには、残りの三分の一を残すようにしているんだ。全てお前も知っている弁護士のワンチャイに話してあるんで、彼と連絡をとってもらえば分かるようにしてある。それと一般的な事務はワンチャイがやってくれることになっているから、サマートは判断だけしてくれればいい様になっているんだ」
ニポンは、懇願するような顔になっている。
「分かったよ、ニポン。それじゃあ帰って来るまでぼくが面倒を見ておくよ。所で、僕にはどうも子供が出来そうもないんだ。いずれは僕の後継者を決める事になると思うんだけど、親戚中を見渡していてどうもタニンが最も適任ではないかと思っていてね。勿論タニンはまだ学生だから大分先の話だけど」
するとニポンは、オウと言う顔をして嬉しそうな顔になったかと思うと、次の瞬間その顔がゆがみ、横を向いてあふれ出た涙をぬぐった。
「ニポン、ロンドンに行ったらお互い直接連絡を取り合ったりすると危険だから、今メモを書くからその人を介して連絡をするようにしよう。それから、タニンはこれから僕の家から大学に通わせるようにしたいけど、本人が良いと言ったらそれで良いかい?出来ればグループの跡継ぎとして育てたいから」
二人は、ライターズ・バーでしばらく無言で飲んでから別れた。
ニポンとシンガポールで会ったほぼ十ヶ月後(二〇〇七年一〇月)、サマートが役員連中を前に、アメリカの住宅バブル崩壊の影響を如何に最小限に抑え込むかを話している最中に、ニポンの妻のニラモンから至急の電話があった。
なんとロンドンでニポンがナイフで刺されて重体で、ロンドンの病院に入院しているとの事であった。
サマートは何はともあれ、ニポンの息子のタニンを連れて、ビッグベンのある英国国会議事堂のテームズ川の対岸にあるセント・トーマス病院に駆け付けた。タニンは、日本で言う所の中学からロンドンに留学しており、数か月前にロンドンにあるストラットフォード・カレッジ(高校)を卒業してバンコクに戻り、タマロンコン大学に通っている。
サマート達が到着すると、病室の前にいたニラモンが息子のタニンを見るなり、泣きながら駆けよって抱きついたかと思うと、その場に膝から崩れ落ちそうになったので、タニンが抱きかかえて長椅子に座らせた。それまでは何とか気を張っていたが、息子の顔を見たとたんに気が緩んだのであろう。
ニポンの第二夫人のアラヤーの娘のシーリンが病室から顔を出し、二人の隣に座り、ニラモンの背中をさすり始めたが、彼女自身も血の気を失った白い顔で目を赤くはらしている。
シーリンは高等学校時代からロンドンに留学していて、現在はロンドン大学の二年生だ。タニンより三つ年上のシーリンは、休日等にはタニンの面倒をよく見ていた。
第二夫人のアラヤ―は、正妻のニラモンに遠慮して来なかった。
少し落ち着いてきたニラモンは、事の経緯をサマート達にポツポツと話し始めた。
コベントガーデン近くのニール・ストリートにある、キノコを使った料理が特色のイタリア料理店でお昼を食べようと、ニポンとニラモンは、昼少し前に、ロンドンのウエストエンドの高級地区である、メイフェアーのサウス・オードリー通り沿いにある自宅のフラットを出た。
通りを少し南下するとカーゾン通りに出る。そこを左折すると、ニポンが時々遊びに行くカジノがあり、その隣の三階建の建物の壁一面に見事に紅葉している蔦が垂れ下がっている。
カジノの斜め前のレコンフィールド・ハウスはかつては英国の国内の秘密諜報を担当しているMI-5のアネックスがあったところだ。ちなみにジェームス・ボンドで有名な海外の秘密諜報の機関の方はMI-6である。
カジノと言ってもカジノと書いてある看板が出ているわけでも無く、外から見てもただの建物だが、夜の帳が下りると道路沿いにロールスロイスや、ベントレーなど高級車が道路沿いに並び、時々アラブ風の衣装の紳士が出入りしているので、高級なカジノである事が窺われるのだ。
その先のカーゾン・シネマのビルに差し掛かった辺りで、アジア人風の男が数十メートルほど後ろを歩いているのにニポンが気付き「嫌な予感がする」と言ったが、シェファード・マーケットを過ぎ、ハーフ・ムーン通りからピカデリーに出た頃には男は見えなくなっていた。
ピカデリー線のグリーン・パークで地下鉄に乗り、マイフェアレディーで名が知れているコベントガーデンで降りて大通りに出ると、人通りが多くノロノロと二人が歩いていたところ、アジア人風の男がニポンに横から急にぶつかって来て足早に去って行った。
男は一人であった。後で思い起こしてみると、家を出て少しした時に後ろからついて来た男ではないかとニラモンは思っているようだ。
ニポンは何が起こったか直ぐには気が付かず、七、八歩、歩いた所で急に横っ腹を抑えて倒れ、やっと腹を刺された事に気付いた。
救急車でセント・トーマス病院に運ばれた時は、既に意識を失っていて、それ以来意識は戻っていない。ニポンは意識を失う前に、きっと「和青和」の連中の仕業だろうと話していたそうだ。
ロンドンには中国人系のマフィア組織が多くあり、和青和はそうした組織と麻薬がらみの関係があると言う噂はあったのだ。ニポンは子供たちの留学先と言う事でロンドンに逃れて来たものの、結局は中国系マフィア連中のネットワークに引っ掛かってしまったのだ。
医者に容体を聞くと、ここ二、三日が山と言われた。普段涙を見せないタニンだが、流石に今回はこたえるようで、目を赤くはらしていた。
投宿先のメイフェア―地区にあるコンソート・ホテルに入った所で、病院から至急戻る様に連絡があったので戻った所、病室で若い医者が汗びっしょりになりながら、ニポンの心臓蘇生を試みていた。既に心臓は止まってしまっている様で、数分して医者が残念だが亡くなったと死亡を宣告した。
ニポンの葬儀は、中華街にある龍照寺と言う小さな中国式の寺でひっそりと親族だけで五日間とり行われた。
齢八十八才のユッタナーは毎晩葬儀に参列していたが、往年の面影は失せ一回りも二回りも小さく見えた。
誰よりも悲しんだのは、一九八〇年に勘当してしまって以来ほとんど会っていなかった、父親のユッタナーであったのかもしれない。
ユッタナーの枯れ木の様な体が時折すすり泣いているのか、細かく震えていた。
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