七.四  カオサン

 二〇〇八年十月

 バンコク駐在二度目と言う事もあって、左右田恒久家族が赴任して来てから、取り立てて大きな問題もなく、既に一年が経過している。

 ひまわりの花が咲き始め、朝からすっきりと晴れ渡って、鼻腔をくすぐる空気に心なしか乾季の気配を感じるようになったとある週末—―。

 左右田さなえは、タニン・ラータナワニットとカオサン地区のランブトリ通りにあるタイ飯屋で昼食をとっていた。

 話しは今からほぼ半年前にさかのぼるが、さなえにタニンから電話があったのだ。用件は、今度の週末にお昼でも一緒にどうかと言う事であった。

 タニンは、ユッタナー・ラータナワニットに勘当された長男ニポンの一人息子だ。だが、勘当されたヤクザ者の息子では将来困ることになるだろうと言う事で、ユッタナーが自分の養子としたのだ。彼は、中学、高校とロンドンの寄宿学校に留学していたが、昨年七月に帰国後、タマロンコン大学の経済学部に入学しており、現在は二年生になったばかりだ。

 さなえはISB(インターナショナル・スクール・オブ・バンコク)のハイスクールの二年生に既になっている。

 さなえがタニンと初めて会ったのは、昨年彼の父親がロンドンで亡くなってしまったので、お悔やみにユッタナーの家に両親に連れられて行った時である。彼の父親の葬式は親族だけで行われたので、さなえや両親は全てが終わってから知らされたのであった。

 その後に、さなえが両親と一緒にシーロムのサマート・ラータナワニットの家に食事に呼ばれた時にタニンも同席していたが、彼とは会話を多少交わしたぐらいであった。

 そう言った程度の関係であったので、突然の電話でお昼を一緒にしたいと言われたさなえは、「 why(なんで)?」と言ってしまった。

「エッ、あの……」

 タニンは言葉に詰まった。

 直ぐにこれはデートの誘いではないかと気が付いたさなえは、「ごめんなさい、ちょっと突然で思いがけ無かったので、後でこちらから電話して良いですか?」と言って電話を切った。

《あれはきっとデートの誘いだわ》

 さなえはドキドキした。悪い気はしなかった。これまで学校の授業に追いついて行くのに必死で、正直デートどころではなかった。

 しかし、タニンとは全く知らない仲ではないし、財閥の御曹司であると言う事に興味は勿論あったが、むしろ父親を亡くして可哀そうといった同情心があったので、ちょっと付き合ってみようかなと言う気持ちになっていた。

 そこで、母親に一応相談してみると、「ふーん、知らない人では無いし、素性もはっきりしているし良いんじゃないの」とあっさり了解してくれたのだ。

 二人だけで会ってみるとタニンは優しく、特に彼の英語が心地よかった。英国「訛り」と言うと、英語のご本家の英国に悪いが、アメリカ英語が氾濫しているタイで正統派の英国訛りの英語を話すタニンの口調は、幼い頃にロンドンにいた事のあるさなえにしてみれば大変耳触りが良かった。アメリカ英語はさなえには、どうしても丁寧さに欠けて聞こえてしまうのだ。

 それ以来、時々、タニンに連れられてバンコクのあちこちを案内して貰っているが、今回はさなえがぜひ世界の「バッグパッカーの聖地」と言われる、カオサンに行って見たいと言って連れて来てもらったのだ。

 もっとも、カオサン通りは観光客でごった返していて落ち着かないので、昼間は比較的静かなこちらの「チャナソンクラム寺横丁」でまずは昼食をとることとしたのだ。


 チャナソンクラム寺院の三方をぐるりと取り囲むようにしているランブトリ通りの事を、さなえの母親が「チャナソンクラム寺横丁」と呼んでいたのだ。

ランブトリ通り自体は、さらに南東方向に続いている。

 このランブトリ通りは、かつてはチャナソンクラム寺院運河と運河に沿った道路があったが、さなえの祖父の源一郎が四十年ほど前に出張で来た時に、この通り沿いのビエンタン・ホテルに泊まったが、その時には、既に運河は埋め立てられ道路だけになっていた。

 二人がいるタイ飯屋は、店先に出してあるアルミのトレーやボールに盛った出来合の肉や魚、野菜などの料理をご飯と共に適当に皿に盛ってもらうという、屋台の食べ物屋に毛の生えたような食堂だ。食事をする場所は、通りの反対側のチャナソンクラム寺の塀際に沿った木陰になっている道路際で、大きなパラソルに覆われたアルミ製の数脚のテーブルと椅子が設えてある所でだ。

 この通りはカオサン通りと比べると、お寺の木々が生い茂り、店も蔦類などを店頭に垂れ下げたりと、運河の名残もあって緑が多く、潤いがあって居心地が良い通りとなっている。


 車を降りて歩き始めてから、さなえがあちこちの店や食べ物屋に引っ掛かりそうになると、タニンに「腹ごしらえをしてからゆっくり見ればいいじゃないか」と言われ、兎も角この食堂に落ち着いた。

 料理は、タニンが一度来た事があり味はまずまずと言うだけあって、油っこ過ぎず、辛過ぎず、お米もパサパサ過ぎずで美味しい店と言って良い。

「あれっ、タニン、これ食べないの?」

 さなえが、これ辛そうで美味しそうと言って自分の皿によそった真っ赤な唐辛子にあえた鶏の唐揚げを指しながら言った。

 タニンは、「うん、それって物凄く辛そう」と言って顔をしかめた。

 タニンは華人である為か、ロンドンに長くいたせいか、辛いのが苦手で、さなえは、「タイ人なのに」と言って時々からかっている。もっとも、最近の若いタイ人も辛いのが苦手と言う人が増えているようではある。

 腹ごしらえが済むと、目指すはカオサン通りだ。早速さなえは、食堂の隣のTシャツや旅行カバンを売っている店にタニンを店先に待たせて入り込んだ。物憂げに近寄ってきた若い女性の店員に、さなえは英語でこれは幾らか、あれは幾らかと、Tシャツを指差して聞いていたが、ありがとうと言って店から出て来た。

「Tシャツが欲しかったの?」と、タニンが聞いた。

「うんん、幾らぐらいするものか値段が知りたかっただけなの。この辺りは観光客向けで、チャトチャック(ウイークエンドマーケット)とかプラトゥーナム(衣類、装身具などの市場)とか、大きいマーケットに比べると高いって聞いたもんだから。確かに結構高い事言っていたわ。」

 あちこちキョロキョロ見ながらさなえは答え、「タニンは、Tシャツとか買う時は普段は何処で買うの?」と聞いてみた。

「マーブンクロンかな。トウキュウー(東急)デパートが多いけど。あと、ちょっとしたものはサイアム・パラゴンだね」

「そうなんだ……。やっぱりタニンってお金持ちなんだねー。こういう所で何か買うことってないの?」

「よっぽど気に入ったのがあればそれは買う事はあるよ。でもめったに無いけどね」

「そうなんだ。あっセブンイレブンだ、ミネラルウオーターを買わなくっちゃ」

 さなえは、そこで待つように手でタニンを制し、水を買って来て一本タニンに渡したかと思うと、額の汗を手で拭いながら足裏マッサージ屋の前で立ち止まり、メニューを見ながら「ここはさっき来るときにあったマッサージ屋さんより結構高いわね」と笑いながら言った。

「あれ、ここにもセブンイレブン」とまたさなえは言いながら、ランブトリ・ビレッジ・インを通り過ごしたところのCDやDVDを売っている店で止まり、CDをひとしきり物色していたが、「お待たせ」とタニンに言ってまた歩き始めた。

 暫く歩き、大通りのチャクラポン通りに突き当たる少し手前の道路際に、オープンテラスを設えてある小さなホテルに差し掛かかった所で、さなえはまた立ち止まった。「ちょっとどんなホテルか見てみたい」と言いながら、ホテルの中に入った。

 タニンは黙って後ろからついて来る。

 レセプションにいる髪の毛がチリチリになって爆発したような髪型の中年過ぎの女性が、さなえを見るなり、「ノー・ルーム」と言って全く取り付く島が無かった。するとさなえは、それにもめげず「次に来た時の参考に部屋を見せて欲しい」と言うと、いかにも面倒くさそうに「空いている部屋が無いから見せられない」と爆発頭、「いやドアの所からちょこっと覗き見ればいいから」と、さなえ。

 何度か押し問答の末、では今外出している人の部屋を見せるから、といかにも不機嫌そうに爆発頭が言って、後ろの壁にかかっている部屋の鍵を取って案内してくれた。

 部屋の客が帰って来ると面倒なので早く、と言いながら見せてくれた部屋は、ワンルームタイプで、扇風機のみでエアコンアン無しの、せいぜい十平米の部屋に一畳ほどのシャワールーム兼トイレが付いている。シャワーは温水だそうだ。


 この辺りのカオサン地区の安宿だと、共同トイレに共同シャワーと言うのが多いが、ここは室料が少し高めのゲストハウスだ。シャワー室と言っても、一畳間のトイレにシャワーがくっついていると言った方が正確であろう。日本のビジネスホテルのユニットのバス・トイレから、バスタブを抜いたような物で、シャワーを使うと近くにある洋式便器も何もかもがすっかり水浸しになってしまうが、全て洗い流せて返って清潔で良い。トイレの事をタイ語で「ホング(部屋)・ナーム(水)」と言うが、文字通り「水部屋」だ。


 爆弾頭の受付の女は、嫌な顔をしつつドアの外からではなく部屋にまで入って見せてくれつつ、「予約をしておかないとなかなか部屋が取れない、いつここに戻ってくるのか」と、タニンの方をチラチラと見ながら聞いた。

「まだわからないけど、今度バンコクに来るときは予約するから、ホテルの名刺を頂戴」と、さなえはさらりと受け流した。

 外に出てからタニンが、「本当にここに泊まるつもりなのかい?なにか疑っているような顔を彼女していたけど。それと僕をジロジロ見てお前何者って顔していたよ」と、ニヤニヤしながら言った。

「もちろん泊まる気は全然ないわ。あ、やだ、タニンと二人で泊まると思ったのかしら。それにしても、女の人が一人では危なそうな所よね。タニンの事は、何処の国の人と思って見ていたのかな。日本人に見えるしね」と、タニンの顔をとくと見た。

 タニンは、タイ人の男性にしては色白で、髭が濃い目のせいか髭剃り跡がやや青くなっているし、どちらかと言うと長めの顔だ。

 タニンは、さなえが特に買うつもりも無いのに片っ端から店に入って値段を聞いたり、それこそ泊るつもりも無いのにホテルの部屋を見せて貰ったりしているのを、面倒くさがらずに、辛抱強く見守る様に笑顔で付き合ってくれている。

 さなえは普段、一人では店に入って冷やかすようなことはしないが、誰か一緒にいると急に大胆になったりすることが有る。特に、タニンの様に年上で強力な後ろ盾がいたりすると怖いもの知らずになったりする。

 チャナソンクラム寺を右手に見ながらランブトリ通りを右折してチャクラポン通りに入って、やはり寺院を右手に見ながら暫く歩くと、寺院の入り口が現れる。


 タニンによると、チャナソンクラム(勝つ・戦い)寺院は、アユタヤ時代に建てられた寺院だが、十八世紀にビルマ(現ミヤンマー)との戦いでの三度の勝利を記念して王室寺院として復元されたもので、「戦勝寺」の名の通り、お参りをすると困難に打ち勝つことが出来ると信じられている。特に年末年始に、地元の善男善女が大勢お参りに訪れるお寺として有名だそうだ。

 お寺が途切れた辺りの丁度左手に、カオサン通りが現れる。

 カオサン通りの店舗やレストランなどの「看板」は殆どが英語で、人の目にとまろうとそれぞれが競争するように、道路に無秩序に突出している。この無秩序さはアジア的渾沌そのものを体現しており、その渾沌が旅人を砂糖に群がる蟻のように引き寄せているのだ。

 カオサン通りの道幅は歩道も入れると二十メートルを優に超える通りだが、歩道の殆どの部分は、両側とも店舗がせり出して商品を置いたり、飲食店はテーブルや椅子を置いたり、屋台が店を広げたりしていて、建物側にかろうじて人が擦れ違うのがやっとのスペースを残しているだけで、殆ど歩道の用を足しておらず、いきおい人は車道を歩かざるを得ない。

 夜は通り全体が歩行者天国になるが、昼間は車、バイク、屋台と入り乱れての「歩行者地獄」状態である。たまに歩道に何も置いていない広々とした所があるが、それは駐車場の入り口だったりしている。

 通りの両側の建物は、高いビルでもせいぜい六階建てで、三、四階建が多い。


 早速さなえは、チャナソンクラム警察署前のほぼ常設の果物屋の屋台で、ドリアンやマンゴーの値段をチェックした後、サンダルやゴム草履売りのお兄さんに、黄色と赤の派手な縞模様のゴム草履を指して「アンニータオライカ(これ幾らですか)?」と聞いた。さなえの通っているインターナショナル・スクールでは、週一回一時間ほどだがタイ語の授業があり、数や簡単なタイ語は一応出来る。

 お兄さんは、計算機を取り出して三百バーツと打ってさなえに見せた。さなえは、ひどく怒った様な顔をして計算機を奪い取り、八十と打って返した。お兄さんは呆れたような顔でさなえを見て二百五十と打った。

 さなえが全く話にならないと言った風情で、顔を横に振りながら店から出て行こうとすると、彼は二百と打って見せた。さなえが怒った顔でタニンを促して店から出て行こうとすると、今度は、彼が「ユー・ハウマッチ」と言って計算機をさなえに渡そうとした。さなえが手を横に振り要らないと言う素振りをすると、彼は、オーケー、オーケーと言って八十と打って見せた。

 横で微笑みながら成り行きを見ているタニンは、買う気も無いのにさなえはどうする気だろう、相手はさなえの始めの言い値まで下げてきたのだ、ここで買えばいいが要らないと言えば、何だ買う気も無いのに冷やかしやがってと言って、怒られてしまうのではないかと言ったような緊張した面持ちで見ている。

 するとさなえは、「ユーは私を怒らせてしまった、アンビリーバブルだ。初めに三百と言ったり二百五十と言ったり貴方は私を馬鹿にした、それで今度は急に八十だって?ふざけないで頂戴ね」と、英語でまくしたてたのだ。

 お兄さんはさなえが何を言っているのか理解していないようだが、彼女の剣幕に気押されたのか悲しそうな顔でタニンの顔を見た。

 すると、さなえは大笑いしながら「オーケー、オーケー百バーツ」と、言って財布から百バーツ札を出して、お釣りはいらないという仕草で渡すと、お兄さんも笑いながら、「オーケー、オーケー七十バーツ」と言って三十バーツのお釣りをくれたのだ。

 タニンは、両者の大人の対応に感心したような顔で見ていた。

「あそこに、ゲスト・ハウスがあるけど見て行かないの?」

 と、通り沿いに面して客室の窓が並んでいる建物を指して、タニンが茶化した様にさなえに聞くと、

「この表通りのうるさい音が聞こえてくるような所は嫌だわ」

 と、真剣な顔をしてさなえが答えた。

「えーっ、本当に泊るつもりなの?」とタニンが聞くと、

「別に泊まる気は全然ないけど……。あんなうるさそうな所は嫌だわ。さっきのランブトリ通りの所は部屋が奥まった所に有って静かそうで良かったわね」

 と、さなえが澄まして答えた。

 さなえは、泊るつもりはなくっても、広いメインストリートに面していて音楽や人々の歓声で騒がしそうな所が幾らしようが全く興味が無かったのだ。

「美味しそう、このパッタイ!」

 さなえは、リアカーを改造した小さな屋台の前で止まった。せいぜい中学生ぐらいの女の子が顔中にかいた汗を、首からかけたタオルで時々拭きながら、一生懸命クイッティオ・パッタイ(通称パッタイ)を炒めている。


 パッタイは、米緬(クイッティオ)を使ったタイ風焼きそばで、一番細い緬がセンミー、中細がセンレック、太麺がセンヤイと太さの違う緬を好みで選べる。

 黄色いバーミー(卵・小麦粉緬)もある。主な材料は、緬の他に、卵やエビあるいは豚肉の薄切り、もやし、ニラ、砕きピーナッツ、乾燥エビに味付けは甘酸っぱいタマリンドのピューレ、ナンプラー(魚醤)、醤油、白胡椒、砂糖などで、仕上げにパクチーを添え、マナオ(ライム)を絞りかけて食べる。

 辛い料理が多いタイで、パッタイは辛くはなく外国人にも比較的好まれている。辛くしようと思えば自分で粉唐辛子をかければ良いのだ。


「今、食べたばかりじゃないか」

 タニンが驚いた顔をした。

「うん、今食べたいわけではないの。良い匂いだし、美味しそうだから」

 暫く、若い娘が顔中に汗をかきながら、パッタイを作っているのを珍しげに眺めていた。娘が注文するのと言う顔をしてさなえを見たので、さなえは首を横に振り、英語で「美味しそう」とだけ言った。

 この屋台の普通のパッタイは三十バーツ(この時の一バーツは約二・七円)、チキン入り五十、エビ入り五十バーツとメニューにある。どういう訳か、屋台のパッタイ屋は春巻きも一緒に売っている店が多く、この店も例にもれず春巻きを山積みにしている。

 タニンに言わせると、もっと安いのもあればオムレツの様に卵で包んだようなパッタイ・ホー・カイと言う高いのもあるそうだ。

「さなえ、美味しくて有名なパッタイ専門店がバンコクに幾つかあるんだけど、ここの屋台のはそれとはちょっと別物と考えた方が良いね。今度その美味しいパッタイ屋に連れて行ってあげるよ。でも、屋台の食べ物はその時の雰囲気で食べる物だから、専門店と比べるのは良くないかもね」

 さなえはタニンを見ながら嬉しそうに微笑んだ。


 そこここに、黒や鼠色のビニールでくるんで畳んである屋台が、ほったらかしにされた様に置いてある。夕刻になるとビニールを解いて屋台を開店するのであろう。道路に無造作に置きっぱなしにしてあるように見えるが、誰かがそこのショバ代を取って置かせてあげているのではないだろうか。


「アッ。これマッサマン・カレーかしら?」

 さなえは、細い横道に入る角の建物にへばりつく様に設えた、小さなタイ料理の屋台をのぞきながら大声で言った。

 タニンがタイ語で聞くと、店の人が「そうだ」と答えた。

「マッサマン・カレーって珍しいわね。これタイの南部のモスリム料理だって聞いているけど、お肉はチキンね。それとジャガイモ。ご飯は要らないからカレーだけ一人前テイク・アウェイしたいわ。今はお腹いっぱいだから、家に持って帰って食べたいの」

 さなえの意を体して、タニンはカレーをプラスチックの袋に入れて貰った。

 タイではなんでもプラスチックの袋に入れて持ち帰る事が出来る。コーラなどの飲み物は袋の口にストローまで差してくれる。バーミー・ナームは緬や具は勿論の事、熱いスープも袋に入れてくれるのだ。サイ・トゥン・ドゥワイ・カップ(女性の場合カップの代わりにカー)と言えば、何でも袋に入れて、上手にくるくるパチッと袋の口を輪ゴムで締めて、ハイッと渡してくれるのである。

 さなえは、プラスチックの袋をもう一枚もらってカレーの入った袋を入れ、満足そうな顔でそれを肩から掛けたキャンバス製のバッグに大事そうにそっと入れた。


 さなえの祖父の左右田源一郎が、今から四十年前の一九六七年に出張で訪れた時に、ランブトリ通り沿いにあるホテルに泊まった頃のカオサン通りは、まだ閑静な住宅街が広がっていた。

 八十年代の始め頃の、タイの観光ブームによる宿泊施設不足を補う形で、カオサン通り沿いにゲストハウスが出来始め、フアランポーン駅周辺や、ルンピニ公園近く、あるいは中華街のヤワラートの安宿に比肩する安宿街が徐々に形成され、バックパッカーの聖地と言われるまでとなった。

 一九九六年に出版された英国人のバックパッカーとしての経験を描いた小説に、カオサン通りが登場し西洋人の間で有名になり、二〇〇〇年には有名なハリウッド俳優の主演によって映画化され、「バックパッカーの聖地」として不動の地位を築くことになった。 

 ベトナム戦争を扱った映画の中で出てくる、兵士たちが息抜きに群がるサイゴン・スタイルのゴーゴーバーが密集している妖しげな歓楽街のシーンがある。そのロケ地となったパッポン通りが今や一大観光地化している様に、ここカオサン通りも相変わらず世界のバッグパッカーの聖地で有り続けてはいる。しかしながら、最近はタイの若者や、一般の観光客も大挙して訪れる様になっている。

 かつてはほぼバッグパッカー専用であったこの地区は、今や国際的な自然発生的、無秩序的、滞在型兼訪問型の一大常設総合エンタテーメント・センターと化している。

 滞在しようと思えば、最も安上がりなドーミトリーと言うバックパッカー向けの雑魚寝型、相部屋型のゲスト・ハウスから、そこそこの、一般観光客向けのホテルまで無数と言って良いほど溢れている。

 また、この数百メートルほどの通りを囲んだこの地区一帯には、各国料理レストラン、ファーストフード店、ディスコ、ナイトクラブ、カフェ、コンビニ、フット・マッサージ、タイ古式マッサージ、両替屋、郵便局、土産物屋、国際旅行社、本屋、旅具店、宝石店、洋服仕立て屋、薬屋、医者、歯医者、写真館、刺青屋、ラーメン屋などの他、屋台や物売りではパッタイ、バーミー、お粥、サソリ、バッタ、ゴキブリの親玉のようなメンダー(タガメ)、芋虫、サテー(ヤキトリ)、ココナッツ・ジュース、海賊版CD、DVD、スカートやジーンズ、Tシャツなどの衣類、サンダルなどの履物など、ここで生活するのに必要なものはもとより、あまり必要と思われない様な物までありとあらゆる物が売られている。

 そして、大きな警察署があってツーリストポリスがいるので、セキュリティー面でも安心と言いたいが、そのすぐ近くでは偽の運転免許証、学生証、有名校の卒業証書など証明書類なら何でもござれの店があったりして、お巡りさん達そんなのを放って置いて大丈夫なのかなと、多少の不安感を抱かせるところもカオサンのアトラクションの一つなのであろう。

 夜の歩行者天国ともなると、車道はレストランやカフェー、バーなどのテーブルと椅子がさらに車道にせり出し、商店は車道に商品を置き、その前を食べ物の屋台が占拠し、揚げた真っ黒なサソリなどの物売りが往来し、大音響の音楽に合わせて踊り始める人たちがいて、道路全体がさながらナイトクラブ状態になる。

 このカオサン地区にはかつてタイの上流階級の人達は殆ど寄り付かなかったが、最近はバー、クラブ、ディスコなどのタイ人の若者が好むような粋なスポットが出来ており、夜ともなると色々な階層のタイ人も結構遊びに来るようになっている。


 タニン自身はまだ若いせいもあってこの辺りは昼間に二、三回ほどしか来た事がないようだ。

「さなえが高校を卒業したら夜のカオサンに一度遊びに来ようね」とタニンが言っていたものの、結局実現しないまま、さなえは大学進学の為に日本に帰国したのであった。

 タニンとの関係は、さなえの帰国で途切れてしまったが、折々にメールで近況などを連絡し合ったりはしている。

 さなえ自身は、父親を早くに亡くしてしまった彼に対する同情心から付き合いを続けていると思っている。ただ、彼の方はかなり自分に熱を上げている様子で、それはそれで悪い気はしていない。

 タニンの実の父親のニポンが死に至った経緯については、サマートが後日談として父と母に詳しく話してくれたのを、さなえも聞いていた。

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