七.三  トンロー

「ピー(お兄ちゃん)。ご無沙汰しています」

 タイ住井の応接室でナリサは、「ジェイスタッフ・タイ」 ジェネラル・マネージャー 「和井那梨沙」と漢字で、またその下にナリサ・ワイタラーポットと英語で書かれた名刺を左右田恒久に差し出しながら、神妙な顔で言った。結婚前はナリサ・ムンポットジャーン「武那梨沙」であった。

 恒久がまたバンコクに赴任してきたので、少しして落ち着いたところを見計らってナリサが訪ねてきたのだ。

 タイ住井は、それまでいたビルの近くに新しく出来た十八階建てのナラチップ・ビルの十五階に入居している。

 恒久が、前回のバンコク駐在の後、ロンドンに駐在して二年ほどした頃に、ナリサから手紙でジャストを辞めて日系企業向けの人材派遣会社を始めたと知らせて来ていた。

 彼女は、若干太ったとはいえ、既に四十才近いはずだがあまり年を感じさせず、充実した生活を送っているように見える。

 恒久とナリサは、彼の父親と彼女の母親とが一緒に納まっている写真を見て以来、疑惑を抱えたままほぼ二十年経っている。

 お互い、ひょっとして兄妹かも知れないと言う疑念を持ってから、二人の仲はぎこちなくなってしまった。始めはどうしていいか分からず、またショックでもあったせいか何とはなしに距離を置いた時期があったが、その内男女のぎこちなさが消え、二人は仲の良い兄妹としてむしろ親密さを増したのであった。何時しかナリサは恒久の事を「ジームさん」ではなく、「ピー(お兄ちゃん)」と呼ぶようになっていた。

「佐藤さん残念だったね」

「そう、八十四才だったの。もう少し一緒にいたかったのに。昔の無理がたたったんでしょうね」

 恒久は、昨年脳溢血で亡くなってしまった佐藤のお悔やみをまず言った。

「ところで、一九九七年のアジア通貨危機の翌年に派遣会社を起ち上げたって言うから、京子と二人で心配していたけど、頑張ったんだね。大変だったでしょう」

 恒久は名刺を見ながら嬉しそうに言った。

「そうなの、確かにタイミングは最悪だったりしたんだけど、九九年にはミニITバブルがあったりで、景気が多少回復し始めたので助かったわ。九七年のタイから始まったアジア通貨危機の後、アメリカやヨーロッパの企業では撤退や、従業員の解雇が相次いだの。でも、日系企業だけは撤退も解雇もあまりしないで頑張ってくれたのよ。

 九八年のタイの経済活動は約十パーセントも落ち込んでね、自動車なんかは九六年には国内生産が五十六万台もあったのが、九七年には三十六万台に落ち、九八年には遂に十六万台弱とほぼ十年前の水準にまで落ちてしまったのよ。それが去年、二〇〇六年が百二十万台にもなっているのよ。日本の自動車会社や部品産業の投資がその後も増えたせいね。アジアのデトロイトとか言われ始めたのは二〇〇〇年に入ってぐらいからね。

 九九年に経済が回復し始めてから少しずつ仕事も増えて来てね。うちは、ゼロからのスタートだったけど、どこも大きく落ち込んでそれは大変だったの。私の所は、おじいちゃんがその頃はまだ元気で、日系企業の知り合いを色々と紹介してくれたり、タナー・エンタプライズのサマートさんが投資先の会社を紹介してくれたりで助かったわ。それからおじいちゃんが、今がどん底で後は伸びるだけで、企業はこれからは恐らく正社員を抱えるリスクを減らし、派遣社員を増やしていく戦略に出るのではないか、従って確かに今は厳しいが、ここ一年を踏ん張れば大丈夫と激励してくれたの。結局おじいちゃんの読みは見事に当たって、その後順調に急成長してきたの」

「そうなんだ良かったねえ。所で、今は従業員は何人なの?」

 恒久は、得意気なナリサの顔を見ながら言った。

「えっと、これうちの会社のブローシュアーです」

 ナリサは待ってましたとばっかりに、会社案内をブリーフケースから取り出してソファーテーブルに広げた。


 彼女の派遣会社は役員にあのサマート・ラータナワニットが名を連ねており、タナー・グループの一員であることを示している。ナリサの大叔母のマライが、タナー・グループ創始者であるユッタナー・ラータナワニットの第三夫人と言う縁もあるが、佐藤は、タイ住井にいた頃から、ユッタナーとサマートとは昵懇の間柄だったからだ。

 資本はナリサの預金と商業銀行からの融資を充ており、タナー・グループからの資金は全く入れていないが、佐藤のアドバイスで、サマート社長の名前を連ねたのは信用力の向上を狙っての事である。

 恒久が、後でサマートから聞いた話だが、ナリサが、商業銀行から融資を受ける際に、スムーズに事が運んだのは、実はナリサには全く内緒で佐藤が自分の預金を担保にしていたからであった。十年ローンを組んだが、彼女は七年で完済しており、結局ナリサは佐藤の後ろ盾は知らず仕舞いとの事であった。

 通常、役員にはそれなりの報酬を払うが、寛大なサマートのお蔭で無報酬となった。名もない派遣会社ではあったが、案の定抜群の信用力のお蔭で業績が大きく伸長したのである。現在従業員は二十名で、その内、日本人の若手女性が一人いる。

 事務所はバンコク南東のトンロー通り(スクンビット・ソイ六十三)沿いの事務所ビルに入った。

 ナリサが住んでいる佐藤の家がスクンビット通りをさらに南東に向かったプラッカノンと言う運河を越えた所のオンヌットにあり、一方、日系企業はスクンビット沿いのソイの若い番号の方にどんどん進出して来ており、さらにスカイ・トレインがこのスクンビット通りに沿って走る予定であったことから、自宅と日系企業のちょうど中間あたるトンローに事務所を設けたのだ。

 ジェイスタッフ・タイの派遣スタッフは、四〇〇人前後で全員がタイ人で、派遣先は主に日系企業だ。その内半分が一般の事務職関係で、残りの半分弱が工場への工員派遣と、数十人ほどの日本人家庭へのお手伝いさんの派遣である。

 お手伝いさんの派遣はあまり利益率が良くないが、困っている家庭から頼まれてはじめたサービスだ。工員の派遣要請は多いが景気の波により左右されやすく、あまり工員派遣の比率を高くすると、経営が不安定になるために全体の半数に抑えている。かつ、特定の会社に片寄るのも危険なので、一社への依存度を抑えるようにしている。

 日系企業は業績が悪化したからと言って、直ぐに自分の所で雇用している工員を解雇したり、派遣されている工員の契約を解除したりすることは、欧米や台湾企業に比べると少ないとは言え、背に腹は代えられない場合はまず派遣職員からということになるのは当然である。

 タナーナコン工業団地での工員を含めた派遣が増えるにつれて、工業団地内に出張所を設け、日本語の出来るタイ人スタッフ一人を常駐させている。

 派遣業以外には、二〇〇六年からタナーナコン工業団地の中に設立したテクノワークショップと言う中小企業向けの業務支援型賃貸工場の総務、税務、会計、労務などの管理業務の支援の部分をジェイスタッフで請け負う様になっていて、これがかなりの収益源になっている。


 恒久は、ナリサの話を聞いていて、初めて会った頃のあのやや自信無さげな雰囲気とはうって変わって、堂々として自信に満ちた態度に微笑ましさを覚えた。それにしても、祖父の佐藤やタナー・グループ総帥のサマートの力添えが有ったとは言え、ともかくあのナリサがよくここまで這い上がって来たものだと驚き入ったのであった。

 考えてみれば、ナリサの母親は食べていくのがやっとの小作の娘で、美人がゆえに下手をすればバンコクに売り飛ばされかねないような境遇であった。恒久の父親が昔バンコクに出張で来た時には、道端で天秤棒を担いで果物売りをしていたのだ。

 ナリサはと言えば、早くから繊維会社の職工として働いていた姉のマユラと、母親の同棲相手のマニットや、大おば達の援助で高校を卒業し、日本語までも勉強させて貰った。そして運良くジャストと言う日本の企業に就職する事が出来、遂には自分で会社を興し成功したのである。

 今や、中流階級もかなり上の部類に属していると言っても良いであろう。

 以前のタイは、農民の子は農民、果物売りの子は果物売り、物乞いの子は物乞いと相場が決まっていた。

 だが、ナリサの様に階層を飛び越えて行く様な例はそれほど多くは無いとは言え、今や、そうした事は確実に増えて来ている。

 それはタイが経済的に着実に成長し、経済全体のパイが大きくなり、個人所得が増え、中間層が増えてきたためもあろう。

 ナリサの場合、もちろん周りの人たちの助けが無ければ、ここまで来ることは出来なかった事は確かであるが、一方で、本人の努力が無ければ今日の成功は無かった事も確かである。

「そう言えば、結婚されてお子さんが出来たって、以前言っていたよね。苗字が文から和井に変わっているね」

 恒久は、一回目の駐在から東京に帰ってから、京子にナリサから手紙が来ていたのを思い出して聞いた。

「ええ、男の子がいるの。もう十四歳になるんです。でも、夫とはとうの昔に別れました。それからは結婚していません。結婚はもうこりごり」

 ナリサは苦笑しながら言った。

「所で、京子さんはお元気?会いたいわ。京子さんの手料理が懐かしいわ。ツネヒサーさんが夜遅い時は時々お宅に招いてくれて、作り方も教えてくれたわ。ところで、さなえさんはどうしたの?学校は。日本人学校は中学まででしょ?」

「うん、インターナショナル・スクール・オブ・バンコク(ISB)って言う英語の学校が有るでしょ、そこに入れたんだ。そうそうナリサさんの息子さんは、学校はどうしているの」

「はい、タイ人が多く行っている、英語で授業をやるトーンムルディーで知っているでしょう?寄宿舎なんだけど、そこに行っているの。実は、トンは日本語を自分でテープを使ったりして勉強していてね。私が離婚してからはお爺ちゃんの家に住まわして貰っていて、お爺ちゃんがいつも日本語でトンには話しかけていたからだと思うの。いずれ日本に留学したいって言っているのよ」

「そう、息子さんも日本語をねえ。やっぱり日本人の血が騒ぐんだね」

 そう言いながら久しぶりに会ったナリサを見ながら恒久は、『ひょっとして自分たち兄妹?』と言う疑念をこれまでずっと抱いたままであった事を思い出した。

 別に忘れてしまっていたわけではない。ナリサの母親と父親がチャオプラヤ川のほとりで撮った写真を見て以来、《へー、あの真面目一方に見えるオヤジがねー。あまり考えられないけどそんな事が有ったのかなー》と、それまで父親としてしか見ていなかった源一郎を、それ以来、男として意識するようになったのだ。

 だが、男同士庇い合う気持ちがあったのか、武士の情けなのか、自分でもよく分からないが何か、問い質すことが出来なくなってしまってから、あの「疑惑」を忘れようとしていたのだと思っている。

 他人の父親がよその女に子供を産ませたりしても「良くある話」で済ますことが出来るが、自分の親がとなると話は全く違って来るし、自分の母親の立場も考えなければならなくなる。

 また、もし二人の間に何かあったとしても、オヤジ自身は子供が出来たなど言う事は全く想像もしていないだろうし、もし知っていたとしても、どうせシラを切られるのが落ちであろうと踏んでいたと言う事もあった。

 それ以来、ナリサともその話題に触れる事が無いまま、恒久は帰国したのであった。


 一方のナリサにとっては大問題であった。

《父親がそれまでお父さんと思っていた人と違うかも知れないなんて。それも事もあろうにツネヒサーさんのお父さんが、私のお父さんかもだなんてあまりにも偶然過ぎて、かえって不自然だわ。大体ツネヒサーさんと兄妹だなんて考えたくもないわ――》

 ナリサは、拒絶反応を示していたのだ。

 だが、一方で吸い寄せられるように彼を慕う気持ちは、ひょっとして血が繋がっている事から来るからのような気もしないではなかった。兄妹と思う事で、子供扱いされ、女として相手にしてもらえないと言う不満から逃げるのに好都合で、気が楽になるような気がした。

 いつだったか、なりさは、あの《・・》写真を見てしばらくしてから、《やっぱりメー(お母さん)に聞いてみなくては》と、ランシットにいる母に問いただそうとした事があった。

「メー、あのさー…」

「何だい」

「あのさー…」

「何だい?この子は。何か欲しいのかい?自分で稼いでいるんだから、何でも買えばいいじゃないか」

 ナリサは、居間の冷たいタイルの床に横になって、扇風機に当たりながら寛いでいる母に、自分の本当の父親が誰なのか聞こうとするのだが、結局言い出せなかった。

「うん?うん。いや、良いの。また今度ね」

「全く変な子だねー」と、母は言いながら気持ち良さそうに目をつむった。

 今日こそは母に問い質そうと思って意気込んで来たのだが、母の顔を見ると結局言い出せなかったのだ。

 あれから暫くしてから、恒久さんは京子さんと結婚してしまった。でも、京子さんは自分を義理の妹と思っていたのかどうか分からないが、とても優しく妹の様に接してくれて、お爺ちゃんと一緒によく彼等のコンドミニアムで日本食を食べさせてくれた。自分も京子さんの事は本当の姉の様に慕っていたが、海外駐在員の常で、その内彼らは日本に帰って行ってしまったのだ。

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