第七章 チャバー(ハイビスカス) 二〇〇七年~二〇一〇年

七.一  マハチャック

 時は下って、二〇〇七年十月

 左右田恒久は、十九年の時を経て、再びバンコクに駐在員として来ている。今回は、タイ国住井物産の副社長としてである。


 恒久が、雲行きが怪しくなって来ているので、また驟雨で道路が冠水して車が渋滞してしまうのを心配しながら、早仕舞いをして帰宅しようとしていた所であった。

「副社長、二番にナンタワンさんから電話です」

 恒久の部屋のドアを半開きにして、秘書が、顔だけ出して伝えた。

 秘書は、恒久にとって初めての人と思う場合は、「誰々という方から電話ですが副社長ご存知ですか?」と聞くのだが、いかにも恒久がナンタワンと言う人物を知っているかのごとく伝えた。

「え?ナンタワン?」

 恒久は一瞬、言いよどんだ。

「あっ!スミマセン。始めに「ツネヒサー」さんと苗字ではなく、名前を言われたものですから、ご存知の方だと思って。コートーナカ(すみません)。どういう用件か聞いてみます」

「いや、良いです。知っている人だと思う」

 ナンタワン・ウイラワン(旧姓ラータナワニット)とは、前回のバンコク駐在から日本に帰って以来全く音信不通にしていたし、今回赴任してからほぼ三カ月経っているが、お互い全く連絡を取り合っていなかった。


 恒久は、一九九〇年に一度目のバンコク駐在から帰任し、東京の住井物産本社の自動車・産業機械事業本部、産業機械グループ、産業機械チームのチーム長補佐に任ぜられた。

 それまでの畑と全く違う分野で、産業機械の中でも主に工作機械の担当であった。この時代、特にコンピュータ数値制御の分野の工作機械の日本の技術は群を抜いており、恒久にとっては非常にやりがいを感じたし、住井物産でのキャリアー形成の上で大きな転機ともなったのである。

 ただ、恒久たちが日本に帰国してから、日本経済のバブル崩壊が始まり、日本国内の工作機械の需要は大きく落ち込み始めた。輸出全体は国内ほどの大きな落ち込みは見せなかったものの、九四年までは回復しなかった。

 そんな中にあって、毎年八パーセント強の経済成長をしているタイ向けの工作機械の輸出は、日本からの活発な製造業投資に伴って高い伸びを示した。

 必ずしもタイ駐在経験者の恒久の努力のお蔭とは言えないが、恒久にとってはラッキーな状況で、九二年に産業機械チームのチーム長に昇格した。

 その年の年末に娘のさなえが誕生した。

 九四年には、同じ事業本部の自動車事業グループのグループ長補佐に任じられ、今度は自動車を担当することになった。工作機械と自動車産業とは切っても切れない関係にあり、比較的スムーズに自動車分野に入ることが出来た。

 九六年になると、人事アンケートに海外駐在希望と毎年書いておいた所為か、今度はロンドンの店に転勤になった。恒久は当然バンコクか、そうでなければアジアのどこかの国であろうと漠然と考えていた所、ロンドンと聞いて驚いたが、英語もかなり堪能であった事が買われたようであった。

 ロンドン行きが決まって一番喜んだのは、何と言っても帰国子女の妻の京子であった。京子は銀行員の娘で、父親の転勤で小学校の頃にロンドンに五年ほどいたことがあったからだ。

 ロンドンの店で、恒久は自動車事業グループ長になり、二〇〇〇年までの四年間のロンドン駐在であった。ロンドンから帰国後、赴任前と同じ自動車・産業機械事業本部ではあったが、今度は建機グループ長と部長待遇になり、二〇〇四年には、同じ事業本部の自動車グループ長になった。

 そして、三年後の二〇〇七年にタイ住井物産の副社長として再びバンコクに赴任して来たのであった。社長が空席であったので実質社長である。

 恒久が四十九才の時だ。

 一人娘のさなえは、この四月から地元の都立高校に通っていたが、九月からISB(インターナショナル・スクール・バンコク)の高校に通うべく、一学期が終ってから母親に連れられて八月上旬にバンコクの父親に合流している。日本の高校生が駐在員の親について海外に行く場合は、現地の学校かインターナショナル・スクールに行くしか無い。海外の日本人学校は義務教育の終わる中学までしかないためだ。

 一方のナンタワンは、チュラサート大学を卒業してから就職したタイ政府の投資促進機関であるタイ国投資庁(BOI)の今や課長クラスで、日本だけでなくアジア地域全体を担当している。

 サマートによると、ナンタワンは大学の先輩で彼女の元親衛隊の隊長のキティー・ウィラワンと結婚して、子供もいるとの事であった。

 サマートは、いずれナンタワンにはタナー財閥のどこかの会社を持たせようと思っているが、本人は今の仕事が面白くてその気がないらしい。


 恒久は、まさかあのナンタワンが連絡して来るとは夢にも思っていなかった。誰だか分からなかったのではなく、ただ驚いたのだった。

「もしもし、左右田です。」

「ハロー、ナンタワンです。ツネヒサーさんご無沙汰しています」

 ナンタワンの優雅な語り口は変わっていない。

 お互いややぎこちなく一通りの挨拶を交わし、差しさわりの無い話をしたあと、ナンタワンが言った。

「……実はサマートから聞いたんですが、お嬢さんのさなえさんがISBに通うことになったそうですね。娘のドゥアンチャイもISBに行っていて、一つ上の学年にいます。ですので、さなえさんにドゥアンチャイを紹介しようと思って電話を差し上げたのです」

 ナンタワンの日本語は昔から丁寧で、教科書で習った日本語を律儀に守っていた。仕事で日本語を使う事があるせいか、昔と比べると格段に上手になっているが、話し方はゆっくりだ。

 もともとナンタワンは悠揚としており、話すのも動作もゆっくりで育ちのよさが滲み出ている。

「ありがとうございます。サマートさんから聞いています。いずれ落ち着いたらお伺いしようと思っていたところです」

「それで、中秋節には少し早いですけど、ヤワラートの中華街であのー、カノム・ワイプラチャーン、日本語で何と言いましたっけ」

「ああ、月餅ですか?」

「はい、そう月餅ですね。その月餅が美味しいところがあるので、ドゥアンチャイがそこでお茶をしながらさなえさんとお近づきのお話したいと言っていましたので、ドゥアンチャイからさなえさんに電話させて良いでしょうか?」

「はい、ありがとうございます。さなえはいつも夕方以降は家にいますので、お願いします。えーと、電話番号は……」

「あ、サマートからお宅の電話番号を聞いていますので……」

「分かりました。ナンタワンさん、コップン(ありがとう)・ナカップ」

「マイペンライ(どういたしまして)・ナカ、ツネヒサーさん」


 恒久は、あまり愛想も無く用件だけで電話を切ってしまって、何となく居心地が悪い気がした。ナンタワンの恒久に対するかつての気持ちは分かっていたが、応えることが出来なかった事が恒久の気持ちの中で尾を引いていた。

 恒久にとってナンタワンはある意味、高嶺の花であった。無理して登って採ろうと思えば採れた花かもしれないが、ユッタナーの娘と言う高く切り立った壁が立ちはだかっていた。

 もしも彼女が日本人であったらどうであろうか?日本人であれば無理して登ったかもしれない。では、ナンタワンの場合どうして駄目なのか?ユッタナーの娘と言う以外どんな障害があるのだろうか。明眸皓歯めいぼうこうしで、こよなく典雅な女が愛して欲しいと言う素振りを見せていたのだ。

 言葉や習慣の違いだろうか?

 タイの大金持ちの娘は、掃除、洗濯、炊事、下手すれば自分の勉強机の整理も一切合切自分でやらないし、出来ないのだ。全てアヤさん任せである。出かける時は運転手付の車だ。普通なら歩くだろうと言う距離でさえ車に乗る。

 人にもよるだろうが、地図と言うものをあまり学校で習わないせいか、何がどこにあるという位置や方向感覚があまり無い。バスはもとより、今の時代、高架鉄道(BTS)や地下鉄(MRT)でさえ乗ったことが無いと言う大金持が多い。

 自分でやることと言ったら勉強と習い事と遊びだけである。これは価値観が違うどころではない。

 ただ、タイの高級官僚や企業経営者でそう言った恵まれた境遇に育った人達が多くいるが、仕事での往交はスムーズで、大層魅力的な人が多いのも事実である。

 しかし、取り越し苦労かもしれないが、結婚などして子供が出来たりしたら、大抵はアヤ(お手伝いさん)さんがいなければ立ち行かなくなるだろう。日本でアヤさんを雇える人はそんなにいるわけがない。

 だが、若い恒久にとってそんな事はナンタワンの麗しさの前に全てが解決可能な問題と化してしまうように思われた。そうだとすると、恒久の逡巡は何だったのであろうか。やはり、今は妻である京子の存在が恒久の心の中で大きな位置を占めていたからだ。

 そう言えば、昔、京子が初めてバンコクに遊びに来た時にはっきりこの女と結婚したいと思い、京子も同じ気持ちで二人は婚約をしたが、その辺りからなんとなくナンタワンとは疎遠になり始めた。BOIの事務所で会っても心なしかナンタワンは元気がない様子であった。それが、恒久の京子との関係の進展と符合していたのであった。

 恒久が京子と結婚をした後、徐々にナンタワンは元気を取り戻し、少なくとも表面的には親しい間柄を保っていたのであった。


 一方、電話を切ったナンタワンは、受話器を置いた手をそのままに大きく息を吸ってからゆっくりと吐いた。まだ胸がドキドキしている。

 ナンタワンは、恒久がまたバンコクに来ているのは知っていたし、気になっていた。何度か電話をしてみようと思ったが、ただ何の要件もなく連絡をすると言う訳にはいかない。

 勿論、良く知った仲なので「挨拶」の連絡を入れても全く不自然ではないが、気後れなのか、心の奥深くにしまっておいた片思いの悲しい傷に触れたくなかったのか、連絡しそびれていた。

 そんな時に、サマートが娘のドゥアンチャイを恒久の娘に紹介してあげたらと言ってくれたのだ。

 ドゥアンチャイは、母親の影響なのか大学は日本の大学に行きたいと言っており、日本人の家庭教師について日本語を勉強している。高校から日本に行きたがったが、父親のユッタナーと夫のキティーが反対した。

 ナンタワンは自分が日本の大学に行きたかったのに行けなかったこともあり、二人を説得してドゥアンチャイには日本に行かせる事にしている。

 ナンタワンは、やや事務的な会話の中に恒久の自分に対する好意の片鱗でも残っていないかと必死に探したが徒労であった。電話の向こうの恒久の落ち着いた声が、「これからも良い友達でいようね」と、別れ際に言われたあの時の事を無残にも思い出させた。

 ナンタワンが、ある日、中華街のヤワラート通りと交差するマハチャック通り沿いにある「羅栄興」という米の卸問屋をやっているパイロート叔父さんの所に遊びに行く途中に、何気なく車から歩道の方を見ていた時だ。

 恒久が女の人と手をつないで仲が良さそうに歩いていたのだ。

 女は髪型や服装からしてどうやら日本人らしかった。日本人の女性は全体に「可愛らしく」しており、見て直ぐに分る。女の横顔がとても美しかった。

 彼は手なんか繋いでくれた事なんて一度も無かった。ショックでしばし呆然としてしまった。

 普段、勤め先の行き帰りは自分で運転するのだが、その日は丁度空いていた母親の運転手のピチットに運転して貰っていたから良かったものの、そうでなかったらそこから先は運転出来ずにヤワラート通りに大変な渋滞を引き起こすところであった。

 パイロート叔父さんの所でもボーっとしていたらしく、具合が悪そうだからと言って早く帰されたのであった。

 それから少しして、恒久に日本人の恋人がいるらしいと言う噂が流れてきた。どうやらその恋人は時々バンコクに来るらしく、恒久のアパートに泊まっていくらしい。

 もっともナンタワン自身、彼と一緒になって日本で暮らすと言うこと自体、どだい無理な話だと言うのはうすうす感じてはいた。それ以上に、自分が失恋をすると言うこと自体彼女の自尊心が許さなかった。

《今まで何人もの男を失恋させてきた。自分が失恋するなんて》

 ナンタワンが、恒久を諦めたのはこの頃であった。

《自分から別れよう》

 そう思ったものの、それは凄まじい哀しみと喪失感に襲われた。心の中にぽっかりと穴が開いてしまった。その穴は仏様が、現世の人間が凄まじい悲しみや喪失感に襲われ、壊れてしまわないようにと暫く空けてくれたものなのだろう。

 仏様が空けてくれた「心の穴」は、ナンタワンを無感覚にし、苦しみを少しくやわらげてくれた。

 恒久が、結局一九八九年の秋に京子と言う日本人と結婚してしまい、翌年の春には日本に帰国してしまった事から、ナンタワンは、母親から奴隷扱いしていると言われた元彼女の親衛隊長のキティー・ウイラワンと結婚することとした。もとよりキティーの事は大好きであったし、心に穴の空いたナンタワンを辛抱強く支えてくれたのだ。

 恒久が帰った翌年の一月に結婚し、その年の暮れに娘のドゥアンチャイを授かったのだ。

 現在、キティーはタナーエンタプライズの専務をしており、今やサマート社長の右腕的存在となっている。


 ナンタワンから電話があった次の週、恒久は、サマートと二人でスリオン通りにある中華レストランで、タイスキ鍋を突っつきながら昼食をとっていた。

 サマートは今や五十五才で、タナー財閥の押しも押されぬ総帥であって、タイの財界では一目置かれる存在になっている。会長のユッタナーは既に八十七才と高齢で、実質的にサマートがタナー財閥を取り仕切っていた。

「さなえちゃんの学校の件で、ナンタワンから電話があっただろう?」

 サマートが、真中に煙突の付いた鍋に野菜や魚丸などを入れながら聞いた。

「ええ、ありがとうございます。ナンタワンさんのお嬢さんが一つ上の学年にいるので心強いってさなえが言っていました」

 サマートは、恒久が娘のさなえをISBに入れようとしているのを聞いて、ISBに娘がいるナンタワンに話を繋いだのであった。

「うん、いつか恒久君に言ったことがあるけど、ナンタワンは恒久君の事が好きだったんだよね。

 恒久君が出張でバンコクに来た時に良くうちに遊びに来ていたでしょう。あの時ナンタワンはまだ学生だったと思うんだけど、恒久君に会ったとたんにすっかりいかれてしまってね。今度は何時来るんだと会うごとに聞かれたよ」

「ええ、以前サマートさんも言ってましたよね。でも、ユッタナーさんのお嬢さんで、サマートさんの妹さんでしょう?手なんか出したら殺されかねないし」と、恒久が恐れ多いというような顔で言うと、「ま、君には京子さんがいたからね。でも、二人が好き合っていたら結婚させても良いと思っていたんだよ」とサマートが笑いながら、致し方ないと言った風情で首を振った。

「それで、ドゥアンチャイを紹介するために恒久君に電話をするようにナンタワンに言ったら、あの気の強いナンタワンが首から胸元まで真っ赤にしてとても嬉しそうだったよ。結局、ドキドキして殆ど用件だけ言って電話を切ってしまったと言っていたよ」

「ええ、なんとなくお互いぎこちなかったですね。でも、キティーさんと結婚出来て幸せそうで良いですよね」

「そうなんだよ、ナンタワンは相変わらずキティーの事を召使の様に扱っているけど、その分キティーに物凄く依存していて、今やキティー無しでは生きていけないんじゃないかって思うよ。

 キティーは既にうちの専務で、特に財務に強いし無くてはならない人材になっているんだけど、その辺りはナンタワンも分かっていてね、さすがに昔の様に仕事中は今すぐ来て頂戴とかメチャクチャな事は言わなくなっているようだよ。

 ほら始めの頃、恒久君が一回目の駐在の頃だけど、キティーはブリーフケースみたいなバカでかい箱型の携帯電話器をいつも持ち歩いていて、ナンタワンに呼び出されると、真夜中であろうが会議中であろうがすっ飛んで行っていたからね。

 ま、キティーがナンタワンの面倒をあれだけ見てくれているもんだから僕は感謝しているんだよ。ナンタワンも幸せそうだしね」

  恒久は、別に責められているわけではないが、ナンタワンが幸せそうにしている様子なので何とはなしにホッとしていた。

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