六.四  スクンビット・ソイ二十四

 一九八九年十月

 僧侶がお寺にこもって修行を始める陰暦八月の満月の日(新暦で七月ごろ)のカオパンサー(入安居)の日から始まった「暦の上」での雨期は、僧侶が修行を終えて人々がお寺にお参りに行く陰暦十一月の満月の日(新暦の十月ごろ)のオークパンサー(出安居)の日迄で、このオークパンサーの日から「暦の上」での乾季が始まる。


「そうそう、ティプロの次長の高橋さんが言っていたけど、役所からティプロに出向している山本さんと言うのが、このあいだ、私用車の運転手に殴られたんだってさ。タニヤのほら「築地」と言う寿司屋さんの対面にある露天の広い駐車場があるだろう?」

 恒久の上司の工業団地グループ・リーダーの瀬山が、レミーマルタンのXOを旨そうに目を細めて飲みながら話し始めた。

 左右田恒久が結婚したのでお祝いと言う事で、瀬山リーダーのお宅に夫婦して夕食に招かれたのだ。瀬山が住んでいるのはスクンビット通り(国道三号線)のソイ(脇道)二十四番にあるルナガーデンと言う新築のコンドミニアムだ。

 このソイ二十四は日本人駐在員が多く住んでいることから、又の名をソイ・ジープン(日本人横丁)とも呼ばれている。

 この時代、のソイ二十四は、中級ホテルが一軒とコンドミニアムがいくつか並んでいるだけで、屋台以外は店らしい店は数えるほどで、パクソイ(ソイの入り口)から六百メートル程も行くと道路らしい道路は無くなって、野原が大きく広がっているだけであった。

 瀬山が話し始めたのは、食事が終わってからブランデーを飲み始めた所で、瀬山夫人は子供たちを寝かしつけに奥の寝室に行っている。

「殴られた次の日の朝一番に、ティプロの次長の高橋さんの耳に入ったそうだよ。運転手同士の情報網はすごくって、大体次の朝には前の晩に誰がどこに行ったかとか言う情報が入ってくるからね。事務所の駐車場がティプロと一緒だからうちの情報もあちらに結構入るみたいだよ。おたくの安山さんってなかなか遊び人らしいねぇって高橋さんに言われたよ」と瀬山は言ってブランデーを口に含んで舌の上で少し転がした。

「あー、やっぱ高橋さんもそう言ってました?安山さんって結構手当たり次第みたいらしいねって武井さんにも言われてしまいましたから」

 恒久は瀬山に訴えた。

「……ま、安山君の話はおいておくとして」

 瀬山が、もう一口ブランデーを飲んでから続けた。

「高橋さんはすぐに山本さんを呼んで話を聞いたんだって。本人も言いづらかったんだろうね。高橋さんは彼から話を聞く前から大体想像はついていたらしいよ。その運転手で五人目だったんだって。確かに駐在一年半で五人はちょっと異常だよね。

 彼が言うには、お客さんと夕食を終えてからカラオケ・クラブに行くべく、駐車場に着いて、車の外で『指示』を与えていたらいきなり二、三発殴ってきて、タイ語で何か怒鳴ってからそのままどこかに逃げて行ってしまったそうなんだ。

 お客さんはびっくりしていたそうだけど、幸い山本さんの親元の役所の人でなく企業の方だったので良かったなどと、馬鹿な事を言っていたらしいけどね。

 タイ人は確かにすぐにカッとなる所が有るようだけど、雇い主を殴るなんて言うのはよっぽど腹に据えかねたことが有ったんだろう、何をその時運転手に言ったんだと山本さんに聞いたんだって」

 瀬山は思い出してプッとふき出した。瀬山が聞いた話によると事情は次のようであった。


 客と夕食が終わって、山本は二次会にと言ってタニヤに向かった。ラジャダムリ通りがラマ四世通りにぶつかる所の信号は警官が手動で十分以上止めて、ラマ四世通りの車を流すことがよくあるが、その時も結構長く止めていたので運転手はエンジンを止めた。

 始め山本は言い付けどおりやっていると思ったが、お客さんに「なんだかものすごく暑いですね」と言われて、ハッと気が付いて運転手に何で止めたんだ、早くエンジンをかけて冷房をつけてくれと言った。だが、運転手はムッとした顔で無視するので、背中を軽くトントンと叩きながら、早く冷房を点けろと言ったらやっとつけた。

 駐車場に着いてから、客がいるのに何で冷房を消したんだと言ったら、ナイハン(ご主人様)の指示通りにしたと言うので、お客が居る時はエンジンを切るな、指図書を直しておくと言って、これから十五分間は車から離れるなと言いった。すると五分じゃなかったのかと運転手が言うので、今日は十五分だと言ったら急に殴られたのである。

 で、その山本が書いた指図書を高橋次長が持ってこさせて見てみると、それがなんとも下手くそな英語で二十項目ぐらい書いてあった。

 飲酒運転は厳禁、ナイハンや客、家族が乗り降りするときはドアを開け閉てする事、ドアの開け閉ては静かにする事、スピードは出し過ぎない事などと当たり前の事も書いてあったが、ギアチェンジは静かにそっとする事、ブレーキはそっと踏むこと、一人で待機している時は絶対冷房はつけない事、長い信号待ちの時はエンジンを切る事、残業の場合終了時に残業簿に私(山本)のサインを貰う事(サインをもらい忘れたら残業代は払わない)、終業時には必ず私(山本)がメーターをチェックし走行距離とガソリンの減り具合をチェックして、ガソリンの減りが走行距離に比べて多い場合はその分給与から引く事などであった。


「ひどい奴だよね。こう言った手合いは、台所の醤油とか油やお酒の瓶に、使ったところまで線を引いておくタイプでね。アヤ(お手伝い)さん泣かせでもあるんだね。確かに、アヤさんが多少醤油や砂糖をくすねたり、運転手が駐車場で少しガソリンを抜いたり、ガレージと結託してガソリン、タイヤ、部品とかの請求を誤魔化したりすることはあるけど、あまり目くじら立てないで、いつも『三割ぐらいまでは給与の内』と思えと言っているだろう?

 勿論、時々は、追い詰め過ぎない程度に注意する事は必要だけどね。あまり目に余るようであれば首にすることも必要だね。それにしても、山本さんは下手したら殺されかねなかったよ。高橋さんは殴られただけでむしろラッキーだったと、彼には言ってやったと言っていたよ」

 瀬山は、笑いながら言った。

「確かに、カッとなって殺されたなんて話は時々ありますよね。英字紙にはあまり出ませんけど、タイ字紙には結構血だらけの写真付きで載っていますよ」

 恒久がそう言うと、横で聞いている京子があら嫌だと言う顔で恒久を見た。

 瀬山は恒久の話に頷きながら、旨そうにブランデーを一口飲んで、また話を続けた。

「そうそうそれで、話はまた山本さんに戻るけど、彼がいつだったか『高橋次長、なんだか最近だるくて、疲れて仕事に身が入らないんですよ』って高橋さんに言って来たことが有ったんだって。

 肝炎とかかなと思って色々と話を聞いてみたら、なんと夜は自分一人でむろみたいな窓も冷房も無い部屋で寝ているって言うんだって。

 夫婦間の問題でもあって一人でそんな所に寝ているのかと思ったけど、聞くのもアホらしくて、何でそんな冷房も無い所で寝てるんだと聞いたら、何と電気代が勿体ないからって言ったらしいんだ。『バカヤロー直ちに冷房のある部屋で寝ろ!』って怒鳴ってやったそうだ。怒鳴るなんて温厚な高橋さんにしては珍しいよね」

 京子は、あ然とした顔で瀬山リーダーの話を興味深げに聞いている。

「そんなヤツなんで、運転手に殴られても仕方がないかもね。兎も角ケチなんだねその人は」

「大体、人を機械だと思っている人っていますよね。運転手さんだって機械じゃないんですから、日陰の無い炎天下で一時間も二時間も待機させる場合は、冷房をむしろかけていいと言うぐらいではないといけませんよね」

 と、恒久。

「ごめんなさい、山本さんの話でしょ。あれじゃあ殴られても仕方がないわよね」

 いつの間にか子供を寝かしつけに行っていた瀬山夫人がラウンジに戻ってきていた。

「山本さんの奥様の方は優しそうで良さそうなお方よ。でも、変わった人と言えば、ほらあなたも知っているでしょう?このルナガーデンの7階のどこだっかの商社の奥様。池上さんと言う方。もうすぐ帰任と言っておられたけど、アヤ(お手伝い)さんを4年間で13人も取り替えたそうよ。何故だか知らないけど本人は自慢げに言っていたわ。変でしょう?雇って少しすると掃除の仕方とか、料理とかどうしても色々気になってしまって我慢が出来なくて首にして、アヤさんがいない間は自分で家事をやるんだけど、この暑さでしょう?その内すっかりへばってしまって、またアヤさんを雇うと言う事を繰り返して来たと言っていらしたの。 

 でも、オムさんによると、あ、オムさんってうちのアヤさんだけど、池上さんの奥様はとても疑り深くて、口うるさいのでアヤさんの方がむしろ嫌になって辞めていったほうが多かったみたいよ。

 アヤさんが掃除をしている時に腰に手を当てて監視をしていて、窓際とか飾り棚の目立たない所を指でこすって、ほらここもやって頂戴と言うんだって。まるで喜劇よね」

 瀬山夫人は、立ち上がって腰に手を当てて監視するような仕草をしながら話を続けた。

 京子は、ますます興味深げに身を乗り出さんばかりに聞いている。

「それからアヤさんがスーパーで買い物して来た時は必ずレシートと買ってきた品物を照らし合わせたり、タラート(マーケット)で買う場合はレシートなんか無いので、これは幾らだこれは幾らだとしつこく聞いたりしていたいらしいの。

 うちも時々だけどお醤油なんかの減り方が早くてアレッて思うことが有るけど、私が思い違いかも知れないし、主人に三割までは『お手当の内』と言われているし、この暑いのにそこまで気にしてはいられないわ。

 まあ、奥さんの方も暑くてイライラして、買い物に行って来てもらったものの何が幾らしたかもわからず、ついアヤさんにきつく当たると言うのも分からないではないけど……。

 私は、あなたには悪いけど、全くチェックなんかしてられないわ。二倍も三倍も誤魔化されているわけでも無いでしょうしね。この暑いのに買いものに行ってくれるだけ有り難いしね」と、瀬山夫人は夫の方を向いて言ったかと思うと、今度は京子の方を向いて「掃除、洗濯、食事の用意と全部やってくれるのは本当にありがたいわ。でもね、いつも家の中に他人(ひと)が居たりするのはね……」

 と、悩ましげに言った。

「あのー、こちらではお手伝いさんはどうされているんですか、お話を聞いているとかよいではなくて、住み込みのようですが」

 京子が、恐る恐る聞いた。

「ええ、うちは台所の隣にアヤさん部屋がついていて、彼女はベランダ伝いに台所から出入り出来るようになっているの。だから、いわゆる住み込み式って言うのかしらね。だから毎日一緒にいるって言う感じ。

 そうね、一見お手伝いさんがいると言うのは人からはうらやましいように思えるけど、人を使うと言うのは結構気苦労が多い事もあるのよね。贅沢な悩みと言われてしまえばそれまでですけどね」

「そうなんですね。うちは同じビルの違う階にあやさんたち専用の部屋があってそこから通ってきてくれるらしいです。うちなんかは本当に要らないんですけど、彼がタイではアヤさんは雇う事になっているからと言うものですから。何となく気疲れしそうですね」

 京子は、困った顔をしながら言った。

「うちではアヤさんは、洗濯物は主人のブリーフにまでアイロンをかけてくれるんですけど、私や子供の婦人物の下着は、私が別途洗濯をして我々の部屋のバスルームに干すようにしているんですよ。

 やはり自分の下着まで人に洗わせると言うのはどうしても抵抗がありますものね。掃除も丁寧にやってくれてはいますけど、いつも決まってこの端っこの部分をやってくれていなかったりとか、ドアの蝶つがいの所にチンチョㇰ(やもり)の子供が、可哀そうに潰されて紙のようにぺったんこになっているのが、そのままになっていたりとか気になったりする事は確かにありますけど、そこはぐっと堪えて自分でやるようにしています。 

 子供たちは自分たちの部屋に現れるチンチョㇰに太郎さんとか花子さんとか名前を付けたりして親しみを持っているので、ぺったんこの子供チンチョㇰを見せて悲しませたくないですしね。

 それと、自分たちの主寝室だけは一切アヤさんを入れないようにしているの。掃除も自分でやっています。疑う訳ではないんですけど、出掛ける時はその部屋は鍵をかけておくようにしています。

 ここに置いてあったのに無くなったと言うようなことは、自分の家でさえあるし、お互い誤解を生まないためにはその方が良いと思うのね。

 オムさんも鍵をかけておいてくれた方が無用なトラブルを避ける意味でありがたいって言ってました。

 その部屋だけが誰にも邪魔さない自分の家のようで、結構広い部屋なのでそこで過ごすことが多いんですよ。

 そうそう、うちのオムさんってとっても料理が上手なのよ。色々な家のアヤさんをしてきていて、代々の奥様方に教えて貰ったせいか料理のバラエティーもとっても豊富なの。驚いたのは、自分で書いたイラスト付きのレシピーのノートを何冊も持っているのよ。

 毎日、『奥さん今夜何食べるか』と聞くんで、『オムさんに任せる』と言うと、『奥さん困る。奥さん決めて』って言うんだけど、『お願い。何でもいいから任せる。お願い』って言うと、うーんと言いながらそのノートをめくりながら考えて、何か作ってくれるので大変有り難いのよ。みそ汁なんて私のよりも美味しいの。

 ただ、私用車の運転手さんは、主人を事務所に送って行ったあと主人が使わない場合は、ここに戻って駐車場で待機をすることになっているんですけど、なんか待っていられると思うと落ち着かなくってね。

 主人は、運転手にとっては昼間どこにも出掛けないで涼しい駐車場で昼寝でもしていた方がよっぽど有り難いし、待つのも仕事の内だなんて言うんですけどね」

 瀬山夫人は、他人からは如何にも楽そうに見える駐在員の妻の悩みなどを交えながら、京子に上手に駐在員の妻の心構えを話してくれたようだ。


 帰りの車の中で京子が、「うちのお手伝いさんのプロイさんって私のお母さんみたいな年なので、良いような悪いようなですけど、お給料は恒久さんから渡して下さいね。その方が良いような気がするのでお願いします。」とポツリと言った。

「あー、それから、プロイさんって言葉の端々に自分の方が恒久さんの事は良く知っているって言う雰囲気で話すの。それは当然だけどちょっと気になって」

 と、京子が言いにくそうに付け加えた。

「あー、そうなんだ。何なら代わってもらおうか?」

「あ、いえ、そう言う意味で言ったんではないの。何でも話しておいた方が良いと思って言っただけ。男の人って何か言うと直ぐに解決策を考えるって言うけどホントなのね。面白いわ。母がよく言ってました。父と話しをしていて単なる愚痴を言ったりすると、それに対してすぐ解決策と言うかこうしようとか言うんだけど、そうして愚痴ったりとか、そういう事があるって言う事をただ知っておいていて欲しいだけなのにって言ってたわ」

 京子が微笑みながら恒久の手をつないできた。

 恒久としては「プロイさんってそうなんだ」とか、「三年も面倒見てくれてたからね」とか言うだけでは物足りない気がしているし、単なる愚痴なのか話題なのか、解決して欲しいのか判断がつかないな、と思いつつ、「そうだね、京ちゃんの言う様に何でもお互い話しておくことが大切だよね。僕も出来るだけそうするよ」と、答えておいた。

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