第六章 チャムチュリー(レインツリー) 一九八八年~一九八九年

六.一  サラデーン

 一九八八年九月

 九月のバンコクは、雨季の中でも雨の量と頻度が多く、直ぐに下水の処理能力を超えてしまって、道路があっという間に冠水することが多い。水が引いた後に時折ヘビやトカゲが道路に取り残されたりすることがある。道路の冠水でただでさえ車の渋滞が酷くなるのに加え、信心深いタイ人故そんなヘビを轢いたりしないように停まったり避けて通ったりするものだから、一層渋滞が激しくなってしまう。


 左右田恒久がバンコクに赴任して来てほぼ三年になろうかと言う頃に、大崎京子から手紙が来た。大崎京子は、住井商事本社の人事総務部総務課に勤務している。彼女から手紙を貰うのは初めての事であり、恒久がバンコクに赴任する事になって以来顔を合わせていない。

 封を切るのももどかしげに封筒を破き手紙を見た。なんと、今月の半ばに五日間の日程でバンコクに旅行に行くので、もし時間が有れば会えると嬉しいと言うのだ。独り身の寂しく暗い部屋の空気が一瞬にして楽園の空気に変わった。

 京子からの手紙を手にしたとたん、それまで胸の奥深くに封じ込めていたマグマの温度が上がり、動き始めるのが感じられた。

 今度一時帰国した時には、京子に絶対プロポーズをしようと決めていたが、向こうから来ると言うのだ。果たして、勇気をもってプロポーズできるだろうか。こと京子に対しては自分でも呆れるくらい意気地なしなのだ。

 大崎京子は、住井商事で恒久の二年後輩であるが、学生時代の「開発経済研究会」と言うサークル活動の後輩でもあった。大学の学部は恒久が経済、京子は英米文学と異なるが、恒久が三年生になった時に、新入生で京子が同じサークルに入部して来たのであった。

 京子がサークルに入って来て以来、恒久はずってと彼女の事を心に秘めてきた。

 恒久は、普段それほど引っ込み思案のタイプでもないし、物怖じするタイプでもないが、こと京子の事となると何故だかからっきし意気地が無くなってしまうのだ。

 京子は一見大人しそうに見えるが、議論の際は理路整然と明確に意見を表明するタイプで、そうした時は普段より声が大きくなるので、首筋が赤くなり血管が膨らんで見えるのが何とも可愛かった。

 サークルのメンバーは開発途上国の経済開発に興味を持つような学生達で、「外見よりも中身が」と言う風潮があり、女子達はどちらかと言うといわゆる化粧っけのない真面目な黒髪の女子大生風が多く、京子もその例に漏れなかった。

  だが、京子はむしろ化粧をしない方が良いぐらいで、瓜実顔で目立って見目の良い女性であった。恒久は、何よりもその品のある美しさに魅入られてしまった。

 しかし、情けない事に恒久は、何とか京子に声をかけたいと思いつつ、きっかけが掴めずにいるうちに、一つ上の先輩が強力にアプローチし始めてしまった。その後、二人は付き合っている風には見えなかったが、その先輩が彼女に近付かせない雰囲気を何とはなしに醸し出していたし、そうした先輩の手前、彼女にアプローチし難い趣があった。

 その先輩が卒業してから、恒久に好機が訪れたもののなぜか気後れしてしまい、サークル以外で付き合いたいと言い出す事が出来ないまま、自分も卒業してしまったのだ。

 恒久は暇さえあれば研究会の部室に入り浸っていた。京子に会えると思っての事である。彼女もまた良く部室に顔を出した。全く二人きりではないが、結局ほかで会わなくても年中顔を合わせていることが出来た事で満足していたのかもしれない。

 京子にアプローチをしていた先輩は卒業して、海外経済協力の為の国の機関である特別法人ジェイド(日本海外協力事業団JAID)に就職したが、サークル・メンバー憧れの就職先で、彼女も出来れば行きたそうであった。成績優秀な京子ゆえ、先輩の後を追うようにして、ジェイドに入団してしまうのではと思っていたのだ。

 所が、驚いたことに京子が、就職活動の一環のOB訪問で住井商事の先輩として恒久を訪ねてきたのである。

「ジェイドのOB訪問にも行くんでしょ?」と聞くと、「そうですね……」とあいまいな返事であった。

 恒久は当然の事ながら、「訪問者評価表」に最高点のAAを付けて 人事にまわした。

 結局、京子は、住井商事に入社して来たのである。住井の取引先銀行で役員をしている父親のコネがあったからと京子が言っていた。

「てっきりジェイドに行くと思っていたよ」と言うと、「まさか」と言って俯いてしまった。

 その「まさか」と言う意味が掴めず、かといってその意味を問い質すほどの勇気も恒久には無かった。ましてや、自分を追って住井に入って来たなどと思うほど、背負ってもいなかった。

 京子が入社して来てとても嬉しかったが、忙しさにかまけて精々ふた月に一度程度、大学の先輩・後輩的な雰囲気で食事に行ったりはしていたが、それ以上の関係に発展しなかった。

 だが、声を掛ければ必ず会ってくれるし、スケジュールが合わない時は彼女からこの日ならと言う代替案を必ず出してくれた。好意は持ってくれている気はしないでもなかったが、先輩に対して礼儀を失しないようにとの配慮だろうとも思っていた。

 京子が自分の事をどう思っていたかは分からないが、こんなに好きなのにそれ以上進めない自分を、恒久は、「吾ながら腰抜けだ」と思ったがどうしようもなかった。

 バンコクに赴任する事になって、京子が歓送会をして呉れた。彼女は何か言いたそうであったが結局何も言わずで、何となくお通夜のようにして別れてしまったのだ。

 恒久は、バンコク赴任と上司から聞かされた時、真っ先に京子の事を考えた。住井を辞めて自分について来て欲しいと思ったが、何せそんな事を言えるほどの付き合いをしてきていないし、その時は入社してまだ五年しか経っておらず経済的にも京子を養えるか疑問でもあった。 

 あー、このまま彼女とは終りかー、と言っても何も始まってもいないので終わりと言うのもおかしい、などと馬鹿な事を考えていた。要するに京子の事となると、なぜか至極引っ込み思案になってしまうのである。


「左右田先輩!」

 京子は、恒久を見るなり顔を真っ赤にし、みるみる目にいっぱいになった涙がぽろりとこぼれ、頬を伝って旅行カバンに落ちた。

 日本から飛んできた京子を、ドンムアン空港の広い到着ロビーで出迎えた恒久は、その「涙」が何を意味するのかあれこれ頭を巡らせながらも、「大丈夫?疲れたのかな?」とあまりにも情けない事しか言えなかった。

「ごめんなさい!なんか左右田先輩の顔を見たら……」

 恒久は、《先輩・・とかって距離のある言い方だなー》などとその場の緊張した状況とはかけ離れた事を考えていた。

 しかし、到着出口から出てきた京子を、遠目だが見た瞬間、「アッ、俺はこの人の事が本当に好きなんだ」と再認識したのだ。

 到着出口から広い到着ロビーに出てきた京子は、まるで迷子の様に心細げにキャリーバッグを引きながら、恒久を探す姿がいたいけな少女のようで、この人を守ってやりたいと言う気持ちが恒久の胸いっぱいに広がった。

 京子は、タイには学生時代に一度、本人曰く「物見遊山」では無く、経済開発研究の一環の「フィールド・ワーク」と称して足を運んだことが有ったが、今回は純粋の観光と言う事であった。

 夕方までホテルでゆっくり休んでもらって、一緒に夕食に行く事にした。


「実を言うと、先輩。私、先月で住井を辞めたんです」

 京子の宿泊先のドゥシット・ホテルのロビーで落ち合うと、夕食に行く前にお話しがあるんですと彼女に言われてソファーに座ると、突然、京子があたかも宣言する様に言った。

「えっ!で、辞めてどうするの?」

 恒久は、京子の宣言の様な口調に不吉な予兆を感じ、恐れおののきながら聞いた。

「花嫁修業です」

 京子は、下を向きながら顔を赤くして答えた。

「あーそうなんだ……」

 恒久はすっかり落胆して言った。会社を辞めて花嫁修業と聞けば、結婚が決まっての事であろう。

「おめでとう……」

 恒久は辛うじてかすれた声で言った。

「え?おめでとうって?」

 京子は、この人何を言っているのかまるで分からないと言う顔で聞き返した。

「いや、だって寿退社なんでしょう?花嫁修業だっていうから」

「はあー、違います。会社に居づらかったんです。周りが五年過ぎてもまだ居るのかって言わんばかりだったんです。特に総務でしょう、もうおばさん扱いでしたから。まだ五年しか経っていないのに。うちの会社って」

 京子は、少し怒ったような目で恒久を見ながら言った。

「そう、それは酷いね。うちの会社、そういうとこ遅れているからね。それじゃーどうするの?」

 恒久は寿退社ではないと聞いて、ほっとしながら聞いた。

「どうしましょう、行くとこないんで、先輩、責任とって私を貰ってくれません?それとももうおばさんだから嫌ですか?……すみません冗談言って」

 京子は、顔を赤くし冗談めかして笑いながら言った。しかし恒久は京子の目があまり笑っていなかったのに気付いた。

「そう、なんだ、冗談か残念」

 恒久もとりあえず冗談で返したが、恒久の心が高鳴った。

「さてと、それでは、特にどこ行くか決めては無いけど」

 恒久は、かねてから心に決めたシナリオが意外に早く展開しているのに狼狽しながら言った。

「あのー、昔、学生時代にフィールド・ワークで行ったコンケーンの近くの確かバン・ナム・トンと言う名前の町だったと思うんですけど、そのちっちゃな町で食べたイサーン料理が忘れられなくて。まさかこれからコンケーンまでは行けないので、もし近くにイサーン料理屋さんがあれば、左右田先輩が嫌でなければ行って見たいんですけど」

「うん、イサーン料理は僕も好きだよ。この近くに時々行く店があるんだ。そこに行こうか?」

 ホテルから出ると、ラマ四世通り越しにラマ六世の銅像がそびえ、その後方にルンピニ公園が広がっている。一時間ほど前に降った驟雨で若干気温が下がった入相時、二人は水溜まりに注意しながら、ビジネス街のシーロム通りに出て直ぐのサラデーン通りを左折して少し行った所の店に入った。


 間口がすっかり空いており、テーブルと椅子が歩道にはみ出していて、どこからが店でどこからが歩道か判然としていない。いかにも屋台がそのまま店になったかのようだ。

 愛想のいいお兄さんが、お茶の入ったデコボコのアルミのヤカンとコップと置いていった。大分薄汚れた小さなタイ語のメニューが置いてある。

「何にする?勝手に頼んで良い?でも結構辛いのが多いよ、大丈夫かな」

 恒久が聞くと、「ええ、辛いのは好きなんですけど、あんまり辛いのはやっぱりチョット。でも、ソムタムは食べたいです」

「オッケイ。では、ソムタム(パパイヤ・サラダ)とガイヤーン(タイ風焼き鳥)、ナムトックムー(豚肉のハーブサラダ)、スップ・ノーマイ(細切り竹の子の和え物)ともち米にしようか?あ、それとビールもね」

「はい!美味しそう。お願いします」

 流石にイサーンに行った事が有るせいか料理の名前を言っただけでどんな料理か分かったようだ。

 先程のお兄さんが注文をとり終わって奥に行こうとすると、『コートーナカ、ガルナー

 ヤー ペット クンパイ ナカ(すみません。あまり辛くしないで下さいね)』と京子がタイ語で言った。

「あー、ゴメン、辛くしないように言うのを忘れてたよ。あれ……タイ語だね!発音が自然だし、一瞬、日本語で言っているのかと思ったよ。勉強してるの?」

 恒久は、京子がタイ語を使うなんて夢にも思わなかったので、びっくりしたと同時に嬉しくてニコニコしながら聞いた。

「はい。でもまだ全然です。この一年ぐらい週に一回タイ人の先生について習っていましたけど、タイ語は難しいですね。それと、月に一回タイ料理を作る講習会にも通っているんです。家でも時々自分で作るんですよ。日本で手に入らない材料は、講習会の先生が分けてくれるんです」

 鼻の頭と鼻翼の端にぽつぽつと汗を掻きながら京子が言った。

「そうなんだ。凄いね。いつか京ちゃんのタイ料理食べたいな」と恒久が言っている所に、ビールとソムタムが運ばれてきた。

「ええ、いつか」

 京子は、恥かしそうにうつむき加減で返事をした。

 ビールを注いでもらいながら、恒久は頭の中でどう切り出したものか考えていた。よし、ビールを一口飲んで弾みがついたら言おうと思ったとたん、心臓が口から出そうになった。

《こんな所でプロポーズなんてどうかな、今度にしようかな》と、また弱気が支配した。しかし、今を逃したらもう永遠に機会はやってこないと言う気がした。

 京子の様子を見ていると、明らかに自分に好意を持っているのは間違いない。わざわざこうして会いに来てくれたのが何よりの証拠だ。きっと京子は煮え切らない恒久の気持ちを、最終的に確かめに来たに違いない。

 なんて情けない男なんだ。自分から東京に帰ってプロポーズすべきなのに。そう思いながら乾杯をして、話を切り出そうと思った矢先、京子の方が先に話し始めた。

「あのー、それから親が煩くって。好きな人がいないんなら、ちょうど良いお見合い話が有るので話を進めようというんです。今月末にお見合いをセットされてしまって。嫌なら断れば良いし、会うだけ会ったらどうかって煩いんです。で、実は……、一度、左右田先輩に相談してから決めようと思ってお邪魔したんです」

 恒久は、京子に最後通牒を突き付けられた気がした。

「そうなんだ」

 恒久はコップに半分ほど残っているビールを飲み干し、京子を真っ直ぐ見て、「こんな所で何だけど、それと唐突だけど、結婚を前提に付き合ってくれないか?お願いします」とやっと言った。他の料理が運ばれて来ていたが、その時は全く目に入っていなかった。

 京子は、直ぐには状況が呑み込めない様子で、目を大きく見開き恒久を見ていた。ほんの四、五秒の沈黙であったが、恒久にとっては死刑の宣告を受けるかのような気がして、ひどく長く感じた。

 やがて状況を掴むことが出来た様子で、やや半信半疑の風情だが嬉しそうに微笑み「はい、ありがとうございます。お願いします」と京子が震えたように小さな声で言った。

 京子の顔に血の気がさして微笑む様はまるで天女の様に美しかった。

「それじゃー、付き合ってくれるんだね。良かったー」

 恒久が安堵しながら嬉しそうに言うと、京子の目の周りが赤くなったかと思うと、大粒の涙が幾つか頬を伝って落ちた。

 お互い胸がいっぱいで、折角のイサーン料理はあまり喉を通らなかった。


 店を後にし、京子の提案でトゥクトゥクに乗って、オリエント・ホテルのランターン・バーに入った。このホテルは、バンコクでも老舗で、かつて外国の著名な作家が好んで泊まった事が有るホテルである。

 ジャズ・バンドの演奏はまだ始まっていなかったが、ステージの位置から少し離れたテーブル席に陣取り並んで座った。飲み物は京子が旅行案内で見て飲みたいと言った、サイアムヒートと言うカクテルを飲んでみた。

 京子によるとキューバ発祥のラムをベースとしたモヒートを、タイ風にアレンジした物のようだ。ミントの代わりにレモングラスを使っていてさっぱりとなかなか美味い。京子は事前に色々と勉強して来ているようだ。

 ライブのジャズ演奏が暫くするとはじまった。バンドに合わせて歌っている黒人の女性歌手が、よく父親がレコードをかけて聞いていた哀愁をおびて淡々と歌う、ビリー・ホリデイの歌い方に似ていた。

 リクエスト票が回って来たので、京子がスタンダード・ナンバーの「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」と恒久は「ミスティー」をリクエストした。生演奏なので音楽はやや大きめであったが、言葉のいらない二人には丁度良く、握ったままの手をひと時も離さずにジャズを聴いていた。

 京子のやや汗ばんだ手の温もりが愛おしく息苦しかった。

 京子が大学のサークルの開発経済研究会に入って来てからほぼ十年近くも経っている。恒久はここに至るまでに大変な遠回りをしてきた事を悔いたが、幸せであった。

 京子もやっとここまで漕ぎ着けた安堵感からであろう満足そうに微笑んでいた。

 やがて、京子が「寒い」と小さい声で言った。

 京子は持って来た薄手のカーディガンを着ていたにもかかわらず、少し冷えてしまったようだ。冷房が良く効いていたのだ。既に十時すぎてしまったので帰る事にした。

 さすがにお腹も減って来たし、暖かいおそばみたいなものが食べたいと言うので、シーロム通り沿いにある「清」ヌードルという店で、ルークチン・プラー(魚丸)と、ムーデーン(チャーシュー)入りのバーミ―・ナーム(タイ風ラーメン)を食べてから、京子をドゥシット・ホテルに送り届けて帰った。恒久が時々食べている屋台でと言う手もあったが、お腹でも壊されたら大変なので一応ちゃんとしたお店にした。

 別れ際に抱きしめたかったが人前でもあり、ホテルの部屋は冷えるので必ず冷房を切ってから寝る様にと注意だけして帰った。

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