五.七 チェンマイ
住めば都と言うが、タ・サック村は豊かな土地であり、食べる物に困らず、警察に追われることもない。
佐藤隆信はいわば安逸な生活にしばし身を委ねた。
水牛を買って、村に隣接した未開地を少しずつ開墾し、果物や野菜を植えてみたりした。雨季が始まりなかなか開墾は進まなかった。
この時代、農地は開墾した者の所有となると言うので、佐藤は僅かではあるが土地所有者になったのである。
しかし半年近くなるとラチャマイに会いたくて、居ても経っても居られず、危険を覚悟で村を出発した。例のバーツの札束の入ったリックサックは千バーツほど抜き、森の中に隠しておいた。途中で何度か危ない思いをしたが、チェンマイから鉄道で何回か乗り換えていよいよナコンパトムに入った。
早速、ナコンパトムの元の兵站病院を訪ねてみた所、病院は既に市に返還されており当時の従業員は殆どいなかった。唯一当時の事を知っている女がいて、「ラチャマイは実家がある村で死んでしまったよ」と、いともあっさりと言った。いつごろかと聞いても、良く知らないとの答えであった。
暫く佐藤は、この女は嘘を言っていると思っていた。少なくとも半信半疑であった。タイ人の「噂社会」では、人を経るたびに話が大げさになるのである。「具合が悪かった」のが、何人かを経て、「死んでしまった」になったのではないかと自分に都合よく解釈したのであった。
長居はできなかった。ひょっとして、元日本兵だと気付かれ警察に通報されるかも知れないのだ。
受け入れたくない現実から逃避しつつ、ラチャマイの実家のワンウイチャイ村にやってきた。村人の何人かに聞いた所、やはり、「ラチャマイは死んでしまった」と言われた。村人の態度は妙によそよそしくて冷たく、けんもほろろであった。
この時は気が付かなかったが、身なりの芳しくない、素性の知れない男が村の娘を追いかけてきて色々聞き回っていて怪しいと、よそ者扱いされたのではないかと今では思っている。
佐藤はこの時の村人の態度から、やはり警察に通報されでもしたらと慌ててワンウイチャイ村を去ったのであった。
村を出た時は、現実が受け入れ難く「ラチャマイは死んだなど言ってとみんなして嘘をついたりして」と、何か狐につままれたようだと思っていた。だが、暫くすると無意識のうちに拒否していた現実がじわじわと佐藤を襲い始めた。
「ラチャマイが死んでしまった……」
不思議と涙は出なかった。「悲しみ」は、切り立った底なしの谷の様に暗く深かったが、巨石が胸に重くのしかかり、今にも押し潰そうとしているかのような厳烈な「後悔の念」が、悲しみにとって代わっていた。
何故もっと早くラチャマイの元に行かなかったんだろう。
今から考えてみれば「何故」と思うが、その時は捕まりたくないと言う本能的な恐怖心の方が強かったのかもしれない。あるいは、「負けてしまった日本」、「敗残兵」と言う現実に惨めに打ち砕かれた自らのプライドが、潜在意識的にラチャマイの元に帰る足取りを重くさせていたのかもしれない。
そんな恐怖心やつまらないプライドに足止めを喰らっているなどつゆほども知らず、可哀そうなラチャマイは死んでしまったなんて。
《いや、ひょっとしてこれは夢かもしれない、いやオレはあの時ビルマのケンタングあたりで死んでしまって、地獄に落ちてこんなに苦しめられているのに違いない……》
佐藤は、正気を失ったように彷徨いながら帰路についた。
「もしもし、大丈夫ですか?」
列車でチェンマイに着いてから、プラサート住職の所に行こうかどうか迷っていると、「警官」に声を掛けられた。余程、呆けたようにしていたのであろう。
ドキッとして佐藤は正気に戻った。
「大丈夫、汽車に乗って少し疲れただけだ」と、言うと警官は、「カップ(どうも)」と言って去って行った。
ラチャマイが死んでしまった今、収容所に入れられ日本に帰されても別に構わないと思ったものの、タイを離れ難かった。
もし早く帰っていれば死んだりしなかったかも知れない。
ラチャマイの死は自分の責任であり、日本に帰る事は彼女に対する裏切りのような気がした。日本に帰ってその内彼女の事を忘れてしまうのも怖かった。
プラサート住職にラチャマイのとの事を話すと、住職は何も言わずに優しい顔でうなずきながら聞いているだけで何も言わなかった。
村では、佐藤が戻って来たのを村長を始め大層喜んでくれた。中でも、村長の姪の十五才のゴップが嬉しそうであった。佐藤の様子に村長は状況を察したらしく以前にも増して食事に呼んでくれる回数が増えたが、「恋人」の事には一切触れなかった。
佐藤が呼ばれるときには、いつも村長の姪のゴップも来ていた。
この村に来た時には村長の家の近くの小さな空き家を佐藤は与えられていた。
その後、未開の原野の開墾を始めた頃に、開墾地に掘っ建て小屋を建てて住んでいたが、戻ってからは、本格的に住居を建て始めたのと同時に、憑き物に憑かれた様に一心不乱に次々と開墾地を広げていった。開墾地の半分は果樹園としてラムヤイ(竜眼)、ライチ―、マムアン(マンゴー)、マンラコー(パパイヤ)などを植え、後の半分はお米、インゲン豆、さやえんどう、キャッサバ、タロイモなどの野菜や根菜類を植えた。
何度か失敗を繰り返したが、三年もすると野菜類はバーン・プリックの町の市場に卸すことが出来るようになった。
この頃になると、警察に捕まっても構わないと言う気分になってきており、行動が大胆になってきて、チェンマイにも販路の開拓に行くようになった。チェンマイに行く時は必ずワット・チャンタにプラサート住職を訪ね一泊して帰った。
ナコンパトムからタ・サック村に戻って来てからは、元日本軍の金には全く手を付けていない。返そうにもバンコクにあるタイ国駐屯軍司令部は無くなってしまっている。代わりに連合軍の指揮下に置かれた終戦処理部門があるらしいが、どうやらこの部門が連合軍捕虜への暴虐などの戦犯の訴追を行っているとの噂が伝わってきた。
下手に返そうとして、軍用金横領などと変な言いがかりをつけられてもかなわないので、当分の間届け出るのを止めて、森の中に埋めたままにしておいた。
タ・サック村に来て五年程してかなり安定した現金収入が入るようになると、村長から姪のゴップと結婚したらどうかと持ちかけてきた。佐藤がこの村に来た時にゴップは一五才であったが、既に二十才になっていた。
初めから佐藤の事が気に入っていたようで、村長の家に行くと何時も近くでまとわりつくようにしていた。取り立てて美人と言う訳ではなかったが、愛嬌がありとても気立てのよい娘であったし、世話になった村長の勧めでもあるので結婚したのである。
結婚した頃から、農業経営も順調に回り始め、野菜の種類も増え、チェンマイの市場への卸も飛躍的に増えてきた。村の若者達も積極的に未開地の開墾を始めるとともに、農園、果樹園での作業の方法や、市場で集めた需給の動向によって集荷、出荷を決めるやり方など佐藤の指導の下で真面目に覚えはじめた。
結婚して二年もすると、村全体が自給自足に近い生活から少しずつ抜け出し始めた。ただ、それを見ていて佐藤には迷った。お腹か空けばたわわになったバナナやパパイヤを取って食べ、夕食には川にいる魚を捕って食べるような、ゆったりとして飢えもないほぼ自給自足の生活から、厳しい貨幣経済の荒海に漕ぎ出し始めた彼らは本当に幸せなのだろうかと。
だが、ゴップの一言でそれも吹っ切れたのである。
「村の男たちはあまり仕事をせずに、一日中タバコを吹かしたりしてブラブラしている人が多かったの。でも、最近はあなたの始めた新しい土地での農場や果樹園の仕事のお蔭で、若い男たちが働き始めたわ。なにより、街で見かけて欲しいと思っていても、これまでは諦めていた物が買えるようになってから目の色が変わって来たの。
それに、村全体が豊かになってお医者さんにも通えるようになったって、おばあちゃんが喜んでいたわよ」
物事、良い面と悪い面がありいわばトレードオフの関係にある。どちらを重視するかで見方はがらりと変わってくる。そうだ、ゴップの様に良い面を見れば良いのだ。
佐藤はそれから、迷わず若者の指導に拍車をかけた。
タ・サック村は、稲の刈入れの時期を迎え、徐々に空気は澄み始め、夜になるとやや厚手の物を掛けて寝ないと風邪をひいてしまうような季節になった。
所が、ある時からゴップが朝起きるのが辛いと言い始めた。始めのうちは疲れたんだろうとタカを括っていた。
「サトー、ごめんなさい、私、何をするにも……億劫であまり動けない……」
ゴップは肩で息をしながらしんどそうに言った。
「謝る事なんてないよ。無理しないで、ゆっくり寝ていなさい。家の事は僕がやるから心配しないで良いよ」
佐藤は、さて困った。チェンマイの病院に連れて行かなくてはと思っていたが、稲の刈入れシーズンで一日延ばしにしていた。
その内、白目が黄色くなり黄疸症状が出てきた。
これはまずいと、あわててチェンマイの大きな病院に駆け込んだ。肝炎が悪化していたのだ。
入院して十日ほどでゴッブはあっけなく亡くなってしまった。
順調であったタ・サック村での生活もゴップの病死をきっかけにがらりと変わってしまった。ラチャマイに次いでゴップまで亡くしてしまったのだ。
佐藤はすっかり落ち込んでしまい、何もする気がしなくなってしまった。
ナコンパトムを出発して十数年、ビルマでは死線を彷徨い、タイでは警察にびくびくしながら、兎も角にも必死に生きてきた。ラチャマイが死んだと聞いても必死に歯を食いしばって耐えてきた。何かに突き動かされるように、全速力で駈けてきたのである。
それが、遂にここにきてプッツリと何かが切れてしまい、虚脱状態になってしまったのだ。
一九六〇年二月の事であった。
暫くそうした放心状態が続いている時に、村に一本だけある村長の家の電話にバンコクの日本の領事館から電話があった。
「元日本兵がその村にいると言う噂を聞いた。日本とタイとの国交が既に八年前の一九五二年四月に回復している。希望があれば帰国支援をすることも出来るし、旅券が無ければ発行する手続きも可能」と、言ってきた。そう言えば、大分前に警察は元日本兵の捜索は既に行なっていないと村長が言っていた。
《日本!そうだ俺は日本人だ。あの恐ろしい戦争を始めた日本が、希望するなら帰っても良いと言っている。今更なんだ。原隊復帰していないので脱走兵扱いするのではないか?だが、戦争が終わってしまったら脱走兵も糞もないだろう。オヤジははどうしているだろうか。お母さんのお墓には出征前に行ったきりだ》
そう思ったら、急に頭がハッキリしてきた。
《一体、日本はどうなっているんだろうか、新型爆弾で広島と長崎が一瞬で消えてしまったらしい。確か終戦後に朝鮮が南北に分かれて戦争が始まり、北を中共が、南をアメリカが支援をし、日本がアメリカ軍に物資を収めていると聞いた。昨日の敵と随分と仲良くなれたものだ。日本に帰っても良いと言うが、今さら帰る気なんぞしない!》
そう思ったものの、自分が日本人であることは否定できない。一応名乗り出てみようと思い直したのである。
佐藤は、まず日本軍の経理部の人間から預かった約四万バーツを世話になったチェンマイのワット・チャンタにタンブン(寄進)し、バンコクに向かった。せめてものケジメとして、預かってからそれまでに使った分の穴埋めをして余りある金額をタンブンしたのである。
プラサート住職は、事情を聴いて暫く黙想していたが、やがて眼を開けると、
「分かった、このお金で、子供達の学校を建てよう。日本からの贈り物と思う事にしよう」
と、静かに言った。
一九六一年一月の事であった。
佐藤はその足でバンコクのウイッタユー通りにある在タイ国日本大使館に行き、自分はこれこれこう言う者であると名乗り出た。
奥から日本人の領事が出て来て、親切に対応してくれた。出してくれた久しぶりの日本茶が腹にしみわたり、涙が出そうであった。
調査書に、戸籍や元の住所、軍歴、終戦から現在に至る履歴などを記入し、軍隊手帳を添えて提出をした。領事に終戦後日本に戻らなかった理由と経緯を詳しく聞かれたが、そこは正直に答えた。写真がいると言う事であったので、後日、日系人の写真屋さんで撮ってもらった写真を届けた。パスポートの発行に一年ぐらいかかるかもしれないが、内地で調査の上いずれ連絡するとの事であった。
宿はスリウォン通りにある、オーナーが台湾人の富士ホテルにとった。バンコクでは、一週間ほどあちこち見て回ってから村に帰った。二度ほど、日本のレストランで日本食を食べたが、正直あまりうまく感じられなかった。レストランの味が悪かったのではなくて、舌がすっかりタイの味に慣れてしまっていたのであろう。
半年もしない内に、身元が確認出来たとの連絡があり、日本人としてのパスポートが発給されるとの事で、またバンコクに出向いた。
パスポートは、全体に紫に近い黒の薄手の革が張ってある大変に立派な装丁で、表紙の上段に「日本国旅券」、下段に「PASSPORT OF JAPAN」と金色で書かれている。
その間の丁度中央部分に金色の菊の御紋が、菊の葉を模したと思われる左右対称に広がる模様の上に、まるで日輪の様に燦然と輝いていた。
各々のページには、日本国旅券とある無数の文字が背景の意匠に使われており、真ん中に日本国政府の紋章である「
《日本の旅券かー。そう俺は日本人だ。だが、中には脱走兵と思う輩もいるに違いない。怪我と赤痢で終戦までに原隊復帰出来なかっただけで、断じて脱走ではない。終戦で除隊命令を受けていないだけだ。懐かしい日本に帰りたい気もするが……。しかし、何より、俺はタイにすっかり根を生やしてしまったからなー。タイの名前まで貰っているし》
タ・サック村の村長が知人の郡長と掛け合ってくれて、一九五五年に「タイ人の身分証明書」を発行してもらったが、その際チェンマイのワット・チャンタのプラサート住職に「サトー・パンティパープと言う名前を貰ったのである。サトーは佐藤から、パンティパープは平和と言う意味である。皆からサトー、サトーと呼ばれており、日本での苗字がこちらでは名前になったのであった。こうしてタイ人としての身分を貰ったので、正式にゴップとの婚姻届をアムプー(郡)の役所に届け出をしたのだ。
「すみません。こちらの席空いていますか?」
佐藤が、富士ホテルの一階の食堂で朝食をとりながらタイ語の新聞サヤーム・ラットを読んでいると、日本からのビジネスマン風の男が聞いた。男は、タイ語紙を読んでいる佐藤に興味を持ったらしく、座ると直ぐに話しかけてきた。
「こちらは長いんですか?失礼……、日本の方とお見受けしたものですから」
佐藤の運命の歯車が大きく切り替わった瞬間であった。
一九六一年六月の事である。
その男は、住井物産のタイの現地法人である、タイ国住井物産の社長の藤岡隆司と名乗った。社長と言っても、部下は日本人の若手一人とタイ人スタッフ三名という構成であった。
一九五一年に日本とバンコクとの定期航路が認可された事によって、商船会社や商社の駐在事務所が相次いで設立された。一九五四年には盤谷日本人商工会議所が商船、商社中心に設立されているが、タイ住井は昨年の一九六〇年に現地法人を設立したばかりで、若干タイへの進出が遅かったようだ。
日焼けして真っ黒な顔でタイ語紙を読んではいても、ホテルの泊まり客らしく、顔立ちや振る舞いから見て佐藤の事を日本人だと思ったと言う。
藤岡は、掻い摘んで話した佐藤の身の上話に大層興味を持ったようで、結局夜に一杯やることになった。
「不躾で申し訳ありませんが、結論から申し上げますと是非うちで手伝って頂けると有り難いのです」
藤岡は、佐藤にビールを注ぎながら本題を切り出した。
「こちらではお役人さんの上の方は英語が出来ますが、役所の窓口の人達や、例えば不動産屋にしても英語はからっきしだし、何をするにも日本語とタイ語の通訳が必要なんです。
英語が出来ると言うタイ人を雇ってはいますが、これがなかなか隔靴掻痒でして、私の英語も必ずしも十分ではないし、一番大事な『ここ』と言うところがいまいち曖昧だったりしてストレスが溜まるばかりなんです」
どうやら藤岡は端から佐藤を現地スタッフとして雇いたいと思っていたらしく、「ぜひお願いします!助けてください」と、土下座せんばかりに懇願されてしまった。
「いや、申し訳ありませんが、貿易とか商社の仕事などと言う物は全くやったことが無く私には無理だと思います。勿論、仰るように住井と言えば旧財閥系で、恐らく日本人で知らない人はいない位の会社ですから大変ありがたいお申し出だと感謝はしております」
佐藤は、礼を失しないように丁寧に断った。
「失礼ながら、佐藤さん。お話をお聞きしていると、その村で農業を教えたりしながら一生暮らすというのは、それはそれでひとつの生き方として敬意を表しますが、タイは昨年『一九六〇年産業投資奨励法』を公布して本格的に外資の導入を始め、今年から第一次経済開発五ヵ年計画を発足させ、いよいよ経済開発に着手したのです。
また昨年、ご存じのように国家教育計画を発表して初等教育を四年から七年制に替えて、国民の全体の教育レベルもアップさせ、国力を浮揚させるべく力を入れ始めたのです」
藤岡は、必死であった。
「我々商社の仕事は、そうした意欲的な経済開発、産業開発に微力ながらお役にたてることが出来るものと確信しているんです。佐藤さんはタイ語は相当お出来になるとお見受けしていますので、タイのこれからの発展、さらには日タイ関係の興隆に大きく寄与するチャンスなのではと思うんです」
その時、佐藤はタ・サック村を離れてバンコクに来ようなどとはまだ全く思っていなかった。確かに、タイ語は、暇を見ては村長に教わったりチェンマイ大学の教材を色々と使って勉強したりしていたので、相当なレベルであるとは自認していた。
村に帰ってから佐藤は、藤岡の「タイの発展を願うのであれば、より広い舞台で活躍すべき」という言葉がずうっと気になっていた。この村も既に若手の後継者がかなり育ってきている。彼らに任せてももう大丈夫だろうとやがて思い始めた。
これまで、先行きの事など全く考えても見なかった。兎も角毎日その日を一生懸命生きてきたのだ。
だが、「このまま一生ここで暮らすのかい。もう少し何かに役に立てるのでは?」と、日本の「旅券」で横っ面をピシャリっと叩かれた気がした。
暫く決めかねて、ワット・チャンタのプラサート住職の所に相談に行った。
「サトー、私の所に来ようとした時点で既にバンコクに行こうと決めていたのではないのかね。相談に来たのではなくて、私の許可を得たくて来たのではないのかね」
プラサート住職は、佐藤の心を読んだように言い当てた。
「それに、サトーならタイの為にもっと役に立てる事が出来ると思っているよ」
こうして、開墾した果樹園と農園をタ・サック村に全て寄付をして、佐藤はバンコクのタイ住井物産に裸一貫で乗り込んだのであった。
一九六二年一月の事であった。
始めこそ、社内文書の書き方やテレックス(ファクシミリの一世代前のデジタル電信方式)に苦労したものの、タイ語を自在に操ることが出来、生来真面目な佐藤は、年を追うごとに成長するタイ経済と共にビジネスを拡大して行くタイ住井の中で、いつの間にか居なくてはならない存在となって行ったのである。
タイ住井での佐藤の待遇は、藤岡が懇願して来て貰ったこともあり、現地スタッフの給与としては破格であった。もちろん、日本人だからと言って日本からの駐在員と同じ給与と言う訳にはいかない。
日系企業の現地のスタッフは、現地の給与水準に照らし合わせて、日本語や外国語の能力、特殊技能などを勘案して決めているのである。日本からの駐在員の給与は、企業によって事情は異なるが、一般的には国内の給与に加えて海外駐在員手当が支給される。
国内給与は、その人の給与の格付けに応じてそれまで国内で貰っていた給与であるが、海外駐在員手当は、それぞれの駐在国の物価水準、生活の難易度、瘴癘(しょうれい)の度合いによって異なり、国内給の格付けに応じて支給されることが一般的である。さらに、駐在員には、住居手当や必要に応じて子女教育手当などが支給されるのである。
通常だと、佐藤の場合は現地の人と同じ扱いで、現地スタッフの給与の格付けに応じた給与に日本語が出来る分を上乗せした程度である。だが藤岡は、駐在員に係る諸手当は支給しないが、佐藤の年齢に応じた日本国内の給与水準を適用したのであった。
日本の円ベースの国内給を現地通貨に直すと、タイの場合は破格の待遇となるのである。
これが後年、日本語が出来るタイ人スタッフとのトラブルの元になってしまった。しかし、トラブルがあった当時、東京本社で丁度人事担当であった藤岡は、佐藤を東京本社付に発令して「本社付バンコク駐在員」と言う位置付けにしてタイ人スタッフとの差別化を図り、不満を抑え込んだのであった。
当然、タイ人スタッフとしては納得がいかない措置ではあったが、佐藤の昼夜を惜しまない仕事に対する情熱と、日本からの駐在員達を上回る有能さの前に沈黙するしかなかったのだ。
佐藤は一度だけ日本に帰ったことが有る。一九六五年の暮れの事だ。既に両親は無くなっており、豊橋の実家は人の手に渡っていた。佐藤は一人っ子であった。母親の弟である叔父が名古屋に居ると言う事が判り、訪ねていった所、ひどく迷惑そうにされた。彼はどうやら、突然現れた身寄りの無い佐藤が自分を頼って来て、寝食の提供でもして貰おうとしていると思ったらしい。それと、後で調べたら豊橋の実家はその叔父が相続し、その後売り払ってしまったらしい。迷惑そうにしていたのはうなずけた。
久しぶりの日本は、戦後の荒廃からすっかり立ち直り、昨年の東京オリンピックに間に合わせて完成したばかりの羽田からの首都高速道路や東海道新幹線など、どれを見ても想像を絶する発展ぶりである。それに引き替え、タイはどうだろうか。未だその足取りは重たい。
ラチャマイはいないが、自分はタイで微力ながら経済発展に寄与して行こうとこの時改めて心に決め、タイに骨をうずめる覚悟を決めたのであった。
勿論、これまでも自分はこのままずっとタイにいるのであろうと漠然とは思っていたが、初めて明確にタイ人としてタイに骨を埋めようと決意したのである。その決意をより確固たるものにしたのは、高邁な信念と言うよりも、むしろ極めて世俗的ではあるが日本の飯(めし)が口に合わなくなってしまったからであった。
コメはタイ米と匂いが違って香りに欠けて大粒で舌触りが悪く、料理の味付けは砂糖と醤油中心の単調な味付けで、「七色の味」がするタイ料理と比べると味気なく感じるようになってしまったのだ。
また、頼って行ったわけでも無いのに迷惑顔をされ、根掘り葉掘り日本にずっと居るつもりかと聞いたり、もし居るつもりでも、自分は子供三人を抱えて生活が苦しくてとても佐藤の面倒を見ることが出来ないと言われ、すっかり幻滅してしまったからと言う事もある。
四十三才にもなって日本に帰ってまた一から出直そうとは考えてはいなかったし、現実的ではなかった。だが心の奥底のどこかで日本に帰ることも完全に否定はしていなかった気もしている。だがそれもそんな事でキッパリと断念したのである。
佐藤は、日本からバンコクに帰ってから、ビルマで世話になった家族を訪れて礼をしようと二度ほどビルマに潜入して探したが、どうしても探すことが出来なかった。川が唯一の交通手段で、舟を使った行商人に金を掴ませ案内をして貰ったが分からなかったのだ。
その後、世話になった家族のいる南東ビルマとは方向違いではあったが、一九七五年と七七年のインパール方面のビルマ、インドの遺骨収集団にも参加した。
タイ住井物産と新興財閥のタナーエンタプライズのユッタナー・ラータナワニットとを結びつけたのは、佐藤である。佐藤は、一九六二年一月にタイ住井に就職してからほぼ二年間は藤岡から話を聞いたり、時間があれば日本大使館やティプロ、日本人商工会議所に行って資料を読ませて貰ったりしてじっと周りの情勢を勉強していて、仕事は殆ど藤岡の通訳や本社とのテレックスのやり取りなどで過ごしていた。
二年を過ぎると、これからは日系企業や日本人駐在員が増えるので、日本人駐在員用の高級コンドミニアムや日系企業用の事務所ビルが必要になるので今から建設を始めたらどうかとか、トタン板の需要が多いので亜鉛鋼板などの製造販売を始めたらどうかとか次々に佐藤は新規事業の提案を始め、その合弁相手としてユッタナーに目を付け、自ら交渉にあたったのである。その後ユッタナーと組んで家電製品、自動車、機械類、鉄鋼製品などの製造、販売事業への参画などの事業を拡大して行ったのだ。
ユッタナー率いるタナーグループは繊維関係の事業から身を起こしたのだが、日本の住井物産や菱丸商事と手を組み大きく成長し、今やタイにおける財閥の一角を占めている。特にタナーグループと住井との関係では佐藤の存在を抜きにしては語れないと言って良い。
一九八二年になって佐藤は住井を定年退職し、嘱託として八七年まで働いていたが、その後は、時々何かあると住井からアドバイスを求められたりしている。
住井の嘱託を辞めた一九八七年十月の上旬に久しぶりにタ・サック村を訪れた。タ・サック村やチェンマイのワット・チャンタには、彼の面倒を見てくれた村長が亡くなった時や、十七年前にプラサート住職が亡くなった時に行ったきりであった。
幹線道路を入って、村に続く道路は既に舗装されており、左右にはそろそろ収穫時期を迎えた黄金色の稲田が広がっている。灌漑用水路が四通八達に張り巡らされ、畦道は農業機械を入れるために真っ直ぐに直されて、田は方形に整備されている。
村に入ると、そこここに近代的な家が目立つようになっている。
佐藤がバンコクに出て来てから、村長の息子が指導力を発揮して、引き継いだ佐藤の遺産をさらに発展させ、そして農業大学のカセサート大学で農業を学んだその彼の息子(佐藤が世話になった村長の孫)が、今やタ・サック村をチェンマイ郊外では有数の農産物産出地域に大躍進させたのだ。
タ・サック村で結婚したゴップとの間には子供が出来なかったので、佐藤は、世話になった村長の孫を実の子と思って大学の学費を出したり、バンコクに有るカセサート大学に通う間、少し遠かったが佐藤の家に下宿をさせたりしていたのだ。
ユッタナーとの関係で佐藤が最も驚いたのは、プラニーが自分の娘でナリサが自分の孫だと分かって暫くしてから、あのラチャマイの姉のマライがユッタナーの第二夫人であった事が判明した事である。その事が分かったのは既に住井での嘱託を辞めた後であったが、ユッタナーとの仕事や個人的な付き合いは、亡くなったラチャマイが引き合わせてくれたのではと思わざるを得なかった。
佐藤が住井の嘱託を辞めた後に、ユッタナーとサマートがオンヌットの自宅を訪れて、タナーグループのアドバイザーになって欲しいと頼まれた。それまでも言ってみればタナーグループの実質的なアドバイザーみたいなものであったが、住井に籍が有ったので正式に依頼するのは遠慮していたようだ。かなりの高給を出すと言われたが、今更お金は必要がないので無給と言う事で引き受けた。
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