五.六  ケンタング(ビルマ)

 佐藤孝信は、娘と孫に会った二日後に、ラチャマイ・クンサラワニットの姉のマライと妹のモンテワンと会った。娘のプラニーと孫のナリサも一緒だ。

 娘と孫に初めて会った時、あまりにも凄まじい現実に圧倒されて感覚が麻痺してしまっていた様で、娘がいてさらに孫までいると言う事実が現実味を持たなかった。

 ラチャマイが、自分が死んでしまったのを悲しむあまりに死んでしまったと言うことも実感が湧いてこなかった。

 佐藤は娘と孫に会ってから、ラチャマイの姉妹に会うまでの間、自分が何をしていたのか殆ど記憶がない。頭の中がバラバラになって何も考えられなかった事もあったが、自分では明確ではなかったが何かを拒否していたようだった。

 しかし、ラチャマイの姉妹に会ってからやっと落ち着いて、現実を受け止める事が出来るようになった一方で、あのラチャマイが自分を探してあちこちの日本人収容所を回っていたという話を聞いて、胸が苦しくて息ができないほどであった。

 さらに、ラチャマイは何かの病気で死んでしまったのではと思っていたのだが、彼女の姉妹によると彼女は佐藤が死んでしまったと聞いて、悲しみのあまりに衰弱が進んでしまい遂に死んでしまったと言うのだ。娘のプラニーもそんな事を言ってはいたが、それは二人のおばさん達から聞いた話で、多少美化した話だろうと思っていた。だが、実際に見聞きしていた姉妹の口から、ラチャマイが自分の死を悲しむあまり日々衰弱していって、ついには娘を残して死んでしまったと言う生々しい話を聞いて佐藤は頭の中が真っ白になった。

 何であの時、捕まったりするのを怖がらずに、真っ直ぐラチャマイの所に飛んで帰らなかったんだろう。帰っていればラチャマイは死なないで済んだだろうし、娘のプラニーもきっと苦労しないで済んだだろうに。ナコンパトム病院気付で手紙を出せば良かったと思ったものの、その手紙を届ける手段が無かったのだ。別のルートでタイに戻る兵士に託したとて、その兵士は十中八九途中で息絶えてしまったに違いない。

 家に帰った佐藤は、娘や孫がいた事の嬉しさはあったものの、早くラチャマイと子供のもとに帰ればよかったのにと言う激しい悔悟の念が一気にに湧き上がってきて、気も狂わんばかりに家中をウロウロしたり、椅子の肘掛をしびれて感覚が無くなるほど、何度も何度も握りこぶしで叩いたりして、自分を責めた。

 当時はかなり心を病んでしまっていたのだ。

 佐藤がそれまで拒否していたのは、ラチャマイが自分が死んだと聞いて生きる力を失って死んでしまったと言う、あまりにも辛すぎる現実を受け入れる事であったのだ。

 佐藤はそれ以来、この悔悟の念にずっとさいなまれる事になる。

 その夜中、別棟にいるお手伝いさんが物音に気が付いて、夫の庭師と共に何事かと恐る恐る見に来た。悲しみに打ちひしがれた様子のナイハン(ご主人様)の顔と、真っ赤に腫れ上がって震えている手を見て、これは何か辛い事でもあったのだろうと察して、何も聞かずに、氷で手を冷やしたり落ち着かせようとビールを持って来て飲ませたりした。その内ビールが効いてきたのか佐藤が落ち着いて来たようであったので帰って行った。

 佐藤はビールが効いてきた頃、ラチャマイを思いながら必死にビルマ(現ミヤンマー)東部からタイ北部を目指している時に、敵の機銃掃射を太ももに受け、さらにひどい下痢になっててからもなおジャングルを彷徨し、あるアカ族の家族に拾われたことを思い出していた。


 どのぐらい気を失っていたのであろう、眠っていたのかもしれない。

 サルファ剤が効いてきたのか、下痢はやや収まっていた。もっとも、食べてないので、出ないのかも知れない。

 足の傷は、太ももの付け根を縛って止血しながら、貴重な麻酔を使って自分で傷口を縫い合わせ、ペニシリンの注射と鎮痛剤でなんとかごまかすことができたので、這うようにして移動した。二日ほど小川沿いにゆっくりと南下すると、煙の匂いがしてきた。

 人家があるのだ。

 さらに小川に沿って進み、川から五、六メートル登った岸辺から見ると、少し先に藁ぶき屋根のやや傾き加減の掘っ立て小屋二軒が肩を寄せ合うように建っていた。庭には鶏が放してあり、小屋の横には屋根付きの、シーソーの様に足で踏んで杵を持ち上げ落とす脱穀・籾スリ臼があった。

 まともに歩けず、這うようにして佐藤が家に近づくと、銀の飾りがついた被り物を付けた老婆が、家から出て来て山側の方に向かって何か大声で叫んだ。腰が曲がりかけた老婆は両手を腰に当て、佐藤をしげしげと観察するように見ていた。佐藤はそれを見ながらまた気を失った。

 佐藤は結局、山岳民族であるそのアカ族一家の所で一年ほど療養させてもらったのである。ケンタングを何日か南下した辺りだったような気がしている。

 親切なその家族は老婆とその息子、息子の嫁、孫男女一人ずつという5人構成である。川を越えた先にある畑で米を作り、山側の畑で野菜を作って生活をしている。

 ほとんどが自給自足の生活だが、村の人達や、時折舟でやってくる商人と物々交換で油や塩、魚醤などの調味料を手に入れていた。

 この地域は村をなしている数十家族ほどのアカ族の集落と、この家族の様に集落周辺にそれぞれが数キロほど離れた位置関係で何軒かの農家が点在している。

 この地域と外部とをつなぐ道はなく、唯一の交通手段は舟である。

 家と言っても、一応は高床式の藁ぶき屋根の小屋である。構造材は木だが、壁や部屋の仕切りは殆どが竹で、隙間を細い竹の穂先を挿して埋めている。母屋には老婆の寝室、空き部屋、居間・食堂兼台所である。全部の部屋あわせて十畳ぐらいであろうか。

 その直ぐ隣には息子夫婦の家があり、寝室と居間のふた間である。食事をしたり、お茶を飲んだりの団欒は、老婆のいる母屋の居間・兼食堂でする。佐藤は、母屋の空いている部屋に寝かされた。子供部屋だったらしい。老婆には、隣に住んでいる息子と娘がいたが、娘は、近くの集落に嫁いでいったようだ。

 雲の無い夜には、寝かされた部屋の外壁の隙間から月が良く見えた。

 佐藤がほぼ一年間もこの家族に世話になれたのは、愛想は悪いが心から親切な老婆のお蔭である。この家では、表面上は息子がすべて取り仕切っている風であったが、実際は老婆が絶対的な権力を持っていた。

 息子夫婦は瀕死の外部の人間、特に見慣れない衣服を着て武器を持った者の面倒を見るのを反対したであろう。ただでさえ家族五人が食べていくのがやっとだからだ。

 だが、病人を放っておく訳にはいかなかったし、生まれてからこの方この村落を出たことがなかった老婆は、外の世界から突然彷徨いこんで来た異星人の様な佐藤に、外の世界を垣間見たに違いない。

 彼女は、この「異星人」の面倒を見ると息子夫婦に宣言したのである。不安や懸念を好奇心と生来の親切心が退けたのであろう。

 老婆は、時折笑うと歯がほとんど無く、一、二本辛うじて残っている歯は茶色くちびている。そのちびてしまった歯と、皺だらけの顔の中でとりわけ深く刻まれた眉間の皺が、老婆の人生を物語っていた。

 さらに佐藤の滞在を確実にしたのは、カリカリに痩せ、マラリアに罹って常に小刻みに震えている三才ほどに見える孫の女の子にキニーネを与え症状を抑えたからである。

 石山中佐から貰った「薬品」のかなりの部分は同僚の兵士たちに分けたが、一通りの薬は「何かあった時の為」にとしっかりと自分用に確保しておいたのである。魔法のような薬の効き目に息子夫婦も佐藤を快く受け入れたのだ。

 体力が極端に落ちてしまったことから、足の銃創と赤痢の治りが遅く、始めのひと月は殆ど寝たきりに近かった。起き上ってやっと動けるようになったのが二か月目で、少しずつだが手伝いを始めた。まずは足で杵を持ち上げる式の臼を使った毎日の米の籾すりからだ。足が痛かったが、体力回復に役に立つと思ったのだ。

 ここでは、コメは籾のままで保管しておき、毎日食べるだけ脱穀する。コメは竹製のセイロで蒸していたが、少し芯が残っていることが多かった。コメはもち米ではなく普通のうるち米だが、粘り気は強い方だ。 

 蒸しあがったコメは手で起用に丸め、唐辛子のきいた薬味につけて食べる。副菜は殆どがシダ類やつる菜の様な野草や薬草を生でサラダの様にして食べるか、インゲン豆や野菜の煮たもの、ウリ類の炒め物、「高菜」のような漬物である。

 コメは陸稲で、小舟で川を渡った対岸のやや平坦な土地で作っている。僅かばかりの土地だが、息子の所有地だと言う。ここでは代々息子が土地を受け継いでいるようだ。

 タンパク源は魚や鶏の他、魚醤で味付けした卵焼きなどである。佐藤の体力が回復し始めた頃に、それは奮発してくれたのであろう、庭にいた鶏をつぶして丸ごと焼いて食べさせてくれたことがあった。

 彼らは手づかみかスプーンで食べていたが、佐藤は辺りに豊富にある竹で作った箸で食べた。子供たちは直ぐに佐藤の真似をして器用に箸で食べたりしていた。

 体力が回復してから、川を伝って来る行商からタイ・バーツのお札で魚の塩漬けやライチ―などを買ったことが有った。比較的タイとの国境に近くなっているせいか、なんとタイ・バーツが通用したのである。お金と言えば殆どコインしか見たことのないこの一家にとって、お札を見るなどまさに仰天の出来事であった。

 経理部の兵隊のうち二人は下痢で動けなくなり途中で置いて来ざるを得なかったが、そのうちの一人が、佐藤があげた薬のお礼と言ってタイ・バーツがぎっしり詰まっている鞄を持って行くようにと持たせてくれたのであった。

 何の為のお金か分からなかったが、きっと軍用で何かに使う為の物なのであろう。佐藤が遅れ始めた時に、まだ元気そうな経理部の兵隊にその鞄を返そうとしたが、彼もそれ以上は持てないと言ってそのまま置いていってしまったのだ。

 タイは、ビルマの様に占領地ではないのでいわゆる軍票の発行は無く、現地の通貨のままであった。この時点で佐藤は、何れバンコクに帰ったら預かり物として軍に返却しようと考えていた。

 佐藤は、農作業の手伝いを始めたり、畝立てをした畑の管理方法を導入したり、竹で小型の簗(やな)の様な漁具や網籠を作りナマズや雷魚を採ったりと、子供の頃から親の手伝いや川遊びで覚えた事を役立てる事が出来たのであった。竹が自生していることから、彼らも野草や野菜を入れる編み籠や編み笠を上手に作っていた。

 冬はかなり気温が下がるが、季節感があまりない場所柄、時の流れに無頓着になってしまう傾向がある。気が付いてみるとほぼ一年近くも経ってしまった。またジャングルの中の逃避行の事を思うと出て行くのがはなはだしく億劫になってしまったのだ。ただ、自分でも気が付かなかったが、後で考えてみるとこの時は神経を多少侵されてしまっていて、あの家から動けなかったのだろうと言う気がしている。


 ――そうだ、ラチャマイの所に帰らなければ。

 佐藤の気力が大分戻ってきたようだ。

 朝晩かなり冷え込んできたその年の暮れに、佐藤は五人の涙に見送られながら行商にやってきた舟に乗せて貰い出発した。紙幣を少々とコインを置いて来た。多額だとどうせ船で来る行商に騙されるだけなのだ。少額でも彼らにとってはひと財産と思った事であろう。

 舟を降りた後、敵の戦闘機に気を付けながら道路沿いにタイとの国境の町タチレクに向かった。傷はすっかり良くなったが、左足はまだわずかに引きずってしまう。二週間後に到着したタチレクで日本の敗戦を知った。

 既に、戦争が終わって四カ月も経っている。

 戦争が終わってほっとしたものの、猛烈な無力感が襲ってきた。呆然としてタチレクにいた。だが、今度はビルマの警察が日本兵を捕まえて連合軍の管理する収容所に入れていると聞いて慌てた。身なりはまるで現地の人と変わらないように腰にスカートの様なロンジーを巻いてビルマにいる間はタイ人のふりをしていた。


 いよいよ国境を画しているサーイ川を渡り、タイ側のメーサイに入った。

 一九四六年二月であった。

 タイでも、警察や軍隊が元日本兵を探していた。捕まって収容所に入れられたあと、ずっと留め置かれるのか、日本に戻されるのか皆目見当がつかなかった。捕まってしまえば、ラチャマイに会えなくなってしまうのは間違いない。戦争が終わって、敵機に怯える必要は無くなったものの、今度はいつ捕まってしまうかびくびくしていなければならなくなった。身近な人に密告されるかもしれないのだ。

 メーサイでは、今度はビルマ人のふりをすることにした。

 早速、経理部の兵隊の置いていってくれたお金が役に立った。バーツ札は二十バーツ札で百枚の束が二十束ほど有った。ビルマ・ルピーの軍票も少しあったが、役に立たないし、むしろ重いので途中で捨てるべく穴に埋めて来た。戻って取りに帰るにも森の中で目印があるわけでも無いので捨てたも同然だ。

 メーサイの安宿の女将が、怪しんでどこから来たのか、どこの国の人かとしつこく聞くので、お金を掴ませた所、途端に親切になった。

 ただ、それでも密告する危険性があったので、少しずつお金を渡した。お金が貰えそうだと思っている間は大丈夫であろうと踏んだのであった。

 苦労したのは二十バーツ札しかなく、店で買い物したり、屋台で食事をしたりするには大きすぎ、お釣りが無いと言われてしまうのだ。宿の女将に一割の手数料を払い細かくしてもらった。彼女にしてみればボロ儲けである。使い古していないピン札を何枚も持っているのは確かに怪しい。宿にお金を置いていくと危険であったので、外出するときは何時もリックサックに入れて持って歩いていた。ただ、格好はビルマ人のようだがリックサックが何とも怪しげであったが、盗られてしまうよりは良い。

 この女将、肌の色や見た目からも華人系の様に見受けられたが、何よりもそのケチさ加減とお金に対する執着心がタイ人系ではないことを証明していた。年恰好からすると五十才ぐらいと踏んだが、本当はもっと若いのかも知れない。四六時中、檳榔びんろうを噛んでおり、笑うと檳榔で赤く染まった唇が大きく裂け、左右に一本ずつ残った赤い犬歯が不気味に見えた。白髪交じりの髪は一度でも梳かしたことが有るのかと思えるほど乱れたままで、さながら口から血を滴らせた鬼婆風であった。

 この女将から得た情報によると、どうやらタイ全土に日本人の収容所が出来ており、殆どの日本兵が収容されている様であった。大きい街に出ればもう少し情報が入るだろうと思い、チェンマイに行く事にした。大きい街であれば、目立たずに潜んでいることが出来るのではと思ったのである。

 所がチェンマイ市内では、警察の捜索が非常に厳しく行われていたのだ。用心しながら、街の北にある比較的小さなお寺に駆け込んだ。事情は何も話さずに「何日か泊めてください」と言うと、住職らしい年寄のお坊さんの所に連れて行かれた。

 またその老僧に「ルアンポー(住職)、何日か泊めてください」と言うと、老僧は「居たいだけいなさい。で、所でどこから来たのですか」と聞いた。

 日本人とはどうしても言うことが出来ず、「ビルマから来ました」と言った。お坊さんは、にっこりと笑って、何と「日本語」で「ビルマから?それは大変でしたね。それで日本はどこからですか?東京?大阪?」と、言うではないか。

「—―愛知県の豊橋です……」

 佐藤はまさかこんな所で日本語が出てくるとは想像もしていなかったので、吃驚しながら「日本語」で答えた。

「そうですか、実は私は昔、タイから留学僧として日本に派遣されて、愛知県の名古屋の『ニッセン寺(現日泰寺)』と言うお寺に三年ほどいました。昔、シャムから差し上げた仏舎利が奉安されているお寺です」

 非常にきれいな日本語であった。住職はプラサートと言った。住職によると、「ニッセン」の漢字は「日暹」と書き「シャム」の漢字の「暹羅」の暹をとって、日本とタイを表す日暹(現日泰)寺(寺)としたそうである。

 ワット・チャンタと言うこのお寺には一週間ほど世話になった。住職とは久しぶりに日本語で話す事か出来、何故かこれまでの疲れが一気にとれた気がしたものである。住職が、佐藤の事を日本人だと思ったのは、佐藤のタイ語に日本人独特の訛りが有ったからのようだ。

 日本語が出来る住職がいる事から、時々警察が様子をうかがいに来ているようであったので、住職に迷惑をかけてはいけないと思い早々にお寺を出ることにした。

 チェンマイから二日ほど徒歩で南下して、バーン・プリックと言う町の郊外の農村に辿り着いた。警察はどうやら町中にしかいないらしく、この村には人の出入りが殆どなさそうで、何か事件でもない限りは警察がやってくる気配はなかった。十数戸の農家で構成されているタ・サックと言うこの村は、身を潜めるには絶好の場所に思えた。

 ここでは、正直に自分は元日本兵であるが、恋人をナコンパトムに残して来ている。今捕まって収容所に入るわけにはいかない。お礼は払うので、暫くの間匿ってもらいたいと村長に掛け合った。ところが村長はお礼なんかいらない、何時まで居ても良いと言ってくれたのである。

 村長の話によると、かつて日本の兵隊がトラックで食料を買い付けに良く来ていた。どうやら、道路建設の工兵達であったようで、殆どとても良い人たちで、村の子供達に歌を教えてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのだそうだ。

 戦争が終わり、収容所に連れて行かれることになった時には、彼らが持っていた様々な工具やヘルメット、飯盒などの装備品を置いていってくれた。村人は皆日本兵に良い印象をもっているとの事であった。

 結局、このタ・サック村で取り合えず腰を落ち着ける事となった。ラチャマイの待つナコンパトムに戻らなければと言うはやる気持ちはあったが、村長が「相変わらず警察が捜しているようだ、ここにいれば安全だ」というので留まる事にしたのであった。

 一九四六年三月のことだ。

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