五.三 パッポン・ソイ 二
今年は雨期入りしてから、例年になく日本の「梅雨」や「秋の長雨」の様に、一日中ダラダラと降ったり止んだりする鬱陶しい日が何日か続く事があった。そうした日は雲が厚く、湿気は高いが幾分か涼しかったりする。
そんな雨もよいの夕刻時、左右田恒久は仕事を終えてから何となく直ぐに自分のコンドミニアムに帰る気がせずに、シーロム通りからパッポン通りソイ二に入って少し行った所に有るアイリッシュ・パブでビールを飲みながら、パブに置いてある三日遅れの英字紙のフィナンシャル・タイムズを読んでいた。
カウンターの中のタイ人の女性バーテンダー達が、自分の事をチラチラと見やりながら、声をひそめてあの人何人だろう中国人かな、日本人かな?格好いいわよね、などとクスクスしながら言い合っていた。
きっと、タイ語は分からないと思っているのであろう。多少声をひそめてはいたが、恒久には聞こえていた。時折彼女達は、カウンターの下に置いてある食べ物や飲み物を口にしながらおしゃべりをしている。
《あー、ここはタイなんだなー。客のいる目の前のカウンターの向こうで飲み食いとは。日本にある様な「お客様の前で」というような概念が無いんだ。でも、こうした社会の「緩さ」がタイの魅力の一つなんだろうなー》
そんな事を考えていた時に、それまですっかり忘れていたようにしていた「あの兵隊の写真」の事を何故か「フッ」と思いだした。
《そう言えばナリサさんの所で親父とナリサさんのお母さんとの写真を見せられた時に、一緒に有った写真の「佐藤」と言う軍人って、ひょっとしてタイ住井の現地スタッフのOBの佐藤さんって言う事は無いよな》
恒久は、ナリサから写真を見せられた時、自分の親父が映っていた写真に気を取られ、佐藤と言う人の写真の事はすっかり忘れてしまっていたようにしていた。
《思い起こしてみると、日本軍の元将校で残留兵と言う経歴が、OBの佐藤さんに確かに似てはいるけど、ナリサさんは、その人は亡くなったと言っているし、佐藤という姓は特に多いので、あの佐藤さんとは同姓の別人なんだろうな。写真と比べると面影がある様な気もするし、全く他人のような気もする》
目の前の新聞はなんとなく目で追っているだけだった。
恒久はビールを飲み干すと新聞から目を離し、手垢にまみれた兵隊の写真をじっと思い出していた。
《一寸待てよ、確かあの兵隊さんの写真の裏には「佐藤孝信」と書いてあったな……。そう言えばうちのOBの佐藤さんの名前って何だろう》
ビールが効いてきたせいか、あの写真と佐藤の事が頭の中をグルグルと駆け巡った。
《違うとは思うけど念のため総務に名前を聞いてみるか。ま、別人だとしても、あの兵隊さんの事を何か彼は知っているかもしれないし話題としては面白いし。しかし、それにしてもあの「オヤジ」とナリサさんのお母さんとがいかにも仲良さそうに映っている写真、それと一緒に入っていた二百バーツ、気になるな――≫
外国で、見知らぬ女性と仲良く写真に納まっている父親の写真が、「オヤジ」もそう言えば「男」だったんだと言う事を恒久に思い起こさせた。
「佐藤さん、この間は大変有難うございました」
二週間ほど経ったある日、恒久が、帰りがけの元現地スタッフOBの佐藤に声を掛けた。社長の所に何か報告に来た様子であった。
「佐藤さんが仰っていた通り、新たな駐在員事務所設立に関する規則が昨年の四月二十五日付の官報に既に公示されていました。お蔭様で大変助かりました。有難うございます」
「その官報の内容を見たら、駐在員事務所は直接的な営利活動が一切出来ないのは他の国と同じなんですが、始めの五年間で五百万バーツ(当時の為替レートで約三千二百万円)以上を、事務所運営経費として海外の親会社等から送金して来ることが必要となっていて、初年度は二百万バーツ(約千二百八十万円)以上の送金が必要なんだそうです」
タイで工場を立ち上げようとしている日本のある電機部品用のプラスチックの成形メーカーが、のっけから現地法人を設立するか、準備の為に取り敢えず駐在員事務所をまず設立して駐在員を置くか、出張ベースで行ったり来たりさせるか迷っている。それぞれのメリット、デメリットを調べたいので、駐在員事務所の規則みたいなものがあれば欲しいと言われていて、佐藤に電話で聞いたら外国人事業法に係る商務省の新しい省令が昨年出ているはずだからと教えてくれたので、そのお礼と省令の内容を報告したのであった。
この時期は、急速な円高の進行でまずは現地事情の把握のためにと駐在員事務所を置く企業が多かった。
「それから、佐藤さんお引止めして申し訳ありません。つかぬ事をお聞きしますが、佐藤さんは元日本軍の将校で、戦争中、タイに駐屯されていたって言われていましたよね。ひょっとしたら、ナコンパトムにおられてその後ビルマ(現ミヤンマー)の方に行かれませんでした?すみません、失礼でしたらお許しください」
先日、総務にOBの佐藤の名前を聞いた所、驚いたことに「佐藤孝信」だと言うのだ。なんとあの写真の人と同姓同名だったのだ。
「あはは、何を言い出すのかと思ったら……」
既に頭が真っ白になっている佐藤は孫を見るような目で恒久を見て笑った。
「バンコクにいた日本兵の多くは、ナコンパトムとカンチャナブリを通って、映画にもなったあのクワイ川に架かる橋を渡ってビルマに行ったんだよ。
インパール作戦と言って馬鹿な戦争でね。
それはそれは沢山の兵士が死んでね、私もタイに戻る途中に、ビルマのタイ国境に近い所で被弾した上に、赤痢にやられたりして危うく死にかけたんだ。当時、日本兵の殆どは病気か栄養失調や飢餓状態で亡くなってしまったんだよ。
私みたいに敵の弾に当たったのはむしろ珍しい方なんだよ。弾には当たるは病気になるはで、生きながらえたのはホントに珍しいケースだね。
ただ、恒久君、大東亜戦争で日本は東南アジアの国々の独立を西欧諸国から勝ち取ったんだよ。そこはむしろ日本人として私は誇りを持っているんだ。あの戦いは本当に犠牲が多かったものの、決して無駄ではなかったと思っているんだ。
個々に戦術的な問題は無かったとは言わないよ。弱い人間のやることだしね。でも、戦略目的は間違っていなかったと思っていたし、今ではそう確信しているんだ。
確かに日本の国土はすっかり荒れ果ててしまい、最後に無条件降伏をした。でも、実は戦争を仕掛けるようにしたのはアメリカなんだよ。日本のアジアにおける存在感と影響力の大きさにアメリカと英国が危機感を持った結果なんだよ。
簡単に言えば、自分たちのアジアでの権益が侵されると思ったからなんだ。日本は戦争しないで出来れば植民地解放したかったんだがね。
日本はアメリカに止められてかこの辺りの事を学校で詳しく教えていないようだね。
タイはこの辺りでは唯一の独立国だったんだが、インドネシアはオランダが、ビルマ(ミヤンマー)とマレーシアは英国が、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスが、フィリピンはアメリカが植民地にしていたんだ。ほら、君も良く知っている、タナー・エンタープライズのサマート君のお父さんのユッタナーさんも私の意見に賛成でね。だから彼は親日的で日本とのビジネスに熱心なんだよ。もっとも、彼が戦前に日本に行った時に出会った日本の女性に恋をして以来日本が好きになったとは言っていたけどね」
弾が当たったらしい腿の辺りを、ごつごつした手でさすりながら思い出すように佐藤が言った。
「ゴメンゴメン、つい昔話が出てしまって。で、何でだい?」
佐藤は謝りながら聞いた。
「いや、確かに学校で戦前戦後辺りの事は詳しく習わなかったですね。今は、何か日本を悪く言ったり書いたりするのが、進歩的文化人かのような変な風潮がありますね……。
あ、すみません、それで同姓同名の方なんですけど、『佐藤孝信』と日本語で裏に書いてある兵隊さんの写真を、この間タイ人の女友達の所で見せてもらったものですから。
その佐藤さんは戦争中にビルマで亡くなってしまったんだそうです。私のタイ人の友達は、写真の元の持ち主の人の孫にあたるそうです。裏にタイ語でその写真の持ち主の佐藤さんの恋人だったと言う人が書いたらしいんですけど、トヨハシーシ出身と書いてあるので豊橋市出身だと思います。で、ダイ十五シダン・ショーイとあるので第十五師団少尉……」とまで恒久が言うと、佐藤は目を見開きひどく驚いた顔をした。
恒久は、佐藤が、同姓同名で似たような出自の人がいたもんだと、驚いているんだろうと思い、続けた。
「それで、ナコンパトムの日本軍の病院を守っていたと言っていたので、守備でもしていたんでしょうね、その内ビルマに行って帰ってこなかったらしいですよ。写真の佐藤さんの恋人だった人は、戦争が終わる少し前にその佐藤さんが亡くなってしまったと聞き、悲嘆のあまり体を壊して終戦後すぐに亡くなってしまったそうです。」
「……」
佐藤はじーっと恒久の顔を見ながら暫く黙っていた。
「もしかして、その同姓同名の佐藤さんて言う方の事を何かご存知かと……」
恒久は、不審げに聞いた。
「すまん、すまん、いやね、私が知っている人の話とあまりにも似ているもんだからビックリしてね。でもその人にお子さんやお孫さんがいると言っていたので、僕の知り合いとはちょっと違うと思うけどね。
しかし、ナコンパトムの病院の守備隊に同姓同名の人間がいたとは気が付かなかったなー。その佐藤さんのお相手の人の名前は何と言うんだろうね」
「そうですね、機会が有ったら聞いておきます。すみません。変なお話をしてしまって」
恒久は、佐藤の意外な反応に戸惑いながら言った。
写真の人は既に亡くなってしまっているとナリサが言うので、住井タイに長く勤めていた佐藤が同一人物だと言う可能性は殆どないと、恒久は思っていた。佐藤と言う苗字は一等多いし、孝信と言う名前も結構多そうな名前である。単に同姓同名だろうと端から思っていたのだ。
そもそも、佐藤にその話をしたのは、同姓同名の人の写真を見たと言う「偶然」が話題として面白いと思ったからなのだ。
だが、佐藤の複雑そうな顔を見て余計な事だったのかも知れないし、何か昔の嫌な記憶に触れてしまったのかもしれないと、恒久は後悔した。
恒久の先輩の話によると、OBの佐藤孝信はいわゆる残留日本兵で、タイ住井が現地法人になった一九六〇年頃からタイ住井に勤めていたようだ。恒久が初めて出張で来た一九八三年頃には既に定年で辞めていたが、アドバイザーとして週に何日か事務所に来ていた。その後、佐藤が六十五才になった頃にはすっかり辞めていたものの、引退したとは言ってもタイ住井では、時折相談に乗ってもらっていた。
佐藤は、タイ語と日本語の通訳はもとより、仕事を通じて培ったタイの政財界や警察の知人も多く、「顔」や「コネ」社会のタイでは、大変に貴重な存在であったのだ。
佐藤がタイ住井で働くようになった時代、家電製品はまだバンコクでも扇風機以外は一般家庭には殆ど普及していなかった。当時ベトナムでの戦争がエスカレートし始めており、米国の落とすお金が大きく、「戦争特需」と言うほどでは無かったものの、タイ経済へのインパクトは徐々に大きくなってきていた。
一九六〇年代央に、佐藤が裏方となって手掛けたのが、エアコン、テレビ、冷蔵庫などの家電製品の製造工場であった。日本側は住井物産、住井電機とタイ側はユッタナー・ラータナワニット率いる新興財閥グループの持ち株会社タナー・エンタプライズとの合弁事業が多かった。
七十年代に入って、経済の成長と共に家電の需要が伸び始めたことから、佐藤はやはり表にこそ出なかったが、住井を中心に日系メーカーやユッタナーと組んで、家電製品の販売会社の設立、更にはオフィスビルの建築とその賃貸、また住宅、宅地分譲なども手掛けるようになった。
八十年代に入ると、佐藤はカラーテレビのブラウン管製造やパソコン用のフロッピーディスク・ドライバー(駆動装置)の製造会社の設立などに尽力し、タイ経済の伸長に応じて住井物産のタイでの事業拡大に大きく貢献してきたのであった。
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