五.二  ランシット(二)

《それにしてもあの写真の男の人そっくりだったなー》

 自分の部屋に戻ったナリサは、チラッと見ただけだが、母親と一緒に写っていた男が恒久にそっくりであったのに驚いていた。 

 咄嗟に母に問い質そうと思ったが、床に落ちた写真を手に取って見て「あら、この

 人…誰?」と聞いて、母の顔を見た時、一瞬、何故か触れてはいけない母の古傷に触れてしまったような気がしたので、それ以上は聞けなかった。

 母の年下の同棲相手の、といっても既に十五年も一緒にいるので亭主同然の、マニットに対する何時もの高姿勢な母とは違う、乙女の表情をつかのま見たような気がしたのである。

 と言う事は?今までおかしいと思っていた事が有った。自分の父親が誰かと言う事だ。母やおばさん達の話をあれこれと繋ぎあわせると、自分が生まれたのは母が父と別居中の時の事だったようなのだ。

 だとすると、本当の父親は誰かと言う疑問を持たざるを得ない。かといって、今さら母に問い質す勇気はないし、何となく聞いてはいけないよう気もしている。しかし、母が瞬間見せたあの表情。ひょっとして、あの写真の人が本当の自分の父親なのだろうか?姉のマユラはやや色黒だが、自分はタイ人にしては色白である。そうは言っても母も白い方だし、日本人のお爺さんからの隔世遺伝と言う事もある。

《それもそうだけど、あれってジームさんそっくりだったなー。ひょっとして彼のお父さん?まさかね。そんな偶然あるわけはないわ。でも、もし万に一つの可能性があるとしたら、ジームさんと私は兄妹?》

 折から、雷鳴が轟き雨が激しく降り始めた。

 ナリサには激しい雷鳴と稲光が、恒久と兄妹という疑いを、いかにも「そうだ」と、肯定するかのように聞こえた。

 ナリサは胸の鼓動が早くなるのを感じていた。

 そういえば出会った始めの頃、ふっとお兄さんて、こんな感じなのかなと思った事があったのを思い出した。

 あれこれ考えるに従って、ナリサの心臓は高鳴り、頭に血が上り、だんだんと体が熱くなって、汗が脇の下からTシャツの下の脇腹をつっーと伝って落ちて行くのを感じた。

 あの様子では本当の事は言ってもらえないと思い、母には悪いがこっそりもう一度あの写真を見てみる事にした。

 なかなか寝付かれず悶々としている内に外が明るくなって来た。遠くで電話の音がしていた。ハッと気が付くと自分の家の電話だ。どうやらうとうとしていたらしい。母が電話を取ったようで、母の声が聞こえた。


 朝早く、母はタラート(市場)に向かった。マニットが蜂蜜の他にトウモロコシを仕入れてきたので、直接市場に行くと言う電話があったからだ。ここ数日は、曇りがちで比較的涼しく、今日も曇っていたが、雲が高く、昼間に雨が降る心配はなかった。

 この所、雨は夜中に降る周期になっているようだ。

 あとふた月半もすると乾季が始まる。

 ナリサは、後でアパートに帰る時に戸締りをして帰るからと言って、母を送り出した。母が出て行くと直ぐに写真を探し出した。昨夜写真を見た時に開いていた戸棚の引き出しに目星をつけていたのだ。母に内緒事をするのは初めてであったが、どうしても見たかったのだ。見ないと気持ちに収まりがつかなかった。再び胸が高鳴り脇の下に汗をかき始めた。

 祖父の写真は何度か見せて貰っていた。その写真は祖母が大事に握りしめていたのであろう、四隅の角がすり減って少し丸くなってしまっていた。

 濃い眉毛に優しそうな目、しかし、きりりと結んだ口はいかにも軍人らしく、ナリサはこの写真を見ると何時も誇らしい気持ちで胸がいっぱいになるのであった。

 問題の写真と一緒に、古びた二十バーツ札が十枚ほど一緒 に入っていた。お札の王様の絵柄は、今の王様よりもとてもお若く、デザインも少し違っている。この写真を撮ったと思われる当時のお札であろうと想像された。

 こんなお金を写真と一緒にしまっておくのは何か理由があるのかなと思いながら、少し黄ばみ始めている母と恒久に似た男が映っているカラー写真を見た。 

 心なしか恥ずかしそうな母の隣で微笑んでいる男は、見れば見るほど恒久に似ていた。

 体が熱くなった。

 恐る恐る裏をひっくり返してみると、戦慄が走り、しばし呆然とした。

 何とそこには、写真の男が書いたとみられる漢字とローマ字で、「左右田源一郎 Genichirou  Soda」と書いてあり、その下に母の字で「ソーダーとオリエンテン(オリエンタル)・ピア(桟橋)にて、二五一〇年三月十二日」とタイ語で書いてあった。何と恒久と同じ姓ではないか。

《—―左右田と言う姓が日本では多いのか少ないのかわからないけど、ここまで顔が似ていて苗字まで一緒と言うのは、この写真の男はジームさんのお父さんって事?》

 レックは混乱した。

 仏歴二五一〇年と言うと西暦一九六七年で、自分が生まれる前の年である。三月と言えば既に母と父は別居していたはずだ。

「と言う事は、まさか……この男が自分の?」

 ナリサの頭の中を困惑と唖然と疑惑が渦巻き、暫く呆然とした。

 この写真をジームさんに見せなくては。自分の父親でないとしても、もしこの写真の男が彼の父親だとしたら……。

 少なくとも自分の母親と彼の父親とは、昔会ったことが有るのだ。

 そんな偶然なんてこの世にあるのだろうか?どんな関係だったのだろうか?

 お祖父さんも日本人、お父さんも日本人となると、自分は四分の三が日本人と言う事になってしまうではないか。

 ナリサの手が自然と電話機を握って、恒久に電話していた。日曜なので家にいるだろうと考える余裕は辛うじて有った。


 早朝に電話を貰った恒久は、見せたいものがあると言われて、何事かと思いつつバスと乗合トラックを乗り継いで、再びランシットのナリサの実家に駆け付けた。

 ナリサの実家に着くと、玄関の前でナリサが大きな一枚の茶色っぽい花柄のサロンのような布の端を手と口を使って持ち、上手に体を隠しながら、高さが一メートルもある大きな水瓶から柄杓で水をすくい、布と体の隙間に水を掛けながら水浴びをしていた。恒久が来たのに気が付くと、「キャッ」っと言ったかと思うと、「どうぞ中へ」と言いながら家の中に駆け込んで行った。

 大きな水瓶は日本で言う「つくばい」みたいなものなのであろうか。雨水を溜めるのと同時に水道の蛇口もついている。外から帰って来た時に手や足を洗ったり、暑い時に水浴びをしたりするのには便利そうだ。

 水がめの横にはプルメリア(リーラワディ)の樹が植えられているが、時期ではないのか花は殆ど咲いていない。

 Tシャツとジーンズに着替えたナリサは、恒久が落ち着く間もなく、まず祖父の写真を見せた。

「あー、佐藤孝信さんて言う名前なんだ……。これって何時かナリサさんが言っていたお祖父さん?」

 恒久は、写真の裏の薄くなりかけた文字を見ながら言った。

「そうなの、でも、はい、こっちの写真」

 ナリサは母親と男が写っている写真を渡しながら、恒久の反応を窺うように固唾をのんで見つめた。

「大分古い写真だね。あれっ、これお母さん?あっ!この人、ちょっと待って。何か。否(いや)……!」

 恒久は、訳が分からないと言わんばかりに独り言をいいながら、思わず裏をひっくり返した。

「……。オヤジだ」

 ナリサの顔をまじまじと見ながら恒久は言った。

「お父さんの名前と同じなの?ゲンイチロウって。ソーダーって書いてあるから、ジームさんと同じ苗字だと思って。顔もそっくりだし」

 相変わらずまじまじと恒久を見ながら彼女が言った。

「なんでナリサさんのお母さんとオヤジが一緒に写っているんだろう……。そう言えば、二五一〇年って、一九六七年、二十年近く前だよねぇ。僕が九才の頃だ。その頃、オヤジは出張でバンコクに来たって言っていたよ」

「やっぱり、ジームさんのお父さんなのね?」

「だって、これだけ似ていて名前まで同じなんだから……。ナリサさんのお母さんなんて言っていた?」

「うん、母はね、『別に誰でもないよ。昔、果物売りをしていた時にちょっと知り合った人で、捨てても良かったんだけど取ってあったんだね』と言っていたけど、なんか聞いてはいけない様な雰囲気だったので、それ以上何も聞いていないの」

 この時、恒久は、二人の間に何かがあったとはいささかも考えなかったし、失礼だが記念にそこいら辺にいた果物売りと一緒に、写真を撮らせて貰ったんだろう位にしか考えていなかった。

 所が、ナリサの話を聞いている内に瞬く間に疑惑が湧いてきて、表情が凍り付いてしまった。なんと、彼女自身大分前から自分の父親が誰なのか疑問に思っていたようであった。また、お祖父さんの写真と一緒に大事そうに仕舞ってあった様子からすると、相当大切な人であったのではないかと言う事が窺えた。

 そう思ってみると、彼女に初めて会った時に、ふと妹の香菜に似ていると思った事があった。まじまじと見るとこれと言って似たところはないが、全体の雰囲気がどことなく似ている気がしたのだ。

 疑惑の写真を手に固まってしまった恒久を見て、ナリサはめまいを感じた。

「所で、これってナリサさんのお母さんに内緒で見ているんでしょ?」

「うん」

 二人は、まじまじと見つめ合った。

兄妹きょうだい?」

 二人は同時に声を上げ、また見つめ合ったかと思うと、苦笑しながら「まさかね」と言う顔をした。

 もしそれが事実だとすれば、二人にとってあまりにも信じがたい話であった。

「しかし、なんかオヤジに聞きにくいなあ、聞くのが怖い気もするしね。ナリサさんもお母さんに聞き辛いよねえ」

「――うん。ちょっとね」

 二人はお互いの顔を改めて見つめながら、大きくため息をついた。

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