第五章 リーラワディ(プルメリア) 一九八八年
五.一 ランシット(一)
一九八八年八月
八月と言えば、バンコクの位置するタイ中央部では雨季作の稲の播種もほとんど終わり、移植用の稲の植え替えが本格化している時期である。
そんな八月のある夕刻、夕食の用意を終えたプラニー・ムンポットジャーンが、昨日は夜半に雨が降ったので、それからすると今日はまだ降らないだろうな、などと思っている所に娘のナリサが友達を連れてきた。
「メー(お母さん)、こちらツネヒサー(恒久)さん」
次女のナリサに左右田恒久を紹介されたプラニー・ムンポットジャーンは、《あれ、どこかで見たことが》と思いつつ、良く見た瞬間にハッと息を呑んだ。
若い頃にチャルンクルン通りで果物売りをしていた時に出会ったあの日本人にそっくりであったのだ。一瞬の動揺を悟られないように気を付けながら笑顔で挨拶をした。
ナリサの日本人の友達がタイの一般家庭の料理が食べたいと言うので連れてきたのだ。「
彼が帰ったその夜に、娘が寝てしまった様子なので、父親の佐藤孝信の写真と一緒にしまってあった一枚の写真と十枚ほどの二十バーツ札を、居間の床に座って封筒から取り出した。その写真は、チャルンクルン通りで会った「ソーダー(左右田)」と言う日本人と、チャオプラヤのオリエンタル・ホテ)の横にある船着場で撮った写真であった。
深い淵から亡霊のようにあの男の記憶が浮かび上がってきた。
それにしても世の中よく似た人がいるもんだと思った。
《日本人にはあの手の顔が多いのかな》
プラニーは独りごちた。
ほぼ二十年経っており、写真は古く色褪せていた。彼が帰ってから、一、二度取り出して見てみたことはあったが、ナリサが生まれてからは写真の事はすっかり忘れたようにしていた。
だが、今日ナリサが連れてきた「ツネヒサー」があまりにもあのソーダーに似ていたので思いだしたのだ。
一瞬彼が来たのかと思ったほどだ。
プラニーにしてみればこの時点で、まさか恒久に左右田と言う苗字がついているなど思いもよらなかったし、「恒久」は苗字だと思ったのである。
《なんか本当に良く似ているわ……、この写真の男と。そう、そう、あの時だ》
プラニーは写真を手に、あの時と、あれから自分が辿って来た道のりをぼんやりと思い出していた。
「来週日本に帰る。メナムで写真を撮ろう」
「ソーダー」が、あらかじめ用意しておいたらしいメモを読みながら、カメラで写真を撮る仕草をしながら「あの」笑顔で言った。
桟橋で、居合わせたファラン(外人)にシャッターを押すように頼み、二人で肩を寄せ合うようにして写真に納まった。その日彼は仕事が休みだったらしく、お昼は屋台で買って川べりで一緒に食べ、午後は二人で過ごした。
彼が日本に帰る前日に丁度この写真が出来上がってきたらしく、「はい」と言って写真をくれた。写真を封筒に入れる時に、チラッと封筒の中にお金らしい物が見えたので、プラニーは、なに?と言う顔をしたが、彼はニコニコしならが顔を横に振るだけで返事をしなかった。
「今度はいつ来るの?」
プラニーは返事を諦めて、一番聞きたいことを聞いた。
「うーん、分からない」
彼は首を振りながら残念そうに答えた。
別れの言葉はなかった。お互い言いたいことは分かっている。
「ソーダー」はあの優しい笑顔を残して去って行った。
プラニーが、泊まらせてもらっているプンのアパートに帰ってから封筒を見てみると、二十バーツ札十枚、全部で二百バーツ(当時のレートで約三千四百円)もの大金が入っていた。
《――なんで、お金なんか……、今度会ったら返さなくっちゃ》プラニーは写真と一緒に二百バーツを封筒にしまった。もっとも、お互い住所を交換していないし、また会うなどとは思ってはいなかったが、お金なんかもらうのは嫌だったのである。
それからしばらくして、プンのアパートからシーロムのマライ伯母さんの所に移りナリサが生まれた。
ナリサが生まれた翌年だったか、大変世話になったプンが自殺した。
プンは、ラジャダムリ通りとプルンチット通りの交差点の所のBOACと言う英国の航空会社のビルの近くにある「ムーン・シャドー」というナイトクラブのホステスをしていた。ほぼ斜め前にエラワン寺院がある。
伝え聞くところによると、どうやら痴情のもつれらしく、日系の工場建設をしていた責任者の日本人をそのクラブの中で射殺し、自分も自殺を図ったらしい。一九六九年九月の事であった。 日本の製品や日本企業、日本人がタイに急速に入って来ていた時期である。
プラニーは知らないが、プラニーがプンの所で世話になっていた時に、プンはムーン・シャドーで一度左右田源一郎の席についたことが有ったのだ。左右田は、プラニーがプンとは幼馴でプンの所に世話になっている事など知る訳もなく、プンは、プラニーと左右田とが知り合いなどと言う事も知る由もない。
ナリサの手が少し離れるようになり、プラニーがまた果物売りに出るようになった頃、バンラック市場で仕入れをしていた彼女の前に、ナコンパトム郊外の叔母のモンテワンの家の近所に住んでいたマニット・タラナットがヒョッコリ現れた。
二才年下の彼とは、小学校が一緒で、卒業してからも近所付き合い程度の友達であったが、彼女が十四,五才の頃に彼はバンコクの方に引っ越して行った。
マニットは昔からプラニーの事が好きで、彼女が離婚したという話を聞いたので会いに来たとの事であった。プラニーが二十六才の時である。
マニットは、元の夫のプチョンと同じように、野菜や果物をあちこちから集荷し、卸売市場でバンコク市内の卸売や小売業者に卸していた。市場はランシットにあり、家は親が残してくれた遺産が有って、ランシットに当時新しく出来たリバーサイド・パークと言う、近代的な大規模開発の分譲住宅地のテラスハウスに住んでいた。ランシットはバンコクからパホンヨーティン通りを北に真っ直ぐ上がりドンムアン空港を越えた先にある。
いつの間にかプラニーは二人の娘とランシットのマニットの家に住むようになっていた。伯母のマライと養女のナンタワンは寂しがったが、シーロムの家にいつまでも甘えて住まわせて貰っているのは心苦しかったのだ。
マニットは、性格が穏和で長女のマユラと次女のナリサをとても可愛がってくれた。二人の子供も良くマニットに懐いていた。マニットは結婚したがったが、プラニーは、結婚はもうこりごりであったのだ。
十五年ほど経った今も籍は入れていないが、事実上結婚したも同然の状態で、おたがい結婚の話は今や忘れたようにしている。
マニットは稼ぎがとても良く、また長女のマユラも中学を卒業すると、近くのパホンヨーティン通り沿いにあるタイ・レモンと言う、繊維メーカーに勤めに出たので、ナリサを高等学校まで通わせることが出来、さらには日本語まで勉強させることが出来たのだ。
マユラは今や結婚して近くに住んでいるが、相変わらずタイ・レモンに勤めている。
次女のナリサは、高校を卒業すると同時に運よく、日本の「ジャスト」と言うオーディオ関連会社の駐在員事務所に就職し、同時にオープン大学のラムカムヘン大学で勉強している。大学は通信教育的なもののようで、たまに土曜と日曜にフアマークにある校舎に通っている。ツネヒサーとは会社の関係で知り合ったようだ。
マニットは、今夜バンコクから北に250キロほどの所にある、ナコンサワーンに蜂蜜を買い付けに泊りがけで行っていて居なかった。
プラニーが、「ソーダー」の写真を手に、昔の事などを思い出しながら相変わらず物思いにふけっていると、
「メー(お母さん)」
と、寝てしまったかと思ったナリサが後ろから声を掛けてきた。普段ナリサは、ジャストから比較的近い、プラトゥ―ナム近くにあるアパートに一人で住んでいるが、明日は休みなので久しぶりに泊っていくことにしたようだ。プラニーは、慌てて出していた写真と二百バーツをしまおうとした。
「何を見ていたの?」
「うん?うん。あなたのお爺さんの写真をね。ちょっと思い出したから」
プラニーは誤魔化した。
その時、左右田と撮った写真がひらりと床に落ちてしまった。いかにもその写真がナリサに見て貰いたいかのように、プラニーの横に座ったナリサの目の前に表向きに落ちたのであった。
「あら、この人…?誰…?メーと一緒に写っている……」
ナリサは一瞬アッと言う顔をしたが、プラニーの顔をチラッと見ると、何もなかったように目の前の写真を拾って、プラニーに渡しながら聞いた。
「別に誰でもないよ。むかーし果物売りをしていた時にちょっと知り合った人だよ。捨てても良かったんだけどまーだとってあったんだねー。所で、あの人とはどうなんだい?」
プラニーは動揺を見せまいとナリサから慌てて写真を取りながら、話題を変えた。
「どうって?」
「好きなのかい?」
「勿論好きだけど、お兄さんみたいな気がしているの、彼も私の事を妹みたいに思っているみたい。でも今日はありがとう。とても美味しいって言ってたよ」
「辛くなかったかな?」
「いや彼、辛いのが好きみたい。特に、魚のカレー煮が美味しかったって。辛いのにね」
恒久の事となるととても嬉しそうな表情になる所を見ると、お兄さんみたいとは言うもののナリサは彼の事が好きなようだ。
《日本人を好きになるのは、母親のラチャマイの血筋かな。でも、昔会ったことのあるこの写真の男とツネヒサーが、そっくりだねとかなんとか言えばよかったなー。この子も、二人が似ているのに気が付いたかしら。それにしても似ていたけど、日本人ってあんな顔が多いのかな……。ま、なんかごちゃごちゃ言い訳をしたりすると余計変だし》
プラニーは、「男」の写真を、祖父の写真と一緒にいかにも大事そうに取って置いた自分の事を、この子はどう思っただろうなどとあれこれ考えていたが、ナリサは「ふぅーん」と言っただけで一応納得したような様子であったので、それ以上何も言わなかった。
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